わたしは道である ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書14章1−7◆イエスは父に至る道
1:「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2:わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3:行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4:わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
5:トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7:あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
【男と女の違い?】
皆さん、突然の質問ですけれども、女性と男性の主な違いを御存知ですか。それは運転をしていて道に迷うと男の人は道を尋ねません。皆さんも知っていると思いますが、男の人は殆ど誰もが道を尋ねる事を嫌がっています。道を迷っても男の人は出来るだけ他の人に目的地の方向を聞くのを避けたいのです。何故なら、男の人にとってそれは柔弱の表れでもあるからです。もし知らない所へ行こうとしたら先ず地図を見て行くべきですから、道に迷う事は恥ずかしい事でもあります。そして、特に男の人にとって、赤の他人に自分が道に迷った事を知らせるのは恥ずかしいのです。その故に男の人は道に迷うと、「近道を探したよ」、「きっと目的地が遠くはないよ」、「あ、あのコンビニがあったのよね」など言い訳を言いながらも、時間を掛けて目的地を探します。とにかく、男の人にとって道を尋ねるのは最後の手段にしたいのです。
【女性はすぐ道を尋ねる】
その反面、道に迷うと女の人は気楽に全く知らない人に道を尋ねます。この間、久しぶりに東京へ行って色んな所を探さなければなりませんでした。三十数年前、 学生の時、家内も私も東京にいました。しかし、年月が経つに連れて東京の町の様子はすっかり変わり、分からなくなりましたが、家内は平気で人に道を尋ねましたから障害なく自由にあちこちへ行く事が出来ました。東京にいる間、家内は多分十回は道を歩く人に尋ねました。いや、車の中から窓を開け、隣の車の人にも平気で尋ねました。それは東京でも、二年前に二ューヨークでも大声で隣の車に道を尋ねていました。それに比べ、私は男としてのプライドを持っているから、そんな事は出来ません。恐らく私は一人で東京へ行ったら迷ってしまい、今もまだ迷って神戸への帰り道を探しているかも知れません。
【弟子トマスの質問】
幸いに全ての男の人は私のようではありません。今日の御言葉に、ある男の人は道を尋ねる事は恥ずかしく思いませんでした。幸いにトマスと言う弟子が主イエス・キリストにこのように尋ねました。「主よ、どこへ行かれるのか、私達には分かりません。どうして、その道を知る事が出来るでしょうか。」そして、トマスの質問のお陰で主イエスははっきりと私達の永遠の住まいへの道を教えて下さいました。つまり、トマスの質問に答えて、神の独り子イエス・キリストこそが唯一の天国ゆきである事を分かりやすく述べられました。
主イエスは御自分の十字架の贖い死に向かっていました。そして、今日の個所のすぐ前のヨハネによる福音書13章にイエスは弟子達にこの気がかりな事をおっしゃいました。「子達よ、今しばらく、私はあなたがたと共にいる。あなたがたは私を探すだろう。『私が行く所にあなたたちは来る事が出来ない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じ事を言っておく。」(33節)
【主イエスが去ったら】
主イエスについて行く為、自分達の家と職業を捨てた弟子達には主のその別れのお話は受け入れ難かったのです。愛する主が去ってしまうと、彼等は孤児のようになり、絶望的でした。羊飼いのない羊のようになりますから、主イエスから離れた生活は考えられませんでした。また、主がいなくなると、今までの彼等の献身と苦労は全く無意味になり、大変空しくなります。ですから、主イエスが弟子達から離れる事を語ると彼等はパニックな状態になりました。
【心を騒がせるな】
その弟子達の恐れに答えて主イエスはこのようにおっしゃいました。今日の御言葉の1節を見て下さい。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」つまり、「私と父なる神を本当に心から信じ頼ったら、どんな事があっても、パニックしなくても良いのです。」
弟子達と私達もですが、理論的に神を信じる事はよく分かります。しかし、危機やトラブルや悲劇などに直面すると、それはいつも簡単ではありません。
【誰か他の方がいませんか】
ある男は山歩きをしながら急な崖から落ちてしまいました。彼は落ちる時、崖の隙間から出た木の枝を掴んで何とか助かりました。しかし、段々疲れて、ずっとその枝を掴んでいられなくなり、上と下を見て、助けてくれる人を探しましたが、誰もいませんでした。それで、彼は大声で、「助けて下さい、助けて下さい。誰かいませんか」と必死に叫び始めました。突然、上から「私はここにいる」と言う声が聞こえました。そして、男は「あなたは誰ですか」と聞くと、声は「私は主である、神です」と答えました。男は神の声を聞くと大喜び、「お願いします、助けて下さい」と頼みました。そうすると、神の声は、「あなたは私を信じますか」と聞きましたので、男は、「私はもちろん主を信じます」と答えました。そして、主は、「それはよろしい。枝を放せ!」と教えられました。男は100メートルの下にある地面を見下ろすと、怖くなり、また上を見てこう叫びました。「誰か他の方がいませんか。助けて下さい!」
