「神よ、わたしに答えてください」ウイリアム・モーア2010.4.25

聖書:詩編17篇【全】

 

【ダビデ王の試練】

私は詩編を読むと色々な印象を受けますが、一つは、多くの詩編を書いた人物、ダビデは、生涯に於いて大変なトラブルや試練などを経験しました。私達は今日で、詩編第1篇から第17篇まで順番に学んで来ましたが、その中の大部分がダビデの作品です。そして、その中の7割程はトラブルや病気や敵の攻撃などからの解放と助けのお祈りになります。

【苦しめる者】

ダビデの詩編全体的の7割がそのテマではないかと思います。例えば、詩編3篇にダビデはこう書きました。「主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい、多くの者がわたしに言います、『彼に神の救いなどあるものか』と。」

 

【神にのみ癒しがある】

詩編6編にダビデはこのような嘆きと願いを神に祈りました。「主よ、憐れんでください、わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。」

 

【神にのみ助けがある】

そして、同じように詩編7篇にダビデはまたこう祈りました。「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、負い迫(せま)る者から救ってください。獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から、だれも奪い返し、助けてくれないのです。」

 

【敵の攻撃】

更に、今日の御言葉にダビデは自分の敵についてこう書きました。「あなたに逆らう者がわたしを虐げ、貪欲な敵がわたしを包囲しています。彼らは自分の肥え太った心のとりことなり、口々に傲慢な事を言います。」

 

【ダビデの生涯】

ダビデの生涯を学ぶと栄えの時があれば、本当に大変な時もあったのです。青年の頃、彼は巨人戦士ゴリアテと戦って一人でゴリアテを倒してイスラエルの為に大きな勝利を收めました。その故に、イスラエルの王、サウルがダビデを将軍として立たせて、多くの戦いに勝ちました。しかし、サウルはダビデを妬んで、彼を殺そうとしました。ダビデは田舎へ逃げて長い間サウル軍が彼を獲物のように追跡しましたが、神のお守りのお陰でダビデはその大変な時期を生き残りました。やがてサウルは敵のペリシテによって戦死し、ダビデは国王として政権を手に入れました。

 

【ダビデ王の罪】

軍事的にダビデ王は国を守り、襲って来る敵を征服して、イスラエルの領土を拡張しました。しかし、彼の個人的弱さと悲劇の故に大変苦しい時もありました。つまり、ダビデは軍人ウリヤが戦地に行っている間に妻のバテシェバを寝取り、王の計略でウリヤを戦死させてしまいました。神はその罪を厳しく罰して、ダビデにとって非常に辛い懲らしめになりました。

 

【息子アブサロムの謀反】

その上に、自分の気に入る息子アブサロムが謀反を起こし、ダビデを殺して、政権を握ろうとしました。恥をかかせられたダビデ王は自分の命を守る為に都エルサレムを逃れさりました。ようやくダビデの軍はアブサロムを追い詰め、謀反人を殺しましたが、ダビデはそれを聞いて深い嘆きに沈みました。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ」と悲嘆に暮れてしまいました。

 

その悲劇と危機と苦しみ、また、栄えの背景の中で、ダビデは神の霊に導かれ詩編を書きました。間違えなく、彼の生涯に於いての良い時と悪い時は私達の経験よりもっと激しいけれども、私達もトラブルと失敗と心痛と逆境などを経験しています。ダビデは弱さがありました。私達と同じように罪人でした。しかし、聖書には彼は、「神の御心に適う人」と呼ばれています。(サムエル記上13:14

 

【神の御心に適う人】

つまり、弱さがあってもダビデは心から神を信じ、神との関係を何よりも大事にしました。詩編第16編にダビデはこのように神に祈りました。「あなたは私の主。あなたのほかに私の幸いはありません。」すなわち、ダビデは自分自身の生涯に於いて神の恵みと御臨在の重要性を認め、それ以外には彼は何もならない事を確信しました。ですからダビデは「神の御心に適う人」と呼ばれています。

 

今日、詩編17編を通して、「神の御心に適う人」ダビデの信仰を学びたいと思います。特に、トラブルの中にいた彼の信仰を学びたいのです。そうすると、私達も難しい事情に直面する時、ダビデのように信仰によって支えられ、神の愛と救いと助けを豊かに経験し、希望を持ってしっかり立つ事が出来ます。

 

【ダビデの苦悩】

詩編第17編を読むと、ダビデの苦しみが分かります。実は、敵が偽って彼を責めていました。その誣告(ぶこく)の内容は記されていませんが、結構深刻な罪ではないかと思います。もし人々がその告発が事実であると信じたら、ダビデの名誉と評判を傷つけて、回復する事はなかなか出来ないと言う事のようです。敵はその攻撃によってダビデを倒してしまいたいのです。ですから、彼は苦しくてたまりません。自分の将来の為に非常に恐れていました。もし敵が勝ったら、ダビデは完全に駄目になると思いました。

 

