「誰がイエス・キリストの死に対して責任がありますか」ウイリアム・モーア2010.3.28
マルコによる福音書15章1−47
◆ピラトから尋問される
◆死刑の判決を受ける
◆兵士から侮辱される
◆十字架につけられる
◆イエスの死
◆墓に葬られる
【歴史上最も醜い悪事】
この世の歴史を振り返って見ると数え切れない程の酷い悪事を探す事が出来ると思います。不法な戦争や、大量殺戮や、無差別的テロや、宗教上と人種上の迫害や、幼児虐待などのような大変醜い事件が山程ありました。そして、それがもちろん現在も続いています。その多くの悪事の中でもどれが一番責めらるべきかと聞かれたら、私たちはなかなか答え難い事だと思います。しかし、考えて見ますと、恐らく先ほど読ませて頂いた御言葉は全世界の歴史上、一番酷い悪事を語ります。それは神の独り子イエス・キリストの冷酷な殺人です。罪一つ犯してない神であるイエス・キリストは十字架で処刑されました。責めるべき事の全くないお方なのに、そのもっとも恥ずかしいし残酷な拷問にかけられて死んでしまいました。主イエスは全人類の救いの為に、天国の栄光を去ってこの世に下り、人間の母によって生まれ、受肉され、愛に満ちた生き方を教えたのに、無残にも殺されました。それは結局、神を殺す行為にもなりました。その時、全ての人間の憎しみと悪が天地万物の造り主である、愛する神に焦点されました。その故にイエス・キリストの殺害こそが歴史上の最も酷い悪事になります。
【主イエスの殺人犯は誰か】
犯罪が起きたら、当然その犯人を捕えたいと思います。特に殺人のような残酷な犯罪の場合、罰する為に、悪事を行った人が誰であるかを明らかにしたいのです。ですから、当たり前の事ですが、歴史上の一番酷い悪事だったら、誰でもその犯人を知りたいのです。つまり、誰がイエス・キリストの死に対して責任を持つのでしょうか。誰が神の独り子を十字架につけ、その最も大きな罪を犯してしまいましたか。
【受難週】
今朝、私たちは受難週に入ります。今週、全世界のキリスト教会は主イエスの十字架の苦しみと死の深い意味を新たに覚え思案します。その為に今朝、受難週の始まりの際、私たちの救い主イエス・キリストの死に対しての追求すべき責任を一緒に考えたいと思います。今朝、私たちは証拠を見て、探偵のように、主イエスの殺人の犯人を調べたいのです。
聖書にイエス・キリストの殺人の次第が大変詳しく記されています。目撃者が見た事に基づいていますので、御言葉は信頼性のある証拠になります。経験豊かな探偵は先ず証拠をよく調べ、容疑者のリストを書きます。聖書の次第を読みますと幾つかの人やグループが主イエスの死に対して責任の容疑があります。
【容疑者たち】
イエスの弟子ユダが裏切り者になり、主をイスラエルの宗教の指導者達に引き渡しましたので、容疑者の一人になります。また、宗教の指導者達は主イエスを逮捕して、尋問してからローマの総督ピラトへ連れて渡しました。ですから、宗教の指導者達は疑いの目で見られます。そして、ローマの総督であったピラトは主の裁判を行って、死刑の判決を下りましたから、確かにピラトも嫌疑を受けるべきです。最後に裁判を参列して「十字架に付けろう、十字架に付けろう」と叫んだ群衆もイエス・キリストの死に対して責任の疑いを招くはずだと思います。証拠を見て、このそれぞれの容疑者達を順番に調べて見ましょう。
【主イエスの弟子ユダ】
マルコによる福音書によりますと主イエスの弟子ユダは、「イエスを引き渡そうとして、祭司長達の所へ出かけて行った。彼等はそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(14章10−11)と記されています。
そして、最後の晩餐の後で主イエスがゲツセマネで弟子達と共に祈った時、「ユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、『私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と、前もって合図(あいず)を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた」(マルコ14章43−46)
と書いてあります。
【ユダの裏切りの動機は】
確かにユダはイエスの死に連座していました。しかし、その動機は何だったのでしょうか。ヨハネによる福音書によりますと、ユダはイエスの会計の責任があって、それから使い込む程お金を愛していました。ですから、お金を宗教の指導者達から貰う為に主イエスを裏切りました。推測に過ぎないのですが、ある学者によりますと、こう言う説もあります。ユダはイエスの逮捕を起こす事によって主が御自身を救う為に暴力と奇跡的力を用います。そして、遂にローマ帝国とその協力政権を倒して、イスラエルの自由と栄光を復帰する事になると言います。全ての動機が分からなくても、ユダはイエスを裏切った事によって主の死に対して責任があります。ユダ自身もその責任を悟り、自責の念にかられて、自殺を持って最期を迎えました。
【宗教指導者達】
