「神の素晴らしい愛」淀川キリスト教病院牧師伝道部長 田村英典牧師
聖書:ヨハネ3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
【小型の福音書】
ヨハネ3章16節は、聖書の中で最も有名な箇所の一つでございます。宗教改革者ルターは、ここを「小型の福音書」と呼びました。それほど、聖書の福音を見事に要約しており、世界中の多くのクリスチャンに愛され、暗唱されてきました。ここはとても短いです。簡潔です。しかし、天と地とその中の全ての物を造られた全知全能の生ける真の神の、私たち罪人に対する愛を見事に伝えています。今朝は、改めてここから神の素晴らしい愛を三つの点から確認したいと思います。
1【世とは】
神の愛の素晴らしさの第一点は何でしょうか。それは神が「罪人」の私たちを愛しておられることです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
実はヨハネ福音書では、「世」という言葉は、単にこの世界を指すだけでなく、造り主なる真の神に背を向け、心を閉ざし、神を無視する不信仰な罪深い世という意味も持っています。例えば、ヨハネ12章31でイエスは言われます。「今こそ、この世が裁かれる。」17章25でもイエスは天の父なる神に「正しい父よ、世はあなたを知りませんが」と祈られます。ですから、ここでも、「世」は単なる世界ではなく、造り主なる神に背き、自分中心に生きる罪深い不信仰な世、またそれを構成する私たち罪ある人間とその世界を意味します。
【罪人の世界】
その通り、神が愛されたのは、決して皆が心優しく、神の御心に喜んで従っている、正しく清い美しい世、神の目から御覧になって愛らしい世ではありません。争い、略奪、搾取、偽り、妬み、だまし合い、争いや戦争が絶えず、互いに蹴落とし合っているかと思えば、すぐ馴れ合いになり、悪いことには結託する。富や名声、権力、地位が手に入れば、傲慢になって目下の者や弱者に対して横柄になり、そうでなければヘソを曲げ、人を妬み、世を恨み、神を憎む。何と身勝手な罪深い世でしょう。
【偶像崇拝】
真の神を真剣に求めるどころか、自分の言いなりになるご都合主義とご利益主義の産物である偶像を拝み、崇める世です。金や銀、木や石で作った宗教的装いを持つものだけが偶像ではありません。そこに自分の生きがいや価値観の一切を置くなら、富、学歴、名声、趣味、娯楽、賭け事を初め、何でも偶像です。
【神は天から怒り】
真の神を無視し、こういうものに生きる人間は、神の目から見て愛らしいでしょうか。愛すべき存在でしょうか。むしろどんなに不快でしょう。ですから、ローマ1章18は「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されました」と語るのです。その通り、神の怒りこそが相応しい世なのです。
普段は私たちのことが嫌いでいて、自分の困った時だけは調子よく私たちに愛想を振りまき、私たちに助けを求め、しかし、自分の問題が解決したら、さっさと私たちに背を向け、無視するような人たちがいたとしたら、私たちは彼らを愛せるでしょうか。
【神の愛の対象となる罪人】
しかし、天の父なる神が愛されたのは、正にそんな罪深い世であり、身勝手な私たち罪人なのです。何という神の愛でしょう。こんなことがあるのでしょうか。あります。このことのすごさを、今朝、改めて深く心に留めたいと思います。これが第一点でございます。
2【独り子】
二つ目は、神がこんな私たちにご自分の愛する「独り子」をお与えになったことです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
「独り子」とは、勿論、二千年前、人としてこの世に生れ、父なる神とその清い御心を最高に表された神の御子イエス・キリストのことです。そうです。神はご自分の独り子を、私たち罪人への贈り物として、世の真只中に送られたのでした。
でも、これはそれ程、素晴らしいことなのでしょうか。勿論、素晴らしいことです。では、どういう意味ででしょうか。
実は「独り子」と訳されている元のギリシア語には、ただ一人の子というだけでなく、掛け替えのない愛する子という特別な意味があります。ルカ7章11以降は、ナインという町でイエスが「ある母親の一人息子」を生き返らせられたことを伝えます。ここで「一人息子」と訳されているのは、元のギリシア語聖書では、ヨハネ3章16の「独り子」と同じ特別な言葉が使われ、直訳すると「独り子なる息子」となります。「独り子」というのは、掛け替えのない特別に愛する子という意味なのです。ヘブライ人への手紙11章17「信仰によって、アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです」という所も、特別な意味を込めて「独り子」という同じ言葉を使っています。
