『大いなる愛』城下忠司・伊丹教会長老
【聖 書】ヨハネの手紙I4章13節~21節
13:神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。14:わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。15:イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。16:わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。18:愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
【子ども絵本】
最近ノンフィクション作家柳田邦男さんの書きました。「大人が絵本に涙する時」という本を読みました。この方がこんな風に絵本について語っています
「絵本は子どもたちが第一の対象ではあっても、実は、読む人の人生経験が豊かになるにつれて、内容を深く味わえるようになる、すぼらしいメディアであり、自分自身の生き方や心の持ち方や子どもの心の成長などを考えるための滋養分となるものだ。」と言っています。
いま、伊丹教会では毎月第一土曜日に絵本の読み聞かせの奉仕がなされていて、母親と子どもたちが参加されています。多いときは子供が20名ほどで、とても素晴らしい時が与えられています。私も2度読み聞かせの奉仕をしました。
私は絵本から随分遠のいていましたが、筑波市に住んでいる孫が小学校に上がるまで、孫のところに行った時には、必ず読むことにしていました。実は私の家にはもう絵本はほとんどありません。子供たちが大きくなってから本箱の中から絵本が消え、今は20冊ほどしかのこっていません。
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「神を愛する者の幸い」淀川キリスト教病院 田村英典牧師
聖書:ローマの信徒への手紙8章28節
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。
【万事が益となる】
今朝は、多くのクリスチャンに愛され、彼らを力づけている御言葉の一つ、ローマ8:28に注目します。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」無論、万事がそれ自身で勝手に益となるように働くのではありません。神の摂理によってです。
それにしても、ここで言われていることはすごいと思います。これは、前後の文脈、例えば、17節「キリストと共に苦しむ」、18節「現在の苦しみ」、26節「弱い私たち」、31節「誰が私たちに敵対できますか」などから分りますように、信仰上のことで様々な苦しみを味わっていたローマ在住のクリスチャンたちを励ますために、紀元56年頃、書かれたものです。彼らは既に信仰の戦いをしていました。しかし、今後もどんな戦いや苦難が待っているか分りません。それに対して不安を感じるのは当然でしょう。そういう彼らに、パウロは聖霊に導かれて書きました。
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2009年09月20日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
「従うべき方」片岡 継・神戸改革派神学校3年生
聖書:ペトロの手紙Ⅰ 2章18~25
◆召し使いたちへの勧め
18:召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。19:不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20:罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、 これこそ神の御心に適うことです。 21:あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 22:「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」23:ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24:そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた がたはいやされました。25:あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
【「召使い」とは?】
今日与えられております御言葉は、小見出しにも書かれていますように当時の「召使いたちへの勧め」が書かれている箇所です。この「召使い」というのは、ローマ世界の階級である奴隷一般とは区別されています。ここでの「召使い」というのは、家庭での下働きをする具体的な人たちのことを言っています。当時のローマ世界には、このような人たちが日本の人口の約半分の6千万人もいたと言われております。その中には、教養ある人も多くいまして、医者や教師などの「召使い」もいました。ですからこのような人たちが根底にいまして、当時のローマ世界は支えられていたと言っても過言ではありません。
彼らは、いつも不当な扱いを受けていたわけではありませんが、やはり人間としてよりかは「道具」として見られていた側面が強いようです。しかしそのような中にあって、クリスチャンとされたこの「召使い」に光が当てられるのです。
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「目を上げて、救いの神を仰ぐ」詩編121篇 神戸改革派神学校教授 牧野信成
聖書:詩編121篇
【巡礼の詩】 今朝は、多くの信仰者に愛されてきた詩編の一つから、信仰の導きを与えられたいと願っています。先ほどお読みしました、詩編121篇です。信仰者の巡礼の旅を歌う詩であり、祈りです。「巡礼歌」、字義通り翻訳しますと「上る歌」となりますが、詩編120篇から始まっています一連の巡礼歌は、一続きの文脈を形作っている、つまりそこにはドラマがありますので、それを意識して続けて読まれることをお勧めします。もちろん、今までのように、一篇一篇をそれぞれに味読して良いのですけれども、段落全体のまとまりを念頭に読みますと、より聖書に即した読み方ができます。1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2:わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3:どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4:見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5:主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6:昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7:主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8:あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。