「互いに重荷を担う」伊丹教会・城下忠司長老2010.5.16

  CIMG7604.JPG聖 書「ガラテアの信徒への手紙6110

 ◆信仰に基づいた助け合い

  1:兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。2:互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。3:実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。4:各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。5:めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

  6:御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。

  7:思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。8:自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。9:たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。10:ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 

【はじめに:神の言葉としての教会規則】

私たちの改革派教会は、学ぶ教会だと言われています。他教派のことは良くは知りませんが、教会では教理の学び、修養会など、神学校でも、西部中会でも色々の場が用意されています。

 

教会を建てあげていくのは、信者一人一人の信仰、愛の実践が大切で勉強はその次だと思われる方があるかも知れません。私たちの教会が系統だった学びを続けているのは、教会は一時の慰めを与えてくれるだけの場所ではなく、神さまの前に礼拝を捧げ、自分が満足して帰るだけというような場所とも違うのだ、ということをよく理解しているからです。

 

天地創造以来、神さまは私たち人間に特別な関わりをもち、特別な愛をあらわし、歴史の中で様々な出来事を通して、多くのものを与え続けてこられました。この神さまの側から私たちに与えられたよき音信、聖書という書物をとおして、私たちに論理的にきちんと理解し、納得させ信じさせてくれるものが神学です。私たちの改革派教会の神学というものは、宗教改革以来何百年もかけて作り上げられてきた信仰の基準といわれているものであります。ウエストミンスター信仰告白、大小の教理問答や、信徒の手引き、そして政治基準、訓練規定などです。

 

【信仰と学び】

教会では聖書の学びの機会は沢山用意されています。それらを重んじ、参加していくことが大切であると思います。信仰を系統だてて、より深く学んでいくとき、それは大きな力になっていきます。従って、私たちのこうした学びが神さまをより深く正しく知ることになり、自分自身をも良く知ることが出来るようになり、さらに兄弟を愛することのできる信仰へと成長させられていくのです。こうして深い信仰の確信が与えられて、肉親に対しても友人に対しても福音を伝えることに、熱心になることができるのではないでしょうか。

 

【互いに重荷を担うために】

さて、5章の2526では、私たちが霊と肉との日々の戦いの中で、霊の導きに従っていくとき、自由と愛に生きることができると教えられました。今日お読みました御言葉では、2節の「互いに重荷を担いなさい」という命令に従うために、大切なことを教えられたいと願っています。

 

【罪を犯した兄弟に対して、柔和な心で正しい道に導く】

まず、自分自身を知る、自分自身を評価するということが語られます。

                  

私たちは実際には何者でもないのに、ひとかどの者と思ってしまうことがあります。高ぶりは、愛する兄弟を正しい道に導くことはできません。

 

【聖霊に導かれるキリスト者】

1節では、キリスト者である私たちは"霊"に導かれて生きている者だと語ります。パウロ自身はイエスさまから信仰を与えられ、聖霊に導かれていることを体験していますから、兄弟の重荷を担うことができました。私たちもまた、兄弟の誰かが何かの罪をおかした時、私たちは彼らの重荷を共に負うことができるのです。聖霊によって自分の生活が導かれているならば、兄弟を立直らせることができるのであります。

 

また、兄弟が苦しみや不安や悩みの中にあるとき、愛をもって助けることができるのであります。兄弟であるキリスト者がある罪を犯したとき、私たちほ彼らに対して、はたして寛容でいられるかどうかが問われます。パウロの語らんとしているのは、その罪が何であっても、苦しみの中にある人々を助けるという問題について、私たちが心をくだかねばならないことを教えています。それが、身勝手な仲間、兄弟姉妹であっても、ということなのです。

 

兄弟が罪を犯して、そのことを、後悔していようが、或いはいなくてもそれは大きくは本人と神さまの間の問題ですから、もし、兄弟が罪を犯したとき、私たちはどう対処すればよいかが問われているのです。誰が、どんな罪を犯しても、パウロはすべて、助けから除外してはならないと勧告しているのです。

 

【教会憲法】

私たちの教会には憲法があります。「信仰基準」訓練規程」「礼拝の指針」というものです。この「訓練規程」は決して処罰するというような、この世の裁判規定ではなく、この規定の精神はあくまで、回復であることを覚えたいと思います。訓練規定は乱用されるものではなく、立ち返らせる手段であるということです。或る先生は「回復とは破壊したものを再建することである。」と語っています。

 

罪を犯した者に報復するとか、懲罰を与えるとか、罪の償いをさせるための裁きの場ではないということであります。ここには、「柔和な心で」しなければならないと勧められています。自己満足や自惚れなどはその人に恩着せがましい高慢な気持ちを生み出します。さらに、他人の欠点ばかりがよく目につき、自分自身の欠陥については気付かなくさせます。自分の罪については気付くことに鈍くなるということでしょう。

 

【御霊の結ぶ実】

柔和という徳がでてきますが、結ぶ実の一つとしてガラテヤ523に示されていました。それは、私たちが、キリスト者として成長していく時、神さまから与えられる、素晴らしい果実としていただく、沢山の果実の一つであります。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制です。

           

【自分自身を吟味し、自分の重荷を担う者であれ】

さて、重荷ということについては、ここでは具体的にどんな重荷であったかは示されてはいません。人には色々な重荷があります。病気が第一かもしれません。家庭の問題や仕事上のこと、人生における苦しみ、内なる罪の重荷、道徳的な過失、あるいほ弱さということにしても、総ての人はこの重荷を負って生きていると言えます。パウロは自分を知るということではとても鋭い感覚を持っていた人です。

 

Ⅱコリント112には12:わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」

 