しかも神は、このいとしい独り子イエスが、当時のユダヤ人を代表とする人類に、あのむごい十字架で殺されるのを承知の上で、敢えて世に送られたのでした。何という神の愛でしょう。
【ハーレムでの体験】
私は、もう27年以上前、34歳の時、1981年11~12月、数名の牧師と共に、米国のジョージア州アトランタ近郊のコロンビア神学校で約1か月勉強し、合衆国長老教会に属する幾つかの教会も訪ねました。その後、ニューヨークへ行き、ユニオン神学校の寮に二泊しました。二日目の朝、黒人居住地域ハーレムを見ることになりました。当時は少し荒れていたため、ガイドの日本人は「決して彼らにカメラを向けないこと、彼らと目を合さないこと」と強く注意しました。私たちは緊張しながらマイクロバスでゆっくりハーレムへ入りました。ゾッとするほど汚いビルがあり、大きな絵や文字が壁の至る所にペンキでベットリ書かれていました。朝なのに学校へ行かない子供たちがいて、道で遊び、酒に酔った大人が空ろな目をしてボンヤリ座り、たむろしてこちらをジロッと見たりで、何とも荒んだ光景が見られました。
しかし、私も牧師ですので、「彼らに神の愛を伝えるには、どうすればいいのか」と、バスの中で真剣に考えました。言葉だけなんかでは全く信用されない。そこで当時、5歳をかしらに3人の男の子のいた私は、本当にこんな風に考えました。「ここに私の子がいる。この子を渡すから、好きなようにしていい。だから、私が皆さんのことをどんなに真剣に思い、愛しているかを分ってほしい」とでも言えば、彼らは心を開いてくれるだろうかと。無論、私には自分の子供を彼らに渡すことなど、できるはずがありません。
【罪なき独り子を十字架に】
しかし、まさに神はそれを、ご自分に背を向ける不信仰で罪深い私たちのためにして下さったのです。ご自分の独り子が残酷にも鞭打たれ、十字架で辱められ、人が千回死ぬより苦しいと言われるあのむごい十字架の苦しみを受けて殺されることが分りながらです。しみも汚れも一切ないご自分の独り子、愛してやまないその御子イエスの犠牲の死、どうしようもない私たち罪人のためのその身代りの死だけが、私たちを罪と恐るべき永遠の滅び、永遠の死、永遠の地獄から本当に贖い、救うことができる。ですから、天の父なる神は、事実そうなさったのでした。何という神の愛でしょう。これが天と地と私たち一人一人をお造りになった、生ける真の神の愛なのでございます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
3【永遠の命の素晴らしさ】
最後、三つ目は、御子を信じる者に与えられるものの素晴らしさです。何を与えられるでしょか。永遠の命です。
人は皆いつか死にます。そして消滅もしなければ、千の風になって漂いもしません。皆、神の裁きの座に立ち、その一生の行いがあらわにされ、裁かれます。ヘブライ9章27は言います。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている...。」一体、誰が大丈夫でしょうか。皆このことを真剣に考えているでしょうか。
【福音】
しかし、ここに福音があります。ヨハネ3章16は言います。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ためだと。立派な人格者とか良い行いをたくさんした者がではなく、「独り子を信じる者」と言います。そうです。ただ神の御子イエスを自分の救い主として、心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、私たちは御子の十字架の贖いの死の故に、全く罪赦され、義とされ、神の子とされ、徐々に罪の力と汚れから解放され、また復活して天におられる主から永遠の命を本当にいただけます。主を信じた時、私たちは救われ、永遠の命は始まるのです。
