「主イエスのもとに来てください」伊丹教会牧師橋谷英徳2010.3.14

CIMG9623.JPG聖書:マタイによる福音書第5章1~12節

◆山上の説教を始める

  1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆幸い

  3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

  4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

  5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

  6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

  7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

  8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

  9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

1.あいさつ

 

きょう、この日曜日に皆さんとともに礼拝をささげることができますことを心から感謝しております。

 

今日は、モーア先生が伊丹の教会の礼拝で説教の奉仕をなさり、私がここにまいりました。今年は相談をいたしまして、1年に3回、このようなときを持つことを予定しています。このようなことをここで致しますのは、私たちが共に離れた場所、異なる土地で礼拝をささげていましても、共に一つの同じ教会に連なっているのだということを覚えるためです。モーア先生も私もそのことを実感することを必要としています。そして、それぞれの教会の方々にも、一つの教会であることを実感することが必要です。このことが一つの助けにはなるでしょう。

 

日曜日の礼拝のたびにいつも私たちが「ああ今、この同じ時間に伊丹でも礼拝がささげられているのだなあ」、また伊丹でも「今、西谷でも礼拝がささげられているのだなあ」と覚えていただくと良いと思います。あるいはまた病気のためにここに来られない人たちや、遠方にいる人たちのこと、そういう人たちのことも覚えながら、私たちが一つになって共に主を礼拝してゆきたいのです。

2.群衆と弟子たち

 

さて、先ほど、お読みしたマタイによる福音書5章1~12節の聖書のおことばですけれども、今朝は、特に1節、2節のことばを中心にしてお話をいたします。ここは、主イエスがなさった山上の説教の始まるところです。

 

この山上の説教はここからはじまって7章の終わりまで続きます。イエスのお語りになったたくさんのおことばが記されています。とても長い説教だなあと思うわけですが、これは何も、ただ1度の機会に語られたと必ずしも考える必要はないようです。主イエスが地上のご生涯を歩まれたときに、折々にお語りになられた言葉がこうして一つにまとめられて、ここに記されていると考えることもできます。

 

【二種類の聴衆】

この山上の説教のはじまり、1節には、ここから始まります説教がどういう状況で語られたのかということが明らかにされています。ここで気づかされることがあります。

 

それは主イエスの山上の説教には二種類の聴衆がいたということです。一つは群衆、もう一つは弟子たちと呼ばれる人たちです。1節にはこうあります。

 

 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄っ  

て来た。そこでイエスは口を開いて教えられた。」

 

ここで、群衆と弟子たちと呼ばれる人たちとの間にある種の区別がなされているのことに気づいていただきたいのです。

 

【「近くに寄ってきた」弟子たち】

群衆たちは主イエスが伝道のお働きをはじめられますとほどなくして、主イエスの行かれるところにはどこにでもついて行くようになりました。ここでも群衆たちの姿があります。主イエスはご自身に従ってきた群衆たちを見られます。そして山、そんな高い山ではなく低い山、丘のような場所に登られます。そして、そこで腰を下ろされます。この腰を下ろすというのは、ラビたちがその弟子たちを教えるときに取った態度です。そして、主が腰を下ろされると、弟子たちが「近くに寄ってきた」。するとそこで主イエスが口を開いて教え始められたというのです。

 

主イエスが直接的に話をされたのは、この弟子たちです。群集ではありません。

ここで主イエスを中心にして二重の輪ができていると言えるでしょう。一つは主イエスの近くにいる弟子たちの輪です。主イエスはこの弟子たちに語りかけられます。そして、弟子たちはこの主の口から出る言葉を、自分自身への語りかけとして聞いています。

 

【群衆たちの反応】

もう一つは、主イエスを遠くから囲んでいる群衆たちの輪です。彼らは、主イエスが弟子たちに語りかけられるのを聞いています。彼らにも主イエスの言葉は聞こえてはいます。しかし、そのことばを弟子たちのようには聞いてはいません。自分自身への語りかけとしてはだく外側から客観的に聞いています。この群衆たちの反応についてはこの山上の説教の終わりにこう記されています。

「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ728-29)。

 

群衆たちは、主イエスのお言葉を今まで聴いたことのないお言葉として聞いて、驚いたというのです。特別な言葉の響きを聴き取って驚いた、感心したのです。悪い印象を抱いたわけではないでしょう。主イエスの口から出る言葉をよいお話として聞いた。驚いた。でもそれだけです。それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

