「目を上げて、救いの神を仰ぐ」詩編121篇 神戸改革派神学校教授 牧野信成
聖書:詩編121篇
【巡礼の詩】 今朝は、多くの信仰者に愛されてきた詩編の一つから、信仰の導きを与えられたいと願っています。先ほどお読みしました、詩編121篇です。信仰者の巡礼の旅を歌う詩であり、祈りです。「巡礼歌」、字義通り翻訳しますと「上る歌」となりますが、詩編120篇から始まっています一連の巡礼歌は、一続きの文脈を形作っている、つまりそこにはドラマがありますので、それを意識して続けて読まれることをお勧めします。もちろん、今までのように、一篇一篇をそれぞれに味読して良いのですけれども、段落全体のまとまりを念頭に読みますと、より聖書に即した読み方ができます。1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2:わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3:どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4:見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5:主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6:昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7:主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8:あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
【詩編120篇:巡礼の旅の始まり】
そこで、120篇を念頭に、この続きの121編を読みますと、前の詩編では旅に出る前の状況を描いていました。争いの止まない罪深い世界で私は暮らしている。たとえ私が平和な言葉で語ったとしても、闘争心に満ちた荒々しい答えが返ってきてしまう。そこで、真の平和を願って、今居るところから一歩踏み出す。目を上げて、神に希望をかけて、巡礼の旅が始まります。
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
【山々】
「山々」は、パレスチナの特徴的な地形をよく表しています。私は学生時代に登山をしておりましたので、「山に向かって目を上げる」などと言われますと、北アルプスの懐の深い大きな山間に立って山頂を遥かに仰ぐ、というようなイメージを描いてしまいますが、パレスチナの、特にユダの山々は小高い石灰岩の丘を鑿や彫刻刀で削りだしたような、荒々しい、素っ気無い、岩山の連なりです。「山」そのものの標高は、それ程高くはないのです。しかし、巡礼者たちにとって、そこは神の居ますところと映ります。ここでの「山々」はエルサレムがその中心に座すところの山々、巡礼の目的地です。「私の助け」がそこにある。
【私の助けは、どこから来るのか】
「私の助けは、どこから来るのか」。助けが欲しい時に助け手が傍にいない。家族や友人や教会の仲間たちなど、信頼できる人が近くにいてくれるのは本当に有難いことです。大抵、その有り難味は失った時にわかるのですが。時折、しかし、そういう助け手が側にいなくなってしまうような、人生の危機に私たちは遭遇します。果たして、どこからか助けは来るのだろうか、いや、来るはずもないと思えてしまう。周りに人は沢山います。職場にあっても学校にあっても、都会に住んでいれば人から離れていることの方が難しいくらいです。けれども、それでも「助け」は期待できない、と思えてしまうのが孤独な現代人の姿でしょう。自分だけが頼り、と思えているうちは良いのだと思います。身体も意思もしっかりしていて、自己の尊厳も保てているのですから。しかし、そうした鎧がすべて剥ぎ取られてしまった場合、一人きりであると同時に、自分自身をも支える術もなくくず折れてしまったとき、「助けがない」のは絶望的です。
【わたしの助けは主のもとから】
しかし、「わたしの助けはどこから...」との声が上がるとき、詩編は答えを用意しています。詩人はあらかじめ答えを知っていて敢えて自分にそう問い、同時に会衆の同意を促します。聖書の信仰者たちは、「助けがない」と思われた絶望を何度も経験してきました。そして、そこで何度も「助け」にぶつかったのです。「助け」があちらからやってきたのです。だから詩人はその信頼を、歌の冒頭で告白して、会衆に同意を求めます。
どこから来る、わたしの助け、
わたしの助けは主のもとから、
天と地をつくる方。
