来て、見なさい ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書1章43−51◆フィリポとナタナエル、弟子となる
43:その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
44:フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45:フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46:するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47:イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48:ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49:ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50:イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51:更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
【先生はイエス様のお祖母さん?】
ある小さい女の子の幼稚園生が初めて日曜学校へ行きました。家に帰って来るとお母さんは娘に、「日曜学校はどうだった。面白かった」と聞きました。娘は、「うん、とても楽しかった。歌を歌って、ストーリを読んで貰って、面白いゲームもした。そして、私の日曜学校の先生はイエス様のお祖母さんだと思う」と答えました。お母さんは先生がイエス様のお祖母さんだと聞くとびっくりして、娘に、「どうしてそんな事を思うの」と聞きました。「だって、先生は赤ちゃんイエス様の絵をクラスに沢山見せて、イエス様の良い事ばかりを言ったから、先生はきっとイエス様のお祖母さんだと思う」と女の子は答えました。
【主イエスのなさったことを】
ヨハネによる福音書を書いた人物、主イエスの弟子ヨハネもイエス・キリストについて沢山の事を言いました。実は、その福音書全体は主イエスについての書物です。また、ヨハネは主についてのお話があんまり沢山あったので、全てを書き記す事が出来ませんと書きました。ヨハネは福音書を閉じるときこのように書きました。「イエスのなさった事は、このほかにも、まだ沢山ある。私は思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(ヨハネ21章25)
【ヨハネ福音書の目的】
ヨハネは福音書を書く目的についてこう記しました。「これらの事が書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じる為であり、また、信じてイエスの名により命を受ける為である」(20章31)と書きました。
【救いとは】
我々の信仰の対象は始めから終わりまで神の御子イエス・キリストに基づいています。儀式や律法や善行などよりも、キリスト教は信者とイエス・キリストとの関係のものであります。つまり、救いはイエス・キリストを信じ、従う事から来ることなのです。
【主イエスの弟子たち】
その故に主イエスはこの世で御自分の働きを始めた時、弟子達を集めました。伝道する前に最初の働きとして弟子達をお呼びになりました。弟子達は主イエスを知り、主イエスと共に歩み、主御自身の教えを聞き、その印を見る事によって、主を信じるようになりました。そして、その弟子たちの証を通してキリスト信仰が代々に受け継がれて、私たちまでも伝わって来ました。
意味深い事ですが、イエスが召した弟子達は極普通の人間でした。祭司やユダヤ教の律法学者や社会的に認められた者の代わりに、漁師と徴税人と農夫のような普通の人をお選びになりました。主イエス御自身が大工の家に生まれ育てられました。そして、三十数歳までお父さんヨセフと共にその職業を従事しました。その意味はキリスト教が全ての人々の為の信仰であるという事です。誰でもイエス・キリストを信じて、キリスト者になれる訳です。
【アンデレは兄弟シモンに】
とにかく、主イエスは御自分の弟子達を呼び始めました。アンデレは最初の弟子の中の一人でした。彼はイエスのお話を聞くと自分の兄弟シモンを探し、「私達はメシア(すなわち、救い主)に出会った」と言いました。そして、アンデレはシモンをイエスの所へ連れて行って、シモンも弟子になりました。
【フィリポは友人ナタナエルに】
更に、今日与えられた御言葉によりますと、主はフィリポという人に出会って、「私に従いなさい」と言われました。フィリポはイエスに従うとまた自分の友人ナタナエルを探し、「私達は、モーセが律法に記し、預言者達も書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と発表しました。アンデレとフィリポは主イエスに出会ったばっかりなのに、信じて、直ちに兄弟と友人を探し、主の事を伝えました。喜びを持って、「長く待ち望んだ救い主がやっといらっしゃった」と知らせたのです。イエスの事はあまりに善いお知らせなので彼等は黙ってはいられませんでした。ですから、先ず親しい者にその素晴らしいニュースを伝えた訳です。