パウロの誇りは、「神の恵みによって」行動したという誇りです。しかし、パウロは自分のことを誇っているのではありません。栄えを神さまに委ねていることがわかります。自分自身を絶対的な基準とせず、それはイエスさまの教えに照らすことを、第一としており自分の良心に問うことはいたしません。わたしたちはどうでしょうか、他人と比較したり、自分中心に考えるのではないでしょうか。そこには必ず本当の自分が見失われ、誇りや虚栄、不満、嫉妬などが起こってくるのであります。私はルカ1811節から14節の御言葉を思い出します。

11:ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。』・・ 13:ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』・・

 

わたしは自分の重荷ということのなかには、キリスト者の奉仕は言うまでもありませんが、訓練を受けるという重荷もあるように思います。

 

【共に重荷を担う】

私たちの心の中に、自分は自分、他人も好きなことをすれば良い、あるいは、他人の問題には口出ししない、従って、自分の問題には干渉して欲しくないという思いがあります。そこから一歩前へ出なければ「共に重荷を担う」ことからは遠くなっていきます。教会の群れはそうではないはずです。ある牧師は次のように語りました。

『回復の業は、挫折と痛みを共に分かち、特にその矯正の過程で罪とその罰の一部を自分の身にうけることである。

キリスト者は自らが誘惑されないように気を付けなければならない。しかし、そのような相互関係は、助ける人が自分自身と自らの欠点と弱さに気付いて、自分自身への責任を忘れないところでのみ成立する。』

 

                 

【教会員は牧師を大切にし、持ち物を分かちあうこと】

 6節の「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」と記されている言葉は、5節までとは関係のない、独立した教えのように見えますが、どうもそうではないと思います。

 

教えてくれる人とは、エフェソ411節に「11:そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。

とありますように、牧師のことです。牧師は特別に神様から召された着です御言葉の役者と言われます。牧師の働きについては、政治基準にも詳しく書かれていますけれども、その時間も力も伝道のために、教会員のために捧げて、自分の生活のために世俗の職業について収入を得ることはできません。ですから、牧師の生活については、御言葉を教えられる者として私達が常に覚えて困窮に陥らないように注意を怠ってはならないのです。

11:わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。」(Ⅰコリント9:11

14:同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」(Ⅰコリント9:14)とあるとおりです。

 

「持ち物すべて」の意味は、目に見える物質のことだけを言っているのではなくて、霊的な交わりを深めるようにという意味の勧告のようでもありますが、どうも、パウロの主な目的は経済的な支援を具体的に勧めていると、理解してよいのではないかと思います。

 

私たちが共に歩む教会生活の中で、信者どうしでの愛の交わり、共に重荷を担う信仰生活を実践することは大切なことです。そしてまた、教会を維持するための献金の意味について考えるならば、これはまず、牧師を支えるという教えを第一とすることを十分に理解しなければならないと思います。ここでも、一つの御言葉を思い起こします。

 

使徒言行録432「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」

 当時の御言葉の役者、教師が無視されている情況があり、人々は魂の養いよりこの世の生活のほうが大事だったのでしょう。人々に救いの恵み、霊の養いを与えてくれる牧師に対して、信者の考えがどうも間違っていたということに、パウロは恥ずかしい思いを持っていたのです。ですから、自分だけの生活や自分の利益とは無関係に、教会全体の成長を願って持ち物すべてを分かち合うように勧めるのであります。

 

【献金について】

私たちは喜びを持って感謝をもって献金を捧げるのです。

田中剛二先生の本を読むと、このところで、維持献金、月約献金などの方法が最善だとは考えていません。御言葉の精神を生きて、実行する方法があるのだ。そして、そのことを実際に行なうよう、望んでおられます。

 

献金については、レブタ2枚を献金した貧しい寡婦のお話を思い出します。私は牧師から献金のことについては、10分の1を目標にと言われていたことを思いだします。

 

【互いに重荷を担うために、互いに愛し合う実践】

互いに重荷を担うために、互いに愛し合う実践が必要である。

私たちの教会の目標はなんでしょうか。キリスト者の生活は戦いの連続であると言われます。罪や誘惑との戦いは激しく、苦しみは一人では負いきれないはど重いものです。だからこそ、"自分が"でなく互いに祈り合い、励まし合って行くのです。互いに相手を自分より優れたものと思い、互いに徳をたてあって、神さまの国に向かって進んでいくのです。このことはすでに、ガラ513で学びました「愛によって互いに仕えなさい。」の御言葉の実践と相俟ってこそ、互いに重荷を担うことが可能となります。

 

Ⅰコリント122526お読みして終わります。

25:それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 26:一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

 

【祈祷】

恵みと愛に満ち満ちていらっしゃる天の父なる神さま、御名を讃美いたします。今日も聖日をあなたの御前で過ごすことのできた幸いを感謝いたします。主の十字架の贖いにあずかることができる幸いを感謝いたします。兄弟姉妹豊かな交わりを持つことが許され感謝いたします。何よりも、御言葉に心を向け、悟ることのできる信仰をくださって感謝いたします。

聖霊を送ってくださり、私たちと共にいて、助け導いてくださる恵みを感謝いたします。私たちの教会が御言葉によって励まされ、御言葉によって建てられる豊かな教会となることができますようにお導きください。

年老いておられる方、病にある方、そして悩みや困難の中にある兄弟姉妹を、癒し、励まし慰め、また平安と希望をお与えください。

教会の一人一人と、その御家族をお守りください。改革派教会の歩みを豊かならしめてください。何よりも西谷伝道所と伊丹教会の歩みを導いてください。

今日からの新しい1週間の歩みをお守りください。私たちの主イエスさまの御名によってお祈りいたします。アーメン

2010年05月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/496