「無常の時代に住むための信仰(3):神の国と神の義を求めよ」ウイリアム・モーア2010.2.14
マタイによる福音書6:25−34◆思い悩むな
25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
【思い起こす】
私達はこのところ「無常の時代に住むための信仰」を学んで来ました。先週、キリスト者にとって「思い起こす」ことの重要性を聖書から学びました。信仰に於いて私達の先祖と同じように、過去にある神の御業と恵みを常に思い起こさなければなりません。特に現在の無常の時代、いたるところに激しい変化の時代に生きる私達の為の変わらぬ神の祝福を「思い起こす」べきであります。そして、信仰を持って、現在と将来にその同じような祝福が期待出来ます。確かな希望を抱いて、この難しい時でも、イスラエルの王ダビデと共にこう言えます。「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23:6)
ですから、生きている信仰を支える為に過去に経験した主の多くの恵みと祝福を「思い起こす」必要性を認識していくべきです。
【祈りの重要性】
先々週、私達は「祈り」の重要性を学びました。キリスト者は自分の心配と悩みを恵み深い神に打ち明け、主に委ねる事によって、神の平和を豊かに受けられます。「祈り」を通して神は語り掛け、変わりつつあるこの世にいる私達に希望と力を与えて下さいます。
【神の国と神の義を求める】
そして、今朝は、最後に、無常の時代に住むための信仰のもう一つの特徴を学びたいと思います。それは我々が「神の国と神の義を求める」事です。つまり、普通の毎日の生活に、神の働きを優先的に努める事です。相応しい信仰生活に於いてそれは最も大事であります。特に変わりの多いこの世に生きる為にそれは必要です。
【自己中心の祈り】
考えて見ますと、変わりの多い、難しいときに、人間は特に自己中心になりがちです。無常の時代に人々は自分のニーズと自分の要求を第一にします。つまり、何よりも先ず自分の事、自分の問題を心配し、不安を抱いてしまいます。そして、持っている物を守り、生き残る事しか考えません。
私達の祈りはどうですか。祈りはショッピングリストのようになります。「あれを頂戴、その事をして下さい、私と私の家族を守って下さい」などのような祈願を捧げます。私の悩みと私のニーズばかりに集中すると、全体的眺望を見失ってしまいます。人生の目的も失われ、自分の事で精一杯になります。信仰の目でこの世と自分自身の状態を見れないと、何でも私がしないと気がすまなくなります。全てを自分でコントロールしないと面白くありません。当然自己中心的になり、自分の問題と心配だけに集中してしまいます。
【ローマ帝国の圧制下にあったイスラエル】
主イエス・キリストがこの世を歩んだ時、イスラエルの人々は心配と問題が多くて、生き残る事に精一杯でした。植民地住民として彼等はローマ帝国によって重税が課されて、払うのはとても苦しかったです。更に、有力者が平民の土地と富を奪って、人々は貧しい生活をし、何も出来なかったのです。宗教的現状も良くなかったのです。イスラエルの祭司は偽善的になり、特権を得る為に敵ローマの協力者になりました。若者達はローマとギリシアの文化に誘惑され、イスラエルの信仰と伝統を重んじませんでした。
更に、人々は神によって忘れられたと恐れていました。多くの悩みと問題があったのに、主なる神は約束された救い主をなかなか送らなかったからです。
【思い悩むな】
そのとても厳しい背景の中でイエス・キリストは驚くべき事を人々に教えられました。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな 」とおっしゃいました。つまり、自分の基本的ニーズについて心の中で考え苦しむなと教えられたのです。特に将来の為の患いをしてはいけないとおっしゃいました。言うまでもないが、主の教えは将来に対して無責任になっても良いと言う事ではありません。私達は将来を考えて、出来れば良い将来の為に準備をします。しかし、将来の多くの事は私達のコントロールの範囲ではありません。例えば、未来の経済の状況や、自分と家族の者の健康や、災害をこうむる事や、子供の成功などの事をコントロールどころか、予測することもできません。その事について思い悩んでもしようがないです。益にも何にもなりません。逆に、思い煩うから来るストレスは色んな病気と不幸を招いてしまいます。それは常識です。しかし、主イエスは天から下ってただ常識を教えに来た訳ではありません。私達にもっと深い真理を悟らせるように質問を問い掛けます。
【命と食べ物、体と衣服、どちらが大切か】
それは、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」つまり、人生の最大の目的を考える必要があると言うのです。そして、その目的に注意を集中し、努めるべきです。もし人生の最も大切なものは食べる事と衣服を着る事だったら、他のものよりもそのものを憧れるべきです。
【人生の最も大切なものとは】
