「従うべき方」片岡 継・神戸改革派神学校3年生
聖書:ペトロの手紙Ⅰ 2章18~25
◆召し使いたちへの勧め
18:召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。19:不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20:罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、 これこそ神の御心に適うことです。 21:あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 22:「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」23:ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24:そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた がたはいやされました。25:あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
【「召使い」とは?】
今日与えられております御言葉は、小見出しにも書かれていますように当時の「召使いたちへの勧め」が書かれている箇所です。この「召使い」というのは、ローマ世界の階級である奴隷一般とは区別されています。ここでの「召使い」というのは、家庭での下働きをする具体的な人たちのことを言っています。当時のローマ世界には、このような人たちが日本の人口の約半分の6千万人もいたと言われております。その中には、教養ある人も多くいまして、医者や教師などの「召使い」もいました。ですからこのような人たちが根底にいまして、当時のローマ世界は支えられていたと言っても過言ではありません。
彼らは、いつも不当な扱いを受けていたわけではありませんが、やはり人間としてよりかは「道具」として見られていた側面が強いようです。しかしそのような中にあって、クリスチャンとされたこの「召使い」に光が当てられるのです。
【召使いへの勧め】
それは「心からおそれ敬って主人に従いなさい」という勧めでした。どのような「主人」に対して「心からおそれ敬って従う」というと、「善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人」、つまり全ての主人に対してです。ここではもちろん「無慈悲な主人」に対して注目されています。しかしこのような主人に従うと言うのは、なかなか難しいことではないのかと思わされます。「不当な苦しみを受けることになっても」「従う」からです。しかも「心からおそれ敬って従う」のです。
【「従う」ことの難しさ】
私自身小学生の頃は、やられたらやり返さないと気が済まなかったので、この難しさは人ごとのようには覚えません。やられたらやり返す、むしろやり返しているところを目撃されるので、よく先生に怒られていました。やられたら自然にやり返している。そして気づいたらその子の家に親と一緒に謝りに行っている、ということもありました。しかしこのような姿は、具体的な現れ方は違えど、大人になっても同じことです。また大きく見れば国と国同士の間でも見られる歪んだ関係と言わざるをえません。戦争が終わらない事実。相手を信用できないが故にいろいろな兵器がどんどん増やされている事実。まさに相手の脅威に対して、脅威をもって対抗しようとする姿です。
【「罪」ゆえに】
このような個人的なレベルに関しても、国と国の間に関しても、やはり根っこは同じ部分で共通しているわけです。それはまさに相手を信用して、愛することのできない私たちの「罪」の故であるとしか言いようがありません。本物の「愛」を知らないこの「罪」の故です。そして小さな戦争も大きな戦争もこの「罪」という歪み、またはその傷によって生じている現実があるのです。私たちが平和を願う時、そこにはやはり罪が愛に覆われる必要があることに気が付きます。そして、それはどのような「愛」かということを問わざるを得えないのです。
【「従う」とは「ゆるす」こと】
三浦綾子さんの小説で「ひつじが丘」という小説がありますが、ここでその愛とは「ゆるし続けること」として、その物語は一貫して展開されています。そこでは次々と主人公に対して「不当な」出来事が起こり、「ゆるし続けること」の困難さに葛藤し、うちのめされている姿が描かれます。そしてついにキリストの完全に「ゆるす姿」に出会わされる、まさに「本物の愛」に気づかされるところへと導かれていきます。
今日の聖書の箇所では、「従う」という言葉において、実現する「愛」が指し示されています。それは言いかえるならばやはり「ゆるす」ということであります。
【なぜ「従う」「ゆるす」のか?】
その具体的に「従う」姿は19節「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」という御言葉に言い表わされています。ここに「従う」ことのまたそれに伴って実現する愛による平和の原則が描かれているわけです。「不当な苦しみを受けても」、やり返さない。むしろ「心からおそれ敬って従う」のです。何か弱腰の態度のような感じもいたします。しかし福音書を始め聖書はこのような者こそ本当に強く、平和を実現する者なのであることを証言しています。ですからここでも「神がそうお望みだ」という言葉、また「御心に適うこと」という言葉で表わされているのです。「神がそうお望みだ」また「御心に適うこと」とペトロを通して神御自身が宣言していますと私たちは従うほかありません。20節後半でも「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」とあります。このように「耐え忍ぶ」ことが「神の御心」とこう何回も出てきますと、やはり聞き従う他ないわけです。むしろこの「御心」と訳されているところは原文では「恵み」という意味ですから、苦しみを受ける方がむしろ良いことだと言わんばかりです。しかしこの御言葉だけ見てしまいますと、何か息苦しく、とても私にはできないというような思いがいたします。いくら「召使い」にあてた勧めとは言え、これこそ何か人権を無視しているかのようにさえ思ってしまいます。ですから21節からは「なぜそこまでして耐え忍んで従うのか」という理由が語られるのです。21節からは本来、詩文の形をとっていまして、「召使い」だけでなく、クリスチャンすべてに当てはまる「苦しみを耐え忍ぶ」理由が力強く宣言されています。