永遠の命とは何でしょうか。文字通り、永遠の命なのですが、更に素晴らしいのはその内容です。主イエスはヨハネ17章3で「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われます。こういう場合の「知る」は、親しい交わりを意味します。私たちはこの世にいながら、私たちを造られた神、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の霊なる神、私たちを極みまで愛しておられる神と、本当に親しい交わりを許されるのです。私たちは、神との交わりという新しい世界を与えられ、様々な喜び、感謝を新たに体験させられるのです。辛いこと、悲しいこと、困難、矛盾、不条理に満ちたこの世にあって、私たちは神を味方とし、神と共に、またイザヤ46章4が言うように、「神に背負われ」ながら、生きることを許されます。やがて肉体の命は、神の定められた時が来たら、終ります。しかし、私たちの魂は、神の恵みにより直ちに完全に清められ、父・子・御霊なる三位一体の神ご自身の素晴らしい永遠の交わりの中に迎え入れられます。
【神の愛の交わりの中に】
今、父・子・御霊なる三位一体の神ご自身との交わりに入れられると言いました。これを私たちは、どのようにイメージしているでしょうか。私はこういうふうに考えることもできると思います。クラスメイトの中に、一人一人も大変素晴らしくて、しかもとても仲の良い三人組がいるとします。「彼らの仲間になれたらいいなぁ」と私たちは思うけれど、なれそうにない。ところが、その内の一人が「~さん、私たちの仲間にならない?」と誘ってくれたらどうか。最高に嬉しいですよね。ある意味で、三位一体の神との交わりとは、そういうものなのです。父・御子・御霊なる神が、永遠から永遠にわたり、これ以上ない素晴らしい愛の内に交わりをもっておられる。その交わりの中に、御子イエスが私たちを招き入れて下さる。何と素晴らしいでしょうか。
そして世の終りには、もう罪を犯したり、痛みや苦しみ、病気、故障、障害も一杯ある今の不完全な体ではなく、全く新しい清い完全な体を与えられ、同じように救いに入れられた無数の聖徒たちと共に、永遠に神を喜ぶ者とされるのでございます。
【死ぬことは益、ブラウン院長のこと】
淀川キリスト教病院の創設者ブラウン初代院長は、脳腫瘍のために1981年1月5日、アメリカのエモリー大学病院で亡くなります。その4か月前の手術前夜、ご家族にこんな手紙を書かれました。「私は以前、この世を去ることについて(そんなにはっきりではありませんが)考えたことがあります。そして、そのことをそんなに怖いとは思いませんでした。私の持っているキリスト信仰に何か意味があるとすれば、その信仰が死後の命を通して、死そのものにも意味を持たせるはずであると考えて来ました。...死後の命は、漠然とした形のないものとしてではなく、私自身という存在と同じようにはっきり確認することができます。神様とお会いして、星や原子、遺伝子、宇宙、時間等、科学や創造物の驚異について学べることが、どんなに素晴らしいことだろうと、よく思います。なぜ創造主である神様が、私のことをこのように顧みて下さり、私と神様の間の掛け橋となるよう、御子であるイエス・キリストを、この限られた生命の中にお遣わしになったのかを、もっと知りたいと思います。それから、神様を知らない多くの人々のことを、神様がどれほど思っておられるのかを尋ねたい気持です。でも私は多くのことを知りません。ですから、死にゆくことは、素晴らしい時となるでしょう。それは、愛する他の人々と、新しい経験を持てる永遠の世界に入ることなのですから。」
パウロは言います。フィリピ1章21「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」ここまでのことが言える。これが永遠の命なのでございます。
しかし、神の許しを得て、なお尋ねたいと思います。永遠に生きるというのは、退屈ではないのでしょうか。いいえ、決して。神はあまりに素晴らしい方なので、神と交わり、神のその素晴らしさを知り尽くすのに永遠を要するからです。
【神は愛だからです】
敢えてなお尋ねます。何故、神は私たちをこうまで愛されるのでしょう。よく知りもしないのに神を否定し、神を拒む頑なな私たち罪人を愛し救わなければならない義務など、神には全くありません。それなのに何故、神は私たちをこうまで愛されるのでしょう。Ⅰヨハネの手紙4章8は答えます。「神は愛だからです。」そうなのです。ですから、神は私たちをなおも愛して下さるのです。
もう十分でしょう。今までの私たちがどうであれ、改めて固く主イエスを信じ、主に従い、神の御手に一切を委ね、共に神と隣人に仕える者として生きて行きたいと思います。また主の福音を証しし、救われる人がもっと増えますよう、私たちを用いていただきたいと思います。(おわり)
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