【あなたはどちらに?】

このように見ていきますと、どうしても問わずにおれなくなることがあります。それは、「あなたはどこにいますか。」ということです。あなたはどこにいますか。主イエスの目の前でしょうか。それとも遠くでしょうか。今日、あなたは、どこでこの聖書の言葉を聴いていますか。自分自身をどこにおいておられますか。弟子たちの場所でしょうか。それとも群衆たちの場所でしょうか。

 

聖書のことばを私たちが紐解き、その一句の言葉を聴くときには、いつも、このことは問われるのです。聖書の言葉を自分自身への語りかけの言葉として聞くのか、あるいは外側から眺めるようにして聞いているのか。そして、主は、私たちが自分への語りかけとしてご自身の言葉を聴くことを願い、招いておられます。

 

3.心の貧しい人の幸い

 

では主イエスの口から出た言葉とはどんな言葉だったのでしょうか。

 「心の貧しい人々は幸いである。

   天の国はその人たちのものである。」3節)

これが最初の言葉です。ここから「~な人々は幸いである」という言葉が何度も語られています。そして、一番はじめが、「心の貧しい人々の幸い」です。しかし、誰もが問わずにおれないのは、なぜ、どうして心の貧しい人々が幸いなのかということです。しかも、ここでの心が貧しいというのは、ほんの少し貧しいということではありません。まったく貧しいのです。物乞いをしなければならないような貧しさなのです。それ自身がとても幸いだとは言えないのです。しかし、それを主イエスは幸いであると言われる。なぜなのでしょうか。

 

その人は、神さまにより頼むからです。神さま、助けてください。憐れんでくださいと祈るようになるからです。そして、その人を神さまが救ってくださる。イエスさまが救ってくださるからです。それはどこに起こるのでしょうか。それは、主イエスの言葉を主の近くに寄って、自分自身への語りかけとして、聞く。そこに起こってくることです。

 

 

4.わたしの体験 聖書のもたらす苦しみ

 

私は中学2年生のときにはじめて教会に通い始めて、聖書を読み始めました。新約聖書をこのマタイによる福音書から読み始めて、山上の説教の言葉を読みました。そのときのことを今でも覚えています。

感動しました。ものすごく感動したのです。アンダーラインをたくさん引いたような記憶があります。いい言葉だ、ここには本当にすばらしいことが記されている。そう思ったのです。でも、それからしばらくして教会から離れてしまいました。

 

そして、再び教会の礼拝に集うようになったのが大学の2年生になったとき19歳の頃でした。山上の説教の言葉の読み方が洗礼を受けて、信仰生活をしているうちに、少しづつ変えられていったように思うのです。ただそこに美しい言葉、よい言葉が書かれているとは思えなくなりました。

 

【聖書の言葉を生きる】

青年時代に読んだ、キリスト者の作家、三浦綾子さんのエッセーの中に、こんなことが書かれていました。記憶の中の言葉ですから正確ではありませんが、こんな言葉です。

 「聖書の中のどんな言葉でもいい。どんな小さな一つの言葉でもいい。それを実際に生  

きてごらんなさい。そうすればそこでわかってくることがあるから。」

読んだときにはなんのことかよく分らなかったのですが、次第にそのことが分らされていっているように思います。

 

山上の説教には、私たちがとてもよく知っている言葉がたくさんあります。たとば、513節以下には「地の塩、世の光」という言葉があります。また43節には「あなたの敵を愛しなさい」という言葉もあります。6章に入りますと「天に富を積みなさい」「思い悩むな」という言葉もあります。小説や新聞を読んでいても引用されていることもあります。それらの言葉は、私たちに感動を与えます。いい言葉だなあと思うのです。そして実際、そうだと思うのです。けれども、どうでしょうか。本当に、私たちがこの言葉を自分自身に語りかけとして聞くときに、ただ単に良い言葉、美しい言葉だと感心する、驚くということでは済まないということが起こってきます。

 

たとえば、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」という主イエスの言葉です。外側から見ているだけなら、いい言葉になるでしょう。けれども、どうでしょうか。自分自身への語りかけとして聞いたら、自分自身がその中に生きるということになるなら、とんでもない言葉になってきます。「きょうは、よいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。」では済まなくなります。

「神さま、私にはできません。とてもではないけれども、あの人のためには祈れません。」そういうことが起こってきます。苦しくなるわけです。

 

【罪を指摘される】

聖書にはこんな言葉があります。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、間節と骨 髄を切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる。」(ヘブライ4章12)。

