人は皆、神の救いを仰ぎ見る ウイリアム・モーア
ルカによる福音書3章1−6
◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
1:皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2:アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3:そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4:これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。5:谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、6:人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
【アドベント(待降節)、クリスマス、再臨】
私たちのアドベントの歩みは大分進んで参りました。来週の主の日には、大きな喜びを持ってこの世の唯一の救い主、主イエス・キリストの御降誕を覚え祝います。そのために、アドベントで全世界の教会はその最も喜ばしい日の為に準備します。つまり、主イエスの降臨の意味と必要性を新たに覚え、将来の主御自身の再臨も切に待ち望みます。その準備が出来た私たちはクリスマスを心から祝いたいと思います。
【洗礼者ヨハネ】
大昔、ある人物も主イエスの降臨の為の準備をしました。その方の名前は洗礼者ヨハネです。ヨハネは多くの聖書の人物の中でとてもユニークなお方でした。御言葉によりますと彼は荒れ野で住み、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(マタイによる福音書3:4)
更に、ヨハネの姿と言えば、自分の髪の毛を切らず、長髪にしていたのです。言うまでもなく洗礼者ヨハネの外見は目立った事でしょう。荒れ野から出て、人里に現われると間違いなく、彼は 多くの人々の注目を引いて、話題になったのです。「あの男は何所の誰か。家の町に入ったのは何故なのか」と住民が互いにひそひそ話をしたでしょう。しかし、ヨハネが口を開くと人々はそのメセージと目的がすぐ分かりました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」とヨハネは宣言しました。旧約聖書の預言者のようにヨハネは国を巡回して唯一の全能の神からの大事なお話を人々に伝えました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と力強くて発表しました。今日の朗読に記されたように、「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させる為に悔改めの洗礼を述べ伝えた」と書いてあります。(3:3)
【荒れ野で叫ぶ者】
実は、イザヤ書によりますと預言者イザヤが洗礼者ヨハネの使命を何百年前に宣言しました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
洗礼者ヨハネこそがその「荒れ野で叫ぶ者」でした。そして、その使命はイエス・キリストの降臨の準備でした。簡単に言えば、ヨハネの役割は主イエスを受け入れる為、人々の心を用意するのです。神の救い主イエスがこの世にいらっしゃると、ひとりでも多くの人が救われる為に、ヨハネは荒れ野から出て来て、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫びました。ヨハネは「罪の赦しを得させる為に悔改めの洗礼を述べ伝えた」と今日の個所に記されています。
【悔改め】
ヨハネによりますと、イエス・キリストの降臨の準備は何よりも悔改めです。つまり、自分の罪を認めてそして、自己中心的価値観と態度と行動を捨てて、主イエスを通して、愛する神が備えて下さる誠の生き方と赦しを受け入れる事です。昔も今も何と難しい事なのでしょうか。人は自分の罪さえも気づき難いのです。もしかして罪と認めたくないかも知りません。自分を正当化し、次から次へと繰り返しています。よく考えてみれば、それを自分自身でもよく分るはずなのに、ずるずると続いています。
【罪を認める】
イエス・キリストの降臨の準備として人々は先ず自分の罪を認める必要がありました。何故なら、自分が罪人でなければ、神の赦しをもたらした救い主、主イエスが必要ではない訳です。罪の問題がなかったら、クリスマスの必要性も全くありません。クリスマスは罪の答えと解決であるからです。
しかし、罪は事実です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)と聖書にはっきりと記されています。この世を見ると罪の結果があまりに明白ですから、罪の力を疑う事が難しいです。自己中心的のため、愛のない振る舞いなど、全部は罪の現れであります。
