「まことの愛において一つになる」神戸改革派神学校生 國安 光
聖書:フィリピの信徒への手紙2章1~11
◆キリストを模範とせよ
1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
【はじめに:フィリピの教会】
今朝は、フィリピの信徒の手紙よりみなさまと共に神様のみことばに聞いてまいりたいと思います。この手紙は、使徒パウロが牢獄の中で筆を執り、フィリピの教会の信者たちに送った手紙であったといわれております。はじめにフィリピがどこにあるかを確認しましょう。フィリピの場所を知る手がかかりとして、聖書の巻末に地図があります。8パウロの宣教旅行2・3という地図にその場所が記されております。
【生きるはキリスト、死ぬは利益】
フィリピは、マケドニアというフィリピ周辺の地域でパウロがはじめに伝道した場所でありました。その働きによって救われた婦人たち、彼女たちを中心として建てられたのがフィリピ教会であったといいます。そのフィリピの教会の人々に対して、パウロは手紙を記しました。伝説ではパウロは牢獄の中で、死の訪れが歩みよってきていることを実感しながら、その思いをつづったと言います。パウロは1章21節で語ります。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)
【パウロの最大の喜び】
パウロにとって、生きることの最大の喜びは、イエス・キリストが人々に知られることでありました。そこにパウロが地上で生きることのまことの意味があったとも言えます。たとえ迫害を受けようとも、牢獄に入れられようとも、死にさらされようとも、いつ何どきもパウロはイエス・キリストが人々に知れわたることが喜びであったのです。その喜びのためなら苦しみをいとわない人生、その人生をパウロは、「戦い」と表現しています。
【福音戦線の同胞】
パウロにとって、フィリピ教会はその福音のために共に戦う「同胞」でありました。パウロは、その同胞たちと再び会えるか会えないかわからないような死の瀬戸際で、彼ら自身が自らの喜びであり誇りであることを告げながら語ります。1章27節。「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。」(フィリピ1:27)
このみ言葉は、福音の信仰の戦いがいかにはげしかったかを物語っております。フィリピ教会は、異なる教えを持つ人々によって信仰がおびやかされる四面楚歌の状態であったのです。クリスチャン人口1パーセントにもすぎない私たち日本の教会も、状況はフィリピ教会に似ているかもしれません。そのフィリピ教会に対して、パウロは「たじろぐなかれ!大丈夫だ!」そう力強く語ります。しかしそれはもし「教会が一つの霊、キリストの霊によってしっかりと立ち、互いに心を合わせまことの信仰に生きているのであれば」、であります。
【思いを一つにして(2:1-5)】
パウロは語ります。2章1節2節「1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
「キリストによる」とは、「キリストを信じ、生かされている」ということです。キリストに結ばれた、キリストの命に本当に生きる者たちに与えられるのが、励まし、愛の慰め、「霊」による交わり、それに慈しみや憐れみの心、です。
【「励まし」、「愛の慰め」】
「励まし」、「愛の慰め」とは単純に情緒的なことではありません。教会の中にはキリストを根っことした建設的な励ましのことばがあり、また、神の愛から生じるゆえに有効な助けとなる励ましの言葉があります。そのキリストによる「励まし」「愛の慰め」によって建設される教会は、「霊による交わり」を与えられます。
【聖霊によって】
「霊による」とは、聖霊によって注がれる神のみわざが、教会の中に創られていくということです。聖霊によって、神の愛を根っことする腹わたがゆり動かされるほどの「慈しみやあわれみにあふれる交わり」が教会の中には呼び起されるのです。
【教会の不一致】
続いてキリストの命に本当に生きるフィリピの教会の人々にパウロは、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と語ります。これは自分はいいけど、他人はどうでもいいという自己中心的なあり方、また他人よりも自分は優れていると考えるようなあり方ではありません。そのような自己中心的で、表面的なプライドばかりを守ろうとするあり方は、教会をひき裂く原因となります。誰しも自分自身のことが最大の関心事です。他人のことはその人自身の視野の外にある。結局人とのかかわりは、互いに互いを嫉妬しねたみ合うような緊張関係であり、それがいやで他人との間に垣根を置き、お互い自己防衛をする。このような人との向き合い方はしばしば常識と言われることがあります。
