「幸せな日々を過ごしたい人」ウイリアム・モ-ア2010.1.10
聖書:ペトロの手紙一3章10−12
10:「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、11:悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。12:主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
【米国教会訪問中の出来事】
去年アメリカにいる間、家内と私は、私達が属しているアメリカ合衆国長老教会という宗派の多くの教会と中会を訪問しました。秋には本部の世界宣教部によって私達は太平洋側の北西部へ約一ヵ月間行かされました。ワシントン州、アイダホ州、オレゴン州、そして最後には北部のカリフォルニア州に行きました。それぞれの地域にある幾つかの中会が私達のスケジュールをたてて、私達は空港に着くと、全ては教会の方々に任せていたのです。
し
かし、ワシントン州にある中会の主事が予め私達に電話がありまして、その中会の巡回の時は宿泊もその人の家で、交通も全て主事が付いていってくるれと連絡
がありました。それは結構だと思いましたが、現場へ着くと計画がすっかり変わりました。家庭の事情で主事は二日前に急に辞任しました。そして、私達の交通
手段として、ある信者が車を提供して下さいました。それも結構な話ですけれども、広いワシントン州とアイダホ州も全く初めてですから、ちょっと困りまし
た。沢山のスケジュールを頂きましたが、地図も行き方の案内も貰いませんでした。ただ毎日の日程で何処そこの町でこれこれこういう教会に何時のプログラム
があると言うリストを頂きました。
実は、方向音痴の私にとってそれは悪夢のような条件でした。間違いなく道に迷う事は保証されていました。特に、西部劇のような広い砂漠の地方で道が分からなくなったら、行くべき教会への約束を守るどころか、完全にいなくなる恐もありました。
【車のナビゲーション】
そ
れで先ず、貸して頂いた車に乗る前に電気屋へ行って車のナビゲーションを購入しました。ちょっと高かったのですが、本当に役に立ちました。目的地の住所を
入力すると必ず導いてくれました。その一週間1,000キロ以上走りましたけれども、一度も迷いませんでした。教会訪問のスケジュールもちゃんと守る事が
出来ました。ただナビゲーションの指示に従うだけで、無事に目的地まで案内されました。カーナビゲーションは安くはなかったけれども、その代金1セントも
惜しくはありませんでした。
【命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人】
今日与えられた聖書の個所は「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人」に向けています。つまり、どういうふうにして、幸せな日々を過ごせる秘訣が教えられています。カー・ナビゲーションのように私達を必ずその目的地に案内して下さいます。
【幸せになるには】
誰
でも幸せになりたいと思います。私達人間皆は自分の生活と精神の質を上げたいのです。ある人は物を得る事によって幸せになろうとします。大きな家、豪華な
車、素敵な洋服、美味しい食べ物と飲み物などを通して幸せな生活と豊かな精神を追い求めます。しかしながら、その物を得る程、満足する力が減ってしまう現
象があります。物質は体をある程度楽にさせる能力があるけれども、人の内部的惨めさを和らぐ事が出来ません。
【大金持ほど不満で惨め】
ある教授がこのような題で本を書きました。「世界の人々の幸せ:幸福な小百姓と惨じめな大金持ちの逆説」。教授の研究によりますと物質的豊かさと幸せの関係はあまりありません。逆に豊になる程、不満と惨めさが増える傾向が強いです。
愛する神は何よりも私達、御自分のために特別に造られた被造物を祝福して、幸せにさせたいのです。その故に御子イエス・キリストを救い主として私達に遣わして下さいました。主イエスは御自分の使命についてこのように言われました。「はっ
きり言っておく。私は羊の門である。私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。私は門である。私を通っ
て入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする為にはほかならない。私が来たのは、
羊が命を受けるため、しかも豊かに受ける為である。」(ヨハネによる福音書10章7--10)
私達と全人類はその豊かな命と幸せな日々への道案内を得たいのです。実際に今日の御言葉はカーナビゲーションのようにその道を教えて下さいます。
この御言葉の指示は私達を迷わず神の祝福まで導くのです。
【舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず】
さて、今日の個所の10節を見て下さい。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず。」聖書は数多くの個所に舌と唇の力を教えます。特に、私達の口から出る言葉の悪を警告します。主イエスはこのように言われました。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。(マタイ15:10)
「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。」(マタイ15章17−20a)
同じようにヤコブの手紙にこう記されています。「あ
らゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御(せいぎょ)されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御出来る
人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死を齎す毒に満ちています。私達は舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を
呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このような事があってはなりません。(3:7−10)
今日の個所によりますと、幸せな日々を送りたかったら、「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず」で
す。考えて見ますと、私達の多くのトラブルは舌の為です。つまり、口から出る言葉を監督せず、人に傷をつけます。特に、怒っている時、愛のない醜い言葉を
言う傾向があります。また、本当に思っていない悪を言ってしまいます。そうすると、人間関係に害となり、幸せな日々を過ごす事がとても難しいです。ある場
合は言葉使いで人間関係を完全に壊す事があります。何故なら、愛のない言葉を言うと、それを消す事が不可能になります。言葉の消しゴムがないからです。そ
して、相手はその害のある言葉をなかなか忘れず、長く覚え続けます。
歯磨き粉を出し過ぎでその余分な物をチューブに入れ戻そうとした事がありますか。それは大変難しいですね。言葉においては同じ事です。口から出した言葉は元に戻す事が出来ません。
そ
の為に、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語りません。特に怒りを覚える時この御言葉を覚えなければなりません。
もし良い言葉が言えなかったら、唇を閉じた方が賢明であります。私達一人一人はどうでしょうか。自分の唇から言ってもいけない事を言ってしまったという時
がありますか。神様は今私達キリスト者に言っています。「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語りません。」
【悪と罪から遠ざかり】
続いて11節を見て下さい。「悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」幸
せな日々を過ごしたかったら、悪から遠ざからなければなりませんと記されています。つまり、罪と罪に負ける誘惑から遠くに離れる事です。ある罪は一時的に
幸せそうな気持ちをもたらせるかも知れませんが、しかし、間違いなくついにはトラブルと悲しみを招いてしまいます。神と人間同士との関係を壊し、自分自身
にも害を与えます。ですから、幸せを求めたら、罪を悔い改めなければなりません。つまり神の助けを祈りながら罪を止める事です。罪を犯すような誘惑になる
事や場所から遠ざかる必要があります。
そして、罪の代わりに善を行うべきです。積極的に人を助け、祝福に至る善い事をすると、罪を犯す機会が少なくなり、誠の幸せを経験出来ます。
【平和を願う】
更に、幸せな日々を過ごしたい人は「平和を願って、これを追い求めよ」と教えられています。平和の君、主イエスはこのように言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5章9)
私
達人間は大抵平和よりも勝利を得たいので平和をもたらす事はなかなか難しいようですが、人間と神の間、人間と人間の間、国と国の間などに平和は何よりも必
要であります。御自分の贖い死を通して主イエスは人間と神の間に平和の道を開きました。私達は「神の子」と呼ばれたかったら、自分の為に、また人の為に、
平和を追い求めなければなりません。お互いに敵意を抱く人達を和解させるのは神の仕事です。そして私達はその主の大事な働きに参加する喜びがあります。大
きな祝福をもたらす神の子と呼ばれます。
【主の目は正しい者に】
12節に、今日の御言葉はこのように閉じます。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
2010年01月10日 | カテゴリー: 新約聖書
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