原文のまま翻訳するとそのようになります。周りに助け手が見当たらないような孤立無援の状況で、信仰者は身を屈めて頭を深く沈めるのではなく、眼差しを高く上げて、山々を仰いで、さらに山の稜線を越えて青く広がる天の向こうにまで思いを馳せて、天と地を創造された神を想い起こす。最後に望むことのできる助けは、人の知らない私の心の底まですべてを知っておられて、御自分のつくられたこの世界と私という小さな人間に、創造者として責任を負っておられお方をおいて他にはない。わたしの助けは、天の神のもとから来る。
【わたしの助けは、天の神のもとから来る】
信仰者でも苦しみます。信仰の挫折を味わうことがあります。祈れないまま長い時間が過ぎることもあります。そのときに想い起こしたいのは、この詩編の言葉です。目を上げて、天地をつくられた方を仰ぎ見る人がここにあります。そのことを想い起こすだけでよい。無理やりに、そうしなければ信仰者とはいえない、と叱咤激励しても仕方ない時もあるのです。聖書の言葉は押し付けがましくない。詩編の中で祈っている信仰者がいるのです。それは私たちのために、とりなして祈ってくれていると考えても良い。わたしの助けは主のもとからくる、と言ってくれているのです。
【神が立ち上がらせてくださる】
それを本当に信じることができた時、神が立ち上がらせてくださいます。そこからまた、新しい一歩が踏み出せるようになるでしょう。信仰者に大切なのは、行動するのに焦るよりもまず信頼すること。どんなときにも、天の助けを信じることです。
【あなた】
3節を見ますと、語りの言葉が「わたし」から「あなた」へと代わっているのが判ります。ここで自分ではない人の言葉が挿入されます。これは、信仰告白に続いて与えられる、第三者によるはなむけの詞です。
どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
【祝福の祈り】
イスラエルでは会衆を祝福するのは祭司の役割でしたから、これは祭司が述べた祝祷なのかも知れません。しかし、必ずしも祭司でなくともよいでしょう。子どもを巡礼の旅に送り出す母親もしくは父親でもよい。弟子たちを送り出す教師であるかも知れない。ともかくこれは、信仰の仲間たちの願いです。神があなたの足取りを確かにしてくださるように。片時も目を離さずに旅路を守っていてくださるように。神へと向かう巡礼の旅の第一歩は、自分ひとりの決心ばかりではありません。仲間から与えられる祝福がある。たとえ孤独の中で一人で信仰に縋るとしても、少なくとも、この詩編の言葉が祈っていてくれる。
【執り成し手】
信仰者には見えない執り成し手もあります。わたしたちの内なる聖霊が、天におられるキリストが、いつでも私たちのために良いことを祈っていてくださる。
詩編はキリストの祈りである、とよく言われます。詩編をすぐに「私の言葉」に同化してしまう前に、一度切り離して、一人の祈り手を考えてみるとよいでしょう。通常は「ダビデ」を思い浮かべますが、ダビデと私たちの関係は少々遠く感じられることでしょう。ダビデに表されるのは、メシアということ。メシアは救い主に違いありませんが、メシアは神の民のために神から遣わされて、民と共にある人です。私たちは新約聖書を通して、それがイエス・キリストであることを知らされています。
【キリストがわたしたちのために祈ってくださる】
ですから、詩編のダビデはキリストなのです。キリストが私たちの一人になられて、わたしたちを代表して、わたしたちのために祈ってくださるのです。詩編の祈りはわたしたちの業ではなく、わたしたちへの恩恵です。詩編の祈りにおいて、私たちは祈っていただいている。ゲッセマネの祈りのように。また、そのお方に促されて、そのお方と共に祈るのが詩編の祈りです。
【信徒の堅忍】
信仰者の歩みは、「堅忍」と言われるように、神に守られて道を進んでいます。実際、わたしたちもまた、いつも兄弟姉妹の信仰の歩みのために互いに祈っていますね。祈られていることは本当に支えですね。
4節は、そのことに対する力強い承認です。
見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。
【イスラエルを守る方】
神にはうっかり見過ごすということはない。神は一瞬たりともわたしたちから目を離すことはない。「イスラエルを守る方」という言い方には、事柄は私個人の関心ばかりではないことの表明があります。つまり、神は私を守っていてくださる、ということがこの詩編の主題ですが、その私は「イスラエル」の一人である、ということと切り離されない。
【教会を守る方】
旧約のイスラエルは、新約のキリストの教会の予表と受け取ることができますから、神は教会を守る方であり、そこにいるわたしを見守る方である、ということです。主なる神は、御自身の教会に対して寝ずの番をされている。それ程、教会は神にとって大切なものです。人から無視されたり、ぞんざいに扱われたりしますと誰しも傷つきますが、神は決してそういうことはなさらない。試練に見舞われて、神が守っていてくださらないと思われることがあっても、それは私たちの思いであって、神は見放してはおられません。