 

またパウロという伝道者は、自分自身への語りかけとして、教会で、聖書の言葉を聴いた人たちにこんなことが起こると語っています。

 

 「彼は、皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(Ⅰコリント14章24-25)

  

こういうことが、聖書の言葉を自分への語りかけとして聞くというときに起こるというのです。人間的に言うと、楽じゃありません。聞かないほうがよかったとすら言えるかもしれません。そこそこいい人として、あるいは立派な人として、人からも思われ、自分でも思って生きることができるかもしれません。この方が悩むことも、苦しむこともないかもしれないのです。毎日が、楽しいかもしれません。

 

ところが、主イエスの言葉を、自分自身への語りかけとして聞くときには、自分の姿が見えてきます。これまで自分ではとてもじゃないけれども、気づかなかった自分が見えてきます。

 

【自分の罪に悩む】

牧師の一つの務めは、教会に集う方たちの、悩みや訴えを聞くということです。そして、しばしば気づかされるのは、「ああやっぱり、この人はクリスチャンなんだなあ、信仰を神さまが与えてくださっているんだなあ」ということです。

 

たとえば、こんなことがある。「わたしは、ある人からこんなことを言われた。腹が立ってしょうがない。」でもよくよく話しを聞いてみると、その人は、何に悩んでいるのかというと、腹が立っている自分、人を赦すことができない自分に悩んでいるわけです。その人がクリスチャンであったら悩みはしても、そんなに悩まないと思うのです。信仰を持っているがゆえに、悩むということがあるわけです。主イエスのことを知っているからです。主イエスの言葉が心に刻まれているからです。わたしの心の貧しさが見えてくるからです。

 

教会生活というのも、そうでしょう。しんどい一面があります。伊丹教会もそうなのです。馬の合う人もいればそうではない人もいる。そういう中で聖書の言葉を聴きながら生きていく。そこでまた自分の姿が見えてくるというところがあります。

 

5.主イエスのもとに来てください

 

しかし、それなら、もう信仰を持たないで、その中に入らないで、外側にいたほうが幸いなのでしょうか。ほどほどのところにいたほうがいいのでしょうか。

 いいえ。そんなことは断じてありません。

 主イエスはそこで言われます。

 

 「心の貧しい人々は幸いです。

   天の国はその人たちのものである。」

 

主イエスの言葉を自分自身への語りかけとして聞いて生きていくときに、教会でこの弟子たちの交わりの中に生きていくときに、心の貧しいわたしが見えてくる。そこで「憐れんでください」「主よ、お助けください」といわずにおれなくなる。

 

しかし、それが幸いであるのです。なによりもの幸いなことだといわれるのです。

 

【罪人を招く主】

なぜでしょうか。

主イエスが来られたからです。

 「わたしは罪人を招くために来た」と言われた方が来られたからです。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で、謙遜なものだから、わたしのを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがは安らぎを得られる。わたしのは負いやすく。わたしの荷は軽いからである」

(マタイ福音書11章28-30)

 

この主イエスとの出会いが起こされます。そこで恵みと出会います。そこで主と共にいることができます。そこで地上に生きているのですが、すでに天国の恵みにあずかれるのです。大きな喜びが私たちを覆うのです。

 

【喜びを知り、ため息をつき、ジャンプ】

昨晩、2月に亡くなられたスイスの神学者であったボーレン先生の葬儀の説教を読みました。その説教の中でボーレンという人がこう紹介されていました。この人は喜びを知っていた。それと同時にため息をつくことができた人だった。喜びとため息というのは対照的なものでしょう。ため息は苦しみ、悩みでもあります。喜びとは真反対です。そしてその説教でこんな風に言われていました。「この人は、ため息の中で絶えず、飛躍して生きた。ジャンプした」と。主イエスの恵みとはそういうものではないでしょうか。神の言葉を聴いて、自分の貧しさを知らされる。しかし、そこで終らない。ジャンプして、天国の喜びに生きるのです。主イエスがきょう、ご自身の近くに、この幸いに招いていてくださいます。お祈りいたします。

 

【祈り】  

父なる神さま 主イエスの招きの言葉を聴き取らせてください。神の言葉を自分自身への語りかけの言葉としてここで繰り返し、聞き取らせてください。そして、主よ、憐れんでくださいと祈り、主イエスがお与えくださる喜びの中に私たちを立たせてくださいますように。主イエスの御名によって祈り願います。アーメン

2010年03月14日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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