喝采が終わった時 ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書19章28−40
◆エルサレムに迎えられる
28:イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29:そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30:言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31:もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32:使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33:ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばを
ほどくのか」と言った。34:二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 35:そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36:イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
37:イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38:「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
39:すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40:イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
【ローズボウル•パレード】
私達人間はなかなかフェステイバルパレードを好む心があります。その理由は色々あると思いますが、恐らくパレードは何よりも刺激的で興奮させるものなので、パレードがあれば、たくさんの人々は集まって来ます。今度アメリカへ行く、ロサンジェルス近郊にあるパサデナという町はお正月のローズボールパレードでとても有名なところです。実況テレビでアメリカ全国によく知られているパレードです。昔になりますが、私達がパサデナに居住していた時、私達はそのローズボウル•パレードを直接に見る事が出来ました。ある人はパレードを見る為、一番良い場所を得るように、大晦日の夜からパレードの道の側で寝泊まりしていました。また、特に良い場所は、席があって切符が高い値段で売られていました。幸い私達は、切符を内の家族にプレゼントしてもらい、夜中から場所を確保する必要がありませんでした。とにかく、その有名なローズボウル•パレードをよく見る事が出来ました。そのパレードの巡行用の山車は特別にゴージャスでした。ローズ•パレードと呼ばれるので、薔薇と様々な他のお花で飾って、100台程の山車がありました。また数十の優れた楽隊もパレードに参加しました。更に、幾つかの素敵な乗馬グループもパレードに出ました。次々と数時間にわたり、ローズ•パレードは忘れられない素晴らしい光景を呈していました。
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良き羊飼い ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書10章7−18◆イエスは良い羊飼い
7:イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8:わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9:わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10:盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
11:わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12:羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13:彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14:わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15:それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16:わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
17:わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18:だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
【子羊の遊ぶ光景】
皆さん、羊と言えば、何が心に浮かびますか。恐らく絵本に出て来るとても可愛らしい子羊の事かも知れません。美しい緑の牧草地に、ふわふわコットンボールのように遊んでいる子羊は何よりも愉快な光景ではないかと思います。羊と直接の経験がない私達にとっても、それはまるで平和と満足のイメージですよね。そして、そのイメージは、いつか牧場で子羊と共に飛んだりはねたりしたいなという憧(あこが)れを私達に起こさせます。ですから、多分今日の御言葉に於ける羊の事を聞くと、本当に暖かい楽しい気持ち感じさせます。
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主イエスとニコデモ ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書3章1−15◆イエスとニコデモ
1:さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9:するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
10:イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11:はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12:わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである
【受難節の40日間】
今朝、私達は今年の受難節の旅を続けたいと思います。キリスト教会は大昔から、主イエスの十字架の贖い死を記念する為に、毎年の受難節に霊的な準備をして来ました。イースター、すなわち復活祭の前の40日間の期間に、キリスト者は主の贖い死の意味を新たに悟らされ、また、自分の信仰生活を顧みる自己評価の機会でもあります。そして、受難節を心より守る事によって、神様が救いに至る主イエスの十字架の贖いの恵みを私達のうちに確かにして下さいます。
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石を手放すこと ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書8章1−11
1:イエスはオリーブ山へ行かれた。
2:朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3:そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕ら えられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4:イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5:こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6:イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7:しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9:これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10:イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11:女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
【石投げ紐】
小学校の4年生頃の事ですが、私は石投げ紐に夢中になり、毎日学校が終わると友達と共に石投げ紐を練習しました。石投げ紐は原始的な武器で的確に狙うのはとても難しいですから、私達はいくら練習してもあんまり上手になりませんでした。石投げ紐の遣り方は御存知だと思いますが、1メートル位長さの紐の真ん中の所の革のポケットに小さな石を入れてから、紐の二つの末端を片手に取り、それをぐるぐる回します。そして、標的に向かいながら、一方の紐を手放すと石が飛び出します。とにかく、私は暇があれば、いつも石投げ紐を練習しました。
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自分を捨てること ウイリアム・モーア宣教師
マルコによる福音書8章31−38◆イエス、死と復活を予告する
31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
34:それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37:自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38:神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
【受難節】
私達は先週の水曜日から受難節に入りました。キリスト教会は大昔から毎年の受難節に私達の為、主イエス・キリストの十字架の贖い死を覚え、その深い意味と重要性を新たに考える時でもあります。言うまでもなく、主イエスの贖い死がなければ、私達は罪の故に神と敵対状態のままであり、救いも希望も全くありません。しかし、主の十字架死のお陰で、罪の全くないイエス・キリストは、罪の為に私達が受けるべき罰を御自分の身に受け、私達主を信じる者は神の赦しを頂き、永遠まで主の豊かな恵みのうちに生きる事になりました。御言葉は主の受難の目的をこのように説明します。「罪と何の関わりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)
それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を御自分の子供として完全に受け入れて下さいます。受難節を守る事によってその言い尽くせない恵みを新たに覚え、感謝します。
また、40日間の受難節に私達それぞれは自分自身の信仰生活を吟味し、よりもっと忠実な主の子供になるようにと決心すべきです。ですから、私達は受難節に主イエスの献身的愛を覚えながら、その愛を模範として、神と隣人に仕えます。
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