【企業人の孤独感】
私が現在遣わされている千里摂理教会の長老さんからこんなお話をうかがったことがあります。「企業で働いていると、他人の眼ばかり気にしてしまう。仕事についても、プライベートについても他人からどう評価されるかで、自分の地位や給料が変わる。私は企業で働いているとき、いつもどこか緊張していました。しかしある時ふと教会は本当に安心していられる場所だな~と感じました。会社を定年したいま、そのことを深く感じています。」
私はこのお話を聞いて、「本音を話してくださったな~」と感じました。私は、企業で働いたことがありません。ですから、実際の感覚はわからないのですが、社会で働く人々は少なからず他者に関心を持ちたくても「無関心でなくてはならない」感覚を覚えているのです。そのような社会の中で人々は心の奥深くに脱ぐいさることのできない孤独感を覚えているのだと思います。
パウロは告げます。「へりくだって、互いに相手を自分よりもすぐれた者と考え、自分のことだけではなく他人にも目を向けなさい。」(4節)
イエス・キリストを根拠とする教会は、一人一人が「へりくだって、互いに相手をすぐれた者と考え、自分のことだけではなく、相手にも目を注ぐ」教会であり、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つ」にする教会であります。
パウロはフィリピ教会に、これを決して理想としてではなく、具体的に実現することとして望んでいるのです。しかしそれは大変難しいことです。なぜなら人間はみな罪人であるからです。パウロ自身そのことはよく知っていました。罪がある以上、人間的な願いや情熱を根拠するものはみなバラバラな方向に向かっていきますし、争いは絶えないのであります。しかしその根拠が、イエス・キリストなら別です。まことの教会は、イエス・キリストが地上で歩まれた生涯の御姿を通して、導かれます。
【イエス・キリストを手本に(2:6-8)】
その御姿とは、6節7節8節「6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
イエス・キリストはまことの神でありました。しかし神であられるイエス・キリストは、地上で自らを神であることを誇ることはなさらなかったのです。奪い取る物のように、「神に等しい存在」「神のお姿」にしがみつき、それを用い尽くさねばならないとは見なされなかったのであります。
【イエス・キリストは僕の姿で】
イエス・キリストは、神の愛から与えられたものを何ひとつ「奪い取るものとは考えなかった」ことを示すために、「かえって自分を無にして、僕の身分」となられました。イエス・キリストはすべてを与え、しかも完全に与え尽して、何も所有せず、自分の身体や命さえも保持しないで、仕える者の姿をとられるに至ったのです。それはまことの神の御姿を持っておられたにもかかわらず、それを脱ぎ棄て、仕える者の姿を選ばれたという、真の「神のお姿」です。イエス・キリストは、そうすることによって不従順である私たち人間のために、しもべが主人に対するように、神様に従順をささげ、神様の赦しを得るため、自ら死へと入って行かれたのです。それも十字架の死に至るまでです。
【イエス・キリスト:高く上げられた方】
イエス・キリストは、御父であられる神様に対して全き愛と、全き従順とを捧げられました。そして十字架へと引き渡され血を流されたのであります。このイエス様の深い犠牲的な愛に、御父は力強い愛をもって応えます。
9節「キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」イエス様は深さの極みにまで下って行かれましたが、今やこの上もなく高いところへと昇っていかれるのです。 そして、「あらゆる名のまさる名」、神に栄光あるものとされた、もっとも大きく、もっとも高く、もっとも美しい名を御父なる神から受けるのであります。
10節11節「10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
天上にあるものとは、天国に住む者、無数の天使の群れであり、地下にあるものとは死んで地の下に眠っている者たちであり、地上にあるものとは地上に生きるものすべての者たちであります。このすべての者たちが主の御名にひざまずくのです。そして全世界の無数の舌は、イエス様が神様と人間との交わりを回復してくださった、「まことの主」であり、全世界をすべおさめ、死も命も支配しておられる、「いのちの主」であると告白するのであります