ですから2,000年前に洗礼者ヨハネは、救い主を受け入れるように悔改めを宣言しました。そして、私達もその同じメセージを聞かなければなりません。自分の罪を認め、その罪を悔改めれば、イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いが自分のものになります。罪の故に神の敵である私たちは神に赦された友になります。
【自分を正当化する本能】
しかし、私たち人間はなかなか自分自身の過ちと罪を認めたくはありません。自分を正当化する本能が根強いからです。人の過ちはすぐ分かります。しかし、自分の事になりますと、自分の弱さを認めても、それを実際より遥かに小さく見積もる傾向が強いのです。自分には寛大で、相手には厳しいのです。
主イエスは私達にこう言いました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ福音書7:3)
実にイエス・キリストのみが罪の無い生涯を送りましたが、私たちは一人も残らず罪を犯しています。私達の造り主である神によって定められた標準に達しないので、罪人です。ですから私たちは例外なく悔改め、クリスマスにお生まれになった救い主イエス・キリストにより、そのお赦しを受け入れなければなりません。
実は悔改めがなければ、クリスマスは意味の無い空しいものです。その反面、自分の罪を認め、悔い改めれば、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストが提供する赦しと救いは自分のものになり、永遠まで大きな祝福になります。
【C.S.ルイス「悪魔の手紙」】
英国人のクリスチャン小説家 C.S.ルイスが「悪魔の手紙」と言う本を書きました。その小説にスクルーテイプと言う悪魔の助手が自分の甥ワームウッドに手紙を書きました。そして、手紙にスクルーテイプはワームウッドに人間を誘惑する色んなアドバイスが書かれています。全くフィックションですけれども、大事な真理を伝えています。私は C.S.ルイスの本を真似して、もう一つの手紙を創作しました。
【悪魔助手のアドバイス】
「ワームウッド君に。君はもうすぐ悪魔学校を卒業して、世界への働きを始める事を聞いてとても嬉しい。
あなたはよく頑張ってクラスのトップになりましたね。おめでとう。我々の敵である、平和の君、愛の神は力強いので、悪魔学校で習った知識を全部用いる必要があるんだよ。あなたは人を捕まえ、駄目にしようとする時、神は様々な工夫(くふう)を用いて、その人を救うので、くれぐれも気を付けた方が良い。
世界へ出発する前に一つのアドバイスをして上げよう。私の長年の経験を通して人間について大事な事を学んだ事がある。それは君に有益になるだろうから伝えておこう。人はみな大抵自分自身を非常に高く評価します。と言うのは人間は相手の罪や短所や悪などをすぐ探せますが、自分自身に関しては善い事ばかりを認める傾向が非常に強い。ですから、君へのアドバイスは、その人間にある傾向を是非、助長しよう。
【人間を正当化させよ】
我々の敵イエス・キリストは、人間が神の救いを受け入れるよう、自分の罪を認め、悔改めて欲しいのですが、あなたの仕事はその逆だ。それ故、人間が自分の罪を分からなくするために、彼等を一生懸命に正当化させるのさ。自分の善い事だけ悟ると、人間はきっと我々のものになる。
悔い改める必要がないと信じたら、神の赦しもいらないと思い込んで、イエス・キリストの救いなどばかばかしいと言うだろう。そのままにしておくと、人間は自分が優れた者だと思う程、彼等は高慢になり、キリストの救いなどいらないと主張する。人がその様子だったら、あなたは先ずほぼ大成功だ。
【人間の高慢を養へ】
ワームウッド君、頑張ってね。世界へ行って、人間を駄目にする為、今まで学んだあらゆる工夫と企(たくら)みを用いてくれ。特に人間の高慢を養って見なさい。そうすると彼等はやがて悪魔の側につき、多くの人の魂は我々のものになるのさ。
君を愛してやまない叔父(おじ)スクルーテイプ。」
愛する兄弟姉妹、始めのクリスマスに、主イエス・キリストの降臨準備の為、ヨハネは罪の赦しを得させる為に、悔改めの洗礼を述べ伝えた。何故なら、「キリスト・イエスは、罪人を救う為に世に来られた」(テモテへの手紙一1:15)からです。実は、自分にある罪の酷さが悟られなかったら、クリスマスの美しさが分かるはずがありません。クリスマスに向かって私たちもその「荒れ野で叫ぶ者の声」をもう一度聞く方が賢明です。新たに自分自身を吟味し、悔改めと信仰を表わすべきではないかと思います。そして、私たちはこう言います。イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた。そうしますと、クリスマスの際にイエス・キリストの賜物が一層貴重になり、私たちは大きな大きな喜びを持って「神の救いを仰ぎ見る。」のです。(おわり)
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