宗教の指導者達はどうでしょうか。主の死に対してどの位の責任を持つのでしょうか。彼等は人々の中でイエスの人気を恐れて、自分の地位と権力を守るように、どうしても主を消したかったのです。さらに、主の正しい非難を受けた宗教の指導者達は怒りに燃えて、イエスに復讐を企てました。彼等はイエスを逮捕して、不利な証言を求め、不当な裁判を受けさせました。 更に、神を冒涜する罪で死刑にすべきだと決議したのです。宗教の指導者達は処刑する権限がなかった為、主をローマの総督ピラトの所へ連れて、「彼は自分がイスラエルの王だと言う」との罪で責めました。事実、ローマ当局はユダヤ人が神を冒涜する事はあまり気にしませんでしたが、自分がイスラエルの王だと言う事は政治的な大きい罪になりました。宗教の指導者達は主イエスを逮捕して、自分達が行った裁判で死を宣告して、そしてピラトが開いた裁判の時、いろいろとイエスを訴えました。その故に 宗教の指導者達はイエス・キリストの死に対して責任がもちろんありました。
【ローマ総督ピラト】
ローマの総督ピラトの責任はどうでしょうか。ピラトは確かにイエスの有罪について疑いました。「いったいどんな悪事を働いたというのか」(マルコ15章14)と聞きました。しかし、これは主イエスに対する妬みから来ているのを知っていながらでも、臣民を満足させる為にピラトはその要求に負けて、主イエスに死を宣告しました。更に、ローマ政権のみは人を処刑する権限がありましたので、ピラトは大きな責任があったのです。更に、彼の命令によって無罪の主は宣告され、死刑はローマの軍で実行されました。ですから、ピラトは重い責任を負っています。
【群衆の責任】
最後に主イエスの裁判に出席した群衆の責任を見てみましょう。ピラトは彼等に聞きました。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」。そして、群衆の答えは「十字架につけろ」。また、ピラトはイエスについて「いったいどんな悪事を働いたというのか」と尋ねると、「群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた」と書いてあります。間違えなく群衆はイエスを死刑にするように、ピラトにかなりの圧力をかけました。そして、ピラトは正義の声よりも群衆の声を聞いて主イエスを刑場へ行かせました。ですから、群衆もイエス・キリストの死に対して責任を持っていました。
間違えなく、主の弟子ユダと、宗教の指導者達と、ローマの総督ピラトと、群衆もイエスの死の責任を負っていました。かれら皆は歴史上の最も酷い悪事の責任を分かちあうべきであります。
【他の容疑者】
しかし、実は私達は他の容疑者を見落としています。その容疑者を見つける為に、イエス・キリストの死の約700年前に行かなければなりません。何故なら、その容疑者は神によって預言者イザヤに啓示されました。旧約聖書のイザヤ書53章にその容疑者が明らかになります。イザヤ書53章1節から朗読します。「1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4:彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
5:彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6:わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」
愛する兄弟姉妹、その見落とされた容疑者が今分かりますか。4節と5節をもう一度読みます。「4:彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
5:彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
【全人類が容疑者】
やはり私と、あなたと、そして全人類がその見落とされた容疑者であります。つまり、私たちの罪の故にイエス・キリストが死ななければなりませんでした。その故に、私達一人一人もイエス・キリストの死に対して重い責任を負っています。つまり、私たち人間が神に対して、そして隣人に対して罪を犯さなかったら、主イエスの贖い死は不必要であります。
十字架でイエス・キリストが私たちに代わって犯した罪の罰を受けて、私たちの為に神の赦しを獲得して下さいました。神はその完璧な生け贄を受けて、罪を悔改め、イエス・キリストに従い、主の贖い死は私自身の為である事を信じたら、誰でも新しく創造された者になり、永遠まで神の愛された子供のように受け入れて下さいます。
【十字架以外に救いはない】
間違えなく他の方法があったら、父なる神は絶対に御自分の最愛の独り子を十字架上で殺さなかったでしょう。しかし、他の道がなかったのです。罪深い私たちと正義の神への唯一の道はイエス・キリストの十字架の贖い死であります。その方法のみが罪の赦しと永遠の救いをもたらします。その方法のみは誠の平安と希望を授けて下さいます。
神の計り知れない御計画によって、歴史上の最も酷い罪、御自分の御子の十字架の死が、歴史上の一番素晴らしい恵みと救いになりました。
受難週の始まりの際、私たち一人も残らず、主イエス・キリストの贖い死を自分自身の為と信じ、新たに、あるいは初めて、十字架の許(もと)に来て、神の比べる事が出来ない愛と救いを受け入れて見ませんか。(おわり)
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