しかしながら、イエス・キリストによりますと、飲み物と食べ物と衣服よりも他の事がもっと大事であります。人生の意味と目的はただ生き残る為に必要な物質的物を得る訳ではありません。その事よりも人間は遥かにもっと大きな使命が与えられています。
考えて見て下さい。もし誰かが一週間の間ずっと、密かにあなたの後をついてまわり、あなたの全ての行動を見て、会話を聞いて、あなたの思いまでも見抜いていたら、どう思われるのでしょうか。その人はあなたにとって何が一番大事であると判断するのでしょうか。皆さん、御自身の事を考えて見て下さい。決して他の人の事を言っているのではありません。
【空の鳥、野の花を見よ】
今日与えられた御言葉に主イエスは私達のニーズについてとても意味深い事が教えられています。マタイによる福音書4章26から主はこう言われます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでものばす事が出来ようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどうのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つ程にも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなたがたには尚更の事ではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要な事を御存知である。」
【神は私たちの天の父】
空の鳥も野の花も現在と将来の事につて思い悩まないのは、そのニーズが創造主である神によってちゃんと与えられているからです。しかし、神は私達の創造主だけではなく、更に私達の天の父ですから、必要な食べ物と衣服を当然与えられるのです。その故に私達の心配は全く余計なものです。私達は最善を尽くして生活に必要な物を備えますが、不足の分を父なる神に委ねるべきです。ですから、信仰が薄いから思い悩みます。神の摂理を心から信じるのならば、余計な心配をする必要がありません。私達皆は今までも必要な物を与えて下さる神がこれからも主によって満たされるのを信じています。
【人生の誠の意味と目的とは】
私達はその物質的な物について、また生き残る事について心配しなくても良いのですから、人生の誠の意味と目的に集中する余裕が与えられています。主イエスは33節にその使命をはっきりと教えて下さいます。「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
【神の国を求めるとは】
簡単に言えば、ここでの神の国を求める事は、この世で
神の御言葉に従う事です。神の教えに従う生活を求める事です。例えば、主イエスが教えた愛を具体的に日々の生活に於いて現す事です。つまり、自分を愛するように隣人を愛する事です。また、イエス・キリストの救いを知らない者にその恵みを紹介する事は、神の国を求める事です。
【神の義を求めるとは】
神の義を求めるとは、神が教えた道徳を心から守る事です。その教えは聖書に記されていて、十戒は神の義のまとめです。神がこう言われました。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」(ペトロの手紙一1:16)と聖書に書いてあります。私達の生活に神が教えた義を実行すると人々に神の証になります。
神の国と神の義を求める事は私達の使命と目的でもあります。そして、神の国と神の義を優先的に求めたら、主は私達に必要な物を与えて下さると約束しました。つまり、何よりも先ず神の御用をして、神の道徳に従ったら、私達は将来の事を悩まなくてもいいのです。神御自身は私達を守り、助けて下さいからです。
【無常の時代に住む私たちの信仰(3):神の国と神の義を求めよ】
無常の時代、難しい時代に住む私達は、何よりも先ず神の国と神の義を求めるべきです。そうしますと、私の問題と私の悩みを神に委ねる事が出来、思い悩まなくても良いのです。
愛する兄弟姉妹、自分の事が心配になる時、自分が惨めだと思った時、その事を神に委ねて見て下さい。そして、心配する代わりに、小さくても、神の国と神の義を求めなさい。主の愛を隣の者に現し、神が教えた生き方を実行して見て下さい。そうしますと、私達の思い煩いが小さくなり、神の喜びと神の平安は私のものになります。
【まとめ】
この無常の時代に私達はどう信仰を守るべきですか。先ず、第一に、祈らなければなりません。「求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピの信徒への手紙4:7)。第二に、過去に経験した神の恵みと助けを思い起こして下さい。そうすると、現在と将来に変わらぬ神の御臨在を信じ、その助けを期待出来ます。そして、第三に、何よりも先ず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、神は私達に必要なものを全て満たして下さいます。私達はこう言う確かな信仰にかたく立ちたいと願い求めます。(おわり)
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