「高く上げられた」イエス・キリストは、神のためにご自身をむなしくして無になられた方であり、十字架ののろいと死に至るまで御父に対して従順であられた御子でありました。この御子イエス・キリストが、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、しかもしもべの姿をとり、御父に仕え、従順であられたこと、これ以上に御父をあがめることはありません。教会はこのまことに従順であられたただ一人の神の子であり、まことの人であられるイエス・キリストを信じみつめ、思いも愛も心も一つにして、その主に仕えていく、そしてそのことを通して「イエス・キリストは主である」と世の中にその名を証していくのであります。
【小さな東北の教会で】
私は、今年の夏7月と8月の二カ月間東北の地に夏期伝道へ遣わされました。7月は白石契約伝道所、8月は福島教会です。どちらの教会も小さな群れであります。白石は、だいたい毎週の礼拝出席者が6名、福島は3名であります。しかも、高齢化が進み、平均年齢は70歳以上です。このような教会で夏期伝道をさせていただくことを通して、「教会とは何か」について考えさせらえました。東北の地で、神様が私に見せてくださった群れは、たとえ小さくても、たとえ高齢化がすすんでいようとも、牧師も長老も執事もいなくても、まぎれもなく「教会」でありました。ある一人の白石のご婦人がこのような文書を記しておられます。
「私自身がここに生きる者として、何をなすべきか?何ができるのか?を問いたい。主がその生命を捨てて買い取ってくださった教会に仕える私の熱心は衰えていないだろうか?自分の体力や能力の無さや生活の忙しさを言い訳にして神様を欺いていないだろうか?自分の弱さを本当に認めて、神様に誠実に打ち明けて助けを求めているだろうか?たとえ日本で一番小さな伝道所であろうと、定住牧師がいなかろうと、老人ばかりであろうと、やるべきことはちゃんとやる、だめなことはだめだという、教会は愛することにかけては人に負けない。」
白石契約伝道所は、このようにイエス・キリストに従順に仕えておられる方々によって支えられておりました。牧師がいなくても、長老がいなくても、高齢化がすすんでいても、イエス・キリストは確かに導いてくださっている、守ってくださっている、この確信の上にしっかりと立って、イエス様に仕えておられたのです。
私は、この方々との出会いを通して「これまで自分は教会のことを全然わかっていなかったな~」と深く思わされました。
【真の教会】
教会はしばしば人の数が多いとか、建物が大きいとか、若いか若くないかとか、お金があるかないかとか、そういうことでよいか悪いかの評価をされてしまいます。それは間違いではないでしょう。ある面ではそうかもしれません。しかし、教会にとって本当に大切なことは、人数やお金や、建物の大きさではありません。本当に大切なことは「教会がイエス・キリストを根拠として、一人一人がイエス・キリストの真の愛に生かされ、イエス・キリストがへり下さったように互いにへり下り、目を向けあいつつ、思いも、愛も、心も一致すること」であります。
聖書は語ります。1節2節「1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
【西谷の地にある教会】
イエス・キリストは、この西谷の地に教会をお与えくださいました。本当に感謝なことであります。しかし、教会には時に意見の違いで争いやいさかいがあるかもしれません。またぬぐい去れない悲しい出来事や苦しい試練によって、不安の中を歩むことがあるかもしれません。たとえそのような時も、地上で我々の受けるべき苦しみを担い十字架におかかりくださった主は私たちの心の奥深くに目を注いでくださっております。嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、すべてを誰よりも深く知り、励まし、慰め、慈しみと憐れみの心を注いでくださるのです。そのような神の恵みを受け取り、分かち合う教会を主は西谷の地にお与えになられたのであります。この主に心を向け、また教会の兄弟姉妹一人一人に目を向け、私たちは思いも、愛も、心も主イエス・キリストにあって一つとなり、喜びも悲しみも苦しみも共に担い、その姿を通して「イエス・キリスト」の名をほめたたえてまいりましょう。(おわり)
2009年10月11日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書
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