【キリストの残された道】
それは、「キリスト」がまず「あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたから」というものです。キリストの弟子として私たちは、この方の跡に従う道を示されているのです。しかしここでも卑屈になって、「キリストはできたかもしれないが、私には無理だ」という思いがどこかにあるかもしれません。そこには、やはり本当に「私たちのため」にキリストが「苦しまれた」と言う事実が心の芯にまで染み透っていなければ、そのような思いになるのは当たり前です。ですからペトロも預言書のイザヤ書53章を引用して、その「私たちのために苦しまれた」キリストの姿を鮮やかに指し示すのです。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」
この御言葉にこそ、私たちの全ての業を決定づける神の御業が指し示されているのです。すべてはキリストが中心なのです。この偽りのないキリストの完全なお姿によって、不完全な私たちは「いやされました」。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さ」ないこのキリストの姿、つまり「ゆるし続ける」キリストの姿によって私たちは「いやされた」のです。心から人を、神をゆるせない私たちにとっては、まずこのキリストの「愛」が必要でした。それほどに、人は罪の中にあるからです。
【キリストと罪人の関係】
しかし罪に沈んでいた私たちは、自分がその罪人であるということすらなかなか気づくことのできない弱さを持っていたようです。ペトロが引用しましたイザヤ書を直接見たいと思います。53:1-4を読んでみます。
「1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。2乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」とくに最後の4節です。わたしとは何のかかわりがあるのか?と言わんばかりの表現です。
罪とは何でしょうか?それは、まさに自分が罪人だと気がつかない事実に始まります。私とキリストにどのような関係があるのか?しかし関係のない人はこの地上にはいません。続きのイザヤ53:5を読みます。
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
【キリストの従う姿に見る神の愛】
私たちはこの苦しみぬかれたキリストの姿を通して本当の「愛」を知りました。この何にも代えがたい、また絶対に揺るがない「愛されている」という事実によって、私たちにも「愛する」、「ゆるして従う」という火が灯り始めたのです。
本当に愛すると言う事を、その仕方を知らなかった者が、キリストの静かな愛によって「愛する」ことを知ったのです。キリストはただ「愛する」という観念的な思いではなく、実際に「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。まさに「愛」の歴史的出来事がキリストによって、この地上に、私たちに輝かされたのです。
私たちの深く深く刻まれた罪の傷が、キリスト御自身に深く刻まれました。それは私たちのどうしよもない傷が癒されるためです。救われるためです。やられたらやり返す。ののしられたらののしり返す。そのようなことしか知らなかった私たちがただただ血みどろの「キリストの十字架」によって癒されたのです。神に対して、何回も何回も背いて神を傷つけていたにも関らずです。
父なる神様は、その私たちがつけた私たちの傷をキリストに刻むことによって私たちの目の前に、示されたのです。それは、私たちが私たちこそ罪人であることをまず知るためでした。私たちこそがこの罪の故にキリストをののしり、苦しめて傷つけていた者たちでした。歴史に名を残した殺人犯は私たち自身だったのです。私たちは、神を殺したのです。しかし神は私たちを訴えるようなことはせず、人のさせるがままにキリストを訴えたのです。
私たちこそ、不当な苦しみを与える無慈悲な主人なのです。むしろそれ以上の人の手によっては、施しようがない罪人です。しかし神の僕であるキリストは、「神がそうお望みだとわきまえて苦しみを受け」、私たちのために「耐え忍ばれたのです」。キリストはただただ「正しくお裁きになる方にお任せ」していただけです。このキリストの無言の従順によって、今のこの私たちがあるのです。
【従うべき方】
私たちは「羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。不当な主人のもとにいないのです。魂の牧者であるキリストのもとにいるのです。キリストが私たちのために苦しみを耐え忍ばれた故に、私たちは神の僕とされたのです。私たちの従うべき方は、魂の牧者であるキリストただお一人だけです。キリストに従う者として、そしてキリストの愛が無慈悲な主人にも及ぶように私たちは召されたのです。キリストの愛が受け継がれるように、私たちは召されたのです。ここにこそ、本当の平和を実現する鍵があるのです。キリストこそ平和であり、愛です。このお方は「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」
【私たちにも及ぶキリストの姿】
私たち人を、また国や世界を変えるのは、このようなキリストの愛以外にありません。歴史に名を残したクリスチャンたちは皆このキリストの愛に満たされていたからです。それは同時に自分が一番の罪人であることを知っていた人たちでした。
キリストは自らに固執せず、むしろ私たちのために十字架に全てを捧げました。そしてこのキリストの姿は私たちにも及んでいる祝福なのです。
最後にペトロの手紙Ⅰ 3章8,9節と4章8節を読んで終わります。
「8終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。9悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
「8何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」
この愛は、神の愛、キリストの愛です。(おわり)
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