【神を疑う弱さ】

しかし、自分の問題がただ人間と人間の問題ではないとダビデは信じていたのです。この世のトラブルと苦しみは霊的な面もあります。と言うのはトラブルが激しく襲って来る程、私達は神の愛と摂理と存在さえも疑う傾向があります。「神よ、あなたは私を本当に愛するならば、どうしてこのような試練を許したのでしょうか。あなたは宇宙を無から創造する力があるならば、いったい何故私の為にこのトラブルを防ぎませんでしたか。神よ、どうして、私に答えて下さらないのですか。」

 

【1~2節:神に向けた祈り】

困っている時、そのような霊的質問を問い掛けます。しかし、大きなトラブルの中にあったダビデは信仰を持って神に祈り、自分の心を主に打ち明けたのです。不当に非難する敵は霊的なダメージを与えたが、癒しの為にダビデは神に向けて祈りました。この詩編第17編は始めから終わりまで神へ向けた祈りであります。

 

1節と2節を見ますと、ダビデは先ず神にお願いしました。「主よ、正しい訴えを聞き、私の叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けて下さい。私の唇に欺きはありません。御前から私の為に裁きを送り出し、あなた御自身の目をもって公平に御覧下さい。」記されたように、ここでダビデは神様に、「私の悩み、私の問題を聞いて、そして、私を正しく裁いて下さい」と心から願ったのです。

 

【神は正しく裁くお方】

何故なら、彼は神の正しい裁きを信じ、また、自分の潔白についても自信がありました。私達も正しかったら、同じように祈る事が出来ます。神は全ての事を見て、人間の心の中までも見られますので、罪を犯していないのなら、私達の為に裁いて下さいます。弁護して下さいます。そういう神であります。

 

35節:神の道を歩むダビデ】

3節からダビデはこう祈りました。

「あなたは私の心を調べ、夜なお尋ね、火をもって私を試されますが、汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。私の口は人の習いに従う事なく、あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて、あなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます」

と書いてあります。ダビデは自分に対する敵の訴えは偽りである事をまた神に宣言します。「私を調べて見て下さい。私の心を見抜いたら、私の無罪がすぐ分かります。私はあなたが御言葉に教えて下さった道を忠実に歩んで来ました」と神に主張しています。

 

何よりも神との関係を大事にしたダビデは敵の中傷の故に神との交わりが難しくなる事を心配して、「私を調べて下さい」と主に言いました。やはり信仰と良心に恥じないダビデはそのように言えるでしょう。神の御前に私達も同じように言えるでしょうか。

 

68節:神よ、私に答えてください】

6節からダビデは続けてこう祈りました。

「あなたを呼び求めます。神よ、私に答えてください。私に耳を向け、この訴えを聞いて下さい。慈しみの御業を示して下さい。あなたを避けどころとする人を立ち向かう者から、右の御手をもって救ってください。瞳(ひとみ)のように私を守り、あなたの翼の陰に隠して下さい。」

 

ダビデは自分の無罪を神に主張し、良心に恥じない事を確かめた上、主に救いの祈りを捧げました。

「人が自分自身の目を大事にし、守るように私を守って下さい。また雌鳥(めんどり)が自分の雛を翼の中に害から守るように私を守って下さい」

と祈りました。つまり、ダビデは神の助けがなければ彼は本当に駄目になると告白しています。そして、同時に信仰によって主の助けを心から期待し待ち望みました。その信仰を抱いていたこそ、敵の攻撃に耐えられたのです。

 

912節:敵の姿】

9節からダビデは自分の敵を神に生き生きと描写します。「あなたに逆らう者が私を虐げ、貪欲な敵が私を包囲しています。彼らは自分の肥え太った心のとりことなり、口々に傲慢なことを言います。私に攻め寄せ、私を包囲し、地に打ち倒そうとねらっています。そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子、待ち伏せる若い獅子のようです。」

 

1314a節:神の救い】

ダビデの敵はとても恐ろしいですが、神の力と救いは遥かにもっと強かったと信じたのです。ですから彼は13節からこう言えました。

「主よ、立ち上がって下さい。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させて下さい。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち、私の魂を助け出して下さい。主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち、命ある物の中から彼らの分を絶って下さい」

とダビデは祈りました。ダビデの言葉は激しいけれども、その表現を通して自分の不動な信仰を表しました。

 

14b15節:主に信頼する者の幸い】

最後にダビデは主に頼る者に対する神の恵みと救いを告白しました。

「しかし、御もとに隠れる人には、豊かに食べ物をお与え下さい。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。私は正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることが出来るでしょう。」

神は御自分の民を危機の中にいても守り、豊かに祝福し、支えて下さいます。

 

【復活の朝】

更に、

「御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることが出来る」

と記されています。

神によって永遠の命に復活させられると、私達は主イエス・キリストを直接に見る事が出来、今、信仰の目で見る救い主を大きな喜びをもって自分の目で見る事が出来ます。ヨハネの黙示録に記されたように、その時、「神が人と共に住み、人は神の民となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3~4)

 

愛する兄弟姉妹、私達は苦しい時、悲しい時、激しい試練と攻撃を受ける時こそ、神の助けと救いを心から信じ求め、ダビデのように大きな希望を持って、愛する主イエス・キリストと共に歩みましょう。(おわり)

2010年04月25日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

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