「わたしの心は喜び、魂は踊ります」ウイリアム・モーア2010.1.17

SANY1095x300.jpg

詩編16篇1−111:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
  2:
主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
  3:
この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
  4:
「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
  5:
主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
  6:
測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
  7:
わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
  8:
わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
  9:
わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
 10:
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 

【ハドソン・テーラー宣教師】

英国人であるハドソン・テーラー先生は19世紀の代表的中国への宣教師でした。テーラー宣教師は51年間の中国への伝道に渡って、幅広い働きに携わって来ました。テーラー先生が創始された内陸中国宣教団は800人以上の宣教師を中国へ送りました。そして、その宣教団が300の伝道所と教会を開拓し、その他に学校を230校創立し、そしてその影響で18,000人の中国人が主イエスを受け入れ信者になりました。

 


その上、テーラー宣教師は牧師だけではなく医師でもあったので、医療を通して神の憐れみと愛を現しました。テーラー先生の模範的信仰と働きは人々に大きな影響を与え、今も人びとによって覚えられています。

 

【全てを神様に委ねよう】

テーラー宣教師は自分の信仰をこのように説きました。「我々の働きと計画と命、そして、愛する者の命さえも、我々の全を神の御手に完全に委ねましょう。全てを神様に委ねると、思い患う事などは私達に何一つ残っていません。」もう一度言います。「・・・・・」

 

【詩編第16篇】

今日の御言葉、詩編第16篇はその同じような不動の信仰を表現します。恐らくテーラー宣教師は今朝与えられた詩編を学んで、その教えを自分の信仰生活に実行しました。テーラー宣教師は、今日の詩編の作家、イスラエルの国王ダビデと同じように、自分の全てを神の御手に委ねる事によって、思い煩いを捨て、神の国の為に大きな働きが出来、主の平安と喜びも豊かに経験しました。

 

【ダビデ王の信仰に倣う】

実は、そのような信仰生活はただ信仰に於ける英雄 ダビデ王とテーラー宣教師の為だけのものではありません。今朝の詩編第16編の学びを通して、私達の為に愛する神が望んでおられる信仰を知り、何よりもその信仰を自分のものにする願望が起こさせられたら、非常に幸いだと思います。

 

【主を避けどころとするダビデ】

では、詩編第16篇の学びを始めます。1節を見て下さい。「神よ、守って下さい、あなたを避けどころとするわたしを。」この一節は神への願いと同時に信仰告白であります。「あなたは私の避けどころです」とダビデ王は主に告白します。一般の言葉では、避けどころは嵐や天災などからの避難する所です。例えば、建物や洞窟も荒れた天候から避けどころになりました。避けどころのもう一つの意味は、自分の敵から守られる所です。隠れ家か力強い味方の保護を受ける所などは避けどころになります。ですからダビデ王は「あなたは私の避けどころ」と神に告白しますと、「あなた御自身は私を守って下さる」と言う信頼の告白です。

 

【主が味方であるので】

ハドソン・テーラー先生と同じようにダビデは自分の全て、自分の命さえも愛する神に委ねました。つまり、どんな事があっても、唯一の全能の神は、すぐ側にいらして、自分の味方として支えると徹底的に信じたのです。その故にくよくよしませんでした。却って、勇気と自信と喜びを持って主に仕えました。

 

【苦難の時も】

言うまでもなく、ダビデ王の人生は毎日良い事ばかりではありませんでした。実際に彼は逆境や深い悲しみや危険なども普通の人よりも沢山経験しました。しかしながら、その辛い時があっても神を心から信じ、主はいつもダビデを回復させて下さいました。神を自分の避けどころとして信頼して、難しい時の中にいても主の導きと助けを常に経験しました。

 

愛する兄弟姉妹、私達はどうでしょうか。全ての事に於いて主に信じ頼れますか。振り返って見ると、その時、その場に於いて神が私と共に歩んで下さった思いがありますか。

 

【ダビデ王の信仰の証し】

この詩編第16篇は何よりもダビデ王の神に対する信頼の告白と証です。時が良くても悪くても、その信頼はダビデの信仰の中心となり、自分の生涯の中心にもなりました。神の平安と喜び、神の恵みと慈しみがいつも自分を追って下さった事をダビデは経験しました。つまり、ダビデは神を信頼する程、その恵みを経験し悟りました。皆さんはこう言えますか。「命のあるかぎり神の恵みと慈しみはいつも私を追う。」(詩編23)

 

【2節「あなたはわたしの主。・・」】

続いて2節を見て下さい。「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたの他に私の幸いはありません。』」ダビデは神を「主」として告白しました。主という意味は人を所有、または領有、支配する者です。ですから、神がダビデの主であるならば、ダビデは神の僕になります。神の者です。そして神の者として、頂いた全ての恵みと祝福は神の御手から戴いたとダビデは信じたのです。さらに、自分が神の愛された大事な者の故に、神は自分に必要な支えと励ましを授けると信じたのです。