【ナザレから何か良いものが出るだろうか】
フィリポはナタナエルのところへ行って、「私達は、モーセが律法に記し、預言者達も書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と発表すると、ナタナエルは何と言いましたか。「それは本当に良かった。紹介して下さい」と返事しましたか。いいえ、その代わりにフィリポはこう言ってしまいました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い出しました。
【カナとナザレ】
イエス・キリストの出身地ナザレはナタナエルの村カナから僅か6キロほど離れていました。ナザレはカナより人口の多い所ですが、明らかに何かの理由でカナの住民はナザレの人を見くびって、関係が良くなかったのです。隣の村なのに、ライバル心や妬みか難しい歴史の故に、お互いに偏見を持っているようでした。ですから、ナタナエルは「ナザレ」と聞くと直ぐに、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と思わず言い出してしまいました。
【来て、見なさい】
ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と友人フィリポに言うと、そのフィリポの返事は素晴らしかったです。つまり、フィリポはその発言でナタナエルを議論の相手にしませんでした。「あなたの偏見は馬鹿らしい。ナザレは本当に良い所だ。そして、ナザレのイエスは優れた人物だよ」と返事しませんでした。フィリポはただナタナエルにこう言いました。「来て、見なさい。」すなわち、「先ずイエス様に出会って、彼はモーセが律法に記し、預言者達も書いている方である事をあなた自身で判断しなさい。」
そして、ナタナエルは友人フィリポの言う事を素直に受け入れ、主イエスを見に行きました。しかし、イエスは先ず「ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼の事をこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない』」と今日の朗読に記されています。主は積極的にナタナエルを迎えて、誉めて下さいました。ナタナエルにとって、見た事のない、合った事もない人が自分についてそう言うのは不思議だと思いました。それで、48節を見ますと、彼は主に、「どうして私を知っておられるのですか」と尋ねました。主イエスは、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、イチジクの木の下にいるのを見た」と返事しました。
【イチジクの木の下にいる】
「イチジクの木の下にいる」と言うのはどんな意味でしょうか。その表現はその時代に特別な意味がありました。それは祈りの時と御言葉を読む時でした。ある場合、敬虔なユダヤ人は文字通りにイチジクの木の下に行って、独りでお祈りの時間を過ごしました。そして、またある時、それは比喩的に理解されていました。つまり、何所にいても「イチジクの木の下にいる」と言う表現は、「祈っている」との意味がありました。今日の御言葉の場合、その意味は文字通りか比喩的か分かりませんが、結局主イエスはその表現を通してナタナエルにこう伝えたのです。「あなたの祈っている姿を見た。あなたは神の真理を心から求めている事が分かります。」詩編第139編に書いた通りです。「主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたは全てを知っておられる。」
ナタナエルは主イエスが自分を見抜く事が出来ると分かり、こう告白しました。「ラビ(すなわち、先生)、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」そして、その日から彼はイエスを信じ、弟子として主に従いました。
ナタナエルは、「来て、見なさい」と言う招きを受け入れて、主イエスこそが彼を迎えに来られたと知りました。更に、主は告白が出来るまで彼の信仰を助けて下さいました。主の御許(みもと)に行く心があったので、ナタナエルに信仰が与えられました。
これは私たちの姿ではありませんか。主の招き、「来て、見なさい」を素直に受けると、主は御自分の愛と力と憐れみを現す事によって、私達に信仰を与えて下さいました。
そして、その信仰を受けた私たちはフィリポのように、家族の者と友人と知り合いにも、「イエス・キリストに来て、見なさい」と招く立場でもあります。そうすると主はきっと御自分の事を彼等にも十分現す事でしょう。
【いまの時こそ】
愛する兄弟姉妹、現在この世ではどこの国においても不景気で皆がざわめいています。それに伴ってその隙間に悪の力があらゆる戸口で待ちかまえています。いまこそ私たちは悪の力に誘惑されないため、神の御言葉で武装し、日々主によって強められる必要があります。今こそ私たち一人一人は心を一つにし、唯一の救いである主イエス・キリストの福音を述べ伝えるべきです。フィリポのように回りの者に、「来て、主イエスを見なさい」は尚更必要ではありませんか。(おわり)
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