【主があなたを見守る】
後半の5節から8節にあるのはわたしの心にある確信ではなくて、「あなた」と呼びかけておりますように、外から告げられる神の約束です。それは神の確かさに支えられた祝福で、この言葉が巡礼の旅そのものを支えます。5節と7節と8節の最初の句で、
「主があなたを守る」と三度繰り返されます。「守る」とは、5節・6節に表されるように様々な危険からの「保護」を意味しますが、旧約聖書での一般的に用いられるこの語は、第一に「見守る」ことを指す言葉でして、神の注意深さがそこに意図されています。エルサレムの町の門に立つ夜警の仕事は、夜明けを待ちながら危険がないかどうか「見守る」ことですね。守る、とは見守ること。また「戒めを守る」ともいいますが、それが意味するのは、神の教えを大切に注意深く学び実行することですね。守るとは、注意深く、大切に、保護し、保持すること。そのように、神は旅路にあるわたしを守る方です。
【右の手:神は近くにおられます】
天地をつくられた方ですから、どこか遠くにおられる存在かと思われます。けれども、詩編が教えることは、本当のところ神は目を上げて遠くに見晴るかす彼方におられる方ではない。確かに、その方を目指してわたしは旅に出るわけです。しかし、わたしの見えないところで、神は実に近くおられます。5節にある「右の手」とは右側の手の届くところということです。そこに強い陽射しを遮る蔭のように神は立っていてくださる。沙漠の陽射しはとても強いので、直射日光に当れば旅を続けることは困難です。また、月が明るく空を支配する夜は、急激に冷え込みますから注意しなければなりませんし、そういう月夜は旅人に災いをもたらすと昔は信じられていたようです。
【すべての災いを遠ざけて】
しかし、昼も夜もすべての災いから主は守ってくださる(7節)。「災い」は文字通り理解してよろしいと思いますが、もっと倫理的に捉えて「邪悪」とすることもできます。「わたしたちを悪からお救いください」という祈りが先の詩編の主題でもありましたが、ここではそれに対して、神の側からの確約が与えられます。
主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。
ここでは祈りの言葉というよりも、主が守って下さるとの約束と読みたいところです。通常「魂」と訳されますが、ここではおそらく「あなた自身」ということです。「魂」はいのちを表す場合もありますが、心も身体も合わせて人の全体を指す言葉です。
【行きも帰りも】
8節では「行きも帰りも」という表現で旅路の全体が覆われています。神は信仰者に一時的に加護を与えるのではありません。実に人生の全体において「わたしを守る」方であり、まどろむことも、眠り込んでしまうこともない。この約束が「今から永遠まで」を蔽い尽くす。すなわち、その祝福の中で旅は完遂され、巡礼者はついに聖なる都で神ご自身と出会います。
【今より】
そして、「今より」とは何時のことでしょうか。それは、この祝福を信じた時でしょう。「主はあなたを守る」と語っておられます。これを信じるならば、私たちの日常生活は神に守られた生活の他ではありません。
こうして、神への信頼が、巡礼の旅を支える唯一の杖となります。出発のとき、純真な心で神を信じた信頼が旅を全うする要です。巡礼の旅への出発は、私たち信仰者の人生の始まりでしたけれども、これは現在において、日毎に、週ごとに、また仕事に繰り返す、礼拝を中心とした信仰生活のリズムです。その信仰生活において、始まりに与えられた祝福があったことを思い返しますと、この詩編がわたしたちに教えるのは、その出発点に、信仰者がいつもそこに立ち戻るべき原点がある、ということです。この詩篇はその出発点を示し続ける歌です。
【一週の旅路】
今週も神の約束を確かに心に留めたいと願います。わたしたちに求められているのは、天地を造られた神への信頼です。すべてのものを手にしておられる神への委託です。御子イエスを私たちのところに送ってくださった、愛の神への深い信頼です。信仰を杖として、一週間の旅に出て参りましょう。主は皆さん一人ひとりを注意深く大切に見守っていてくださいます。
【祈り】
父なる御神、あなたは御子イエス・キリストを賜ったほどに、私たちとこの世界を愛してくださいました。あなたが大切にしてくださることを想い起こして、わたしたちも与えられた自分と隣人と世界とを大切に保つことができますように。あなたへの深い信頼を寄せて、日毎の信仰生活を進ませてください。あなたに真にお会いできる日を楽しみにしながら。主イエス・キリストの皆によって祈ります。アーメン。
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