 

誰でも自分にとって大事な人、愛する人を守ろうとします。例えば、両親は必要であれば命を懸けても自分の子供を守ります。同じように愛する神は私達を顧みて助け、苦難の中にいても守り、慰め、共にいて下さいます。

 

【唯一の幸いの源】

「あなたの他に私の幸いはありません」とダビデは尚、主に告白します。神の僕であるからこそダビデが頂いた全ての良きものの源は神であると言う事です。そして忠実な恵み深い神ですから、ダビデ王は他の神を認めず、誠の生ける神のみを礼拝し従いました。つまり、全ての恵みは天地の造り主である唯一の神から来ますので、人間がでっち上げた実際に存在していない他の神々は全く不必要です。ですから、神は私達を祝福する為にこのように命じます。「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」

 

【4節「ほかの神の後を追う者には苦しみが・・」】

誠の神の恵みと存在を豊かに経験したダビデは4節にこう言います。「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。私は血を注ぐ彼らの祭りを行わず、彼らの神の名を唇に上らせません。」ダビデは自分の全てになる誠の神に従いましたので、他の神々は関係なくなり、もちろん認めず拝みませんでした。他の神々は人々を愛する誠の神から惑わすので、恵みの代わりに苦しみをもたらします。

 

【5節、6節「主は私に与えられた分、私の杯・・」】

5節と6節にダビデは神の恵みの証を更に立てます。「主は私に与えられた分、私の杯。主は私の運命を支える方。量り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣行を受けました」と告白します。ダビデは神から離れると自分が希望のない、目的の無い人になるという不動の確信がありました。と言うのは、主は素晴らしい運命だけではなく、あらゆる恵みも授けて下さいました。神がイスラエルをエジプトの奴隷の家から、カナンの豊かさまで導いたように、主はダビデを祝福して、神の民の一員として輝かしい賜物を授けました。

 

愛する兄弟姉妹、私達も神の家族として大きな恵みを受け継ぎました。信仰に於いてダビデ王のように私達の先祖は素晴らしい証を立てて、私達に模範を示して下さいます。彼らは神が啓示した御言葉を私達に伝えましたので、真の信仰が分かるようになりました。彼らの証と信仰は私達の信仰を励まします。彼らは私達に立派な信仰を示して下さいます。

 

【7、8節、「私は絶えず主に相対しています」】

続いて7節と8節を見て下さい「私は主をたたえます。主は私の思いを励まし、私の心を夜ごと諭して下さいます。私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐ事がありません。」神を信じ従ったダビデは何よりも神の交わりを望んでおりました。何よりも神と共に歩みたかったのです。何故なら、その歩みを通して主から力と知恵、励ましと希望を頂き、共にいて下さった神の御臨在はダビデを守り、慰めて下さいました。

 

私達はどうでしょうか。ダビデのように神との交わりを重んじていますか。神に私達の力と知恵、また励ましと希望を第一に置き、期待し、得ていますか。

 

【9節「私の心は喜び、魂は踊ります・・」】

最後に、ダビデは自分の信仰をこのように告白します。9節から見て下さい。「私の心は喜び、魂は踊ります。体は安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡す事なく、ななたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えて下さいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びを頂きます。」

 

ダビデは神の素晴らしい恵みを考えると、感動して溢れるような喜びと感謝を覚えました。自分の「魂は踊ります」と言ったのです。私達は、私達の信仰生活に於いてそのような経験がありますか。あなたに対して神の恵みを覚えると、その大きな喜びで魂は踊り出すような覚えがありますか。また、主の愛と支えを思い起こすと、言い尽くせない安心を経験した事がありますか。

 

【主の愛は永遠まで】

最後にダビデは神の愛と祝福を考えますと、その恵みはこの世でのことに限られていない事を悟りました。主の愛は永遠まで続くという神の聖霊の啓示がダビデに与えられたのです。この世から去っても神との交わりが続きます。神と共に永遠の喜びが続きます。

 

【ダビデは主イエス・キリストを仰ぎ見た】

ダビデ王は主イエス・キリストがこの世に生まれる何百年前の人物でしたが、不思議に主イエスを通して私達の為に神がなさった事を見る事が出来ました。つまり、主イエスの贖い死を通して私達の罪を赦し、そして、御子の蘇りによって神が死を征服して、主を信じる者の為に永遠の命の門を開いて下さいます。

 

愛する兄弟姉妹、この恵みを考えますと、心は喜び、魂は踊りますか。今日の御言葉に於けるダビデの信仰を学ぶとき、ダビデのように溢れるような感謝を持って主を誉めたたえますか。どうか私達もダビデのような生き生きとした信仰が与えられますように、そして日々の生活に於いて主の御臨在を経験し、神の言い尽くせない喜びに溢れ、神と隣人に使えるようにお祈り致します。(おわり)

 

 

 

2010年01月17日 | カテゴリー: 詩篇

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/463