恐らく主イエスがこれから御自分は弟子達から離れる事にすると仰ってから、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい」と彼等に言うと、弟子達はその枝を掴む男のような心境だったかも知れません。つまり、他の助けを求めたい気持ちになりました。私達もそうではありませんか。本当に困った時、私達はパニックになり、主の助けを忘れ、「誰か他の方がいませんか」と尋ねがちです。
しかしながら、主イエスは弟子達の信仰を助ける為に御自分の資格を説明して下さいました。今日の御言葉の2節を見て下さい。「私の父の家には住む所が沢山ある。もしなければ、あなたがたの為に場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたの為に場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の元に迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいる事になる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と主は言われました。
【天国は特定な実在の場所】
この主イエスの御言葉に少なくとも三つの事に注目すべであります。先ず、主によりますと、天国は特定な本当の場所である事です。つまり、天国はただ主イエスの想像にあるものではない訳です。主は、「私の父の家には住む所が沢山ある」と「あなたがたの為に場所を用意しに行く」とおっしゃいました。イエス・キリストはこの世に降る前に永遠から天国にいらっしゃいましたので、誰よりも天国の事と天国の現実性の詳しい方であります。ですから、天国はただ希望的観測ではなく、実際に存在するのであります。
【天国には余地が十分】
第二に、天国には余地が十分あります。「私の父の家には住む所が沢山ある」と主は言われました。誰でも正しい道で天国の門に着く人には限りなく開かれています。つまり、天国はあまり混んでるからと断れる事がありません。あなたの為にも住む所があると主が約束して下さいます。
【主イエス・キリストは確かに天国におられる】
そして第三に、主イエス・キリストは確かに天国にいらっしゃいます。私達の愛する救い主の住まいはその所です。主は弟子達に約束しました。天国に「行ってあなたがたの為に場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の元に迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいる事になる。」
私達の為に十字架で御自分の命を捨てる程に愛して下さる主は永遠まで私達と共に天国にいらっしゃる訳です。私達はその最高の喜びと満足を期待出来ます。
【福音とは?】
イエスは弟子達に天国の事を説明してから、「私は何処へ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われました。三年間に渡って主は弟子達に御自分の地上の使命を教えられました。それは人間の罪を償う為、私達に代わって罪の罰を御自分の身に受ける事です。そして、主を心から信じる者は救われ、死んでも天国に行く事が出来るという福音です。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬ事はない」と主は宣言されました時、弟子達は聞いていました。
【私達にはその道が分かりません】
ですから彼等は天国について主の教えが分かるはずでしたので、主は「私は何処へ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃいました。しかし、分からなかったトマスはあわてて、「主よ、どこへ行かれるのか、私達には分かりません。どうして、その道を知る事が出来るでしょうか」と主イエスに聞きました。知らないという恥を捨てて、直接に主が行く所の道を尋ねました。
愛する兄弟姉妹、そのトマスの質問の答えは非常に重要であります。主はこのようにお答えになりました。今日の個所の6節の所を見て下さい。「イエスは言われた。『私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。』」
主は「私は道である」とおっしゃると、人類の唯一の救いは御自分にあると宣言されました。つまり、天国へ行こうとしたら、私達は善行や儀式や幸運などに頼る事が出来ません。主イエス・キリストのみに頼らなければなりません。
【わたしは道であり、真理であり、命である。】
ある探険者が広い砂漠を通る為に地元のガイドを雇いました。その二人は砂漠のはずれに着くと探険者は道を見る事が出来ませんでした。周りを見回すと、ただ地平線まで砂の丘ばっかりでした。そうすると、彼はガイドさんに、「道はどこにある」と尋ねました。そうすると、ガイドさんはにっこり笑って、「私こそが道であります」と答えました。
同じように主イエス・キリストこそ、天国への唯一の道であります。主イエスに従い、自分の救い主として信じる事によって天国に到達します。他の道がありません。「私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」と主ははっきりとおっしゃいました。更に、主イエスは、「私は真理である」と言いました。つまり、生きる為にイエス・キリストが教えられた事は十分です。特に、主が教えられた神の事と人生の目的と天国への道の真理は信じられます。そして、主イエスは更に、「私は命である」と宣言されました。主を救い主として受け入れると私達の命は永遠まで続きます。天国でいつまでも主イエスと共に生き、神の全ての恵みを楽しみます。
愛する兄弟姉妹、イエス・キリストは救いと天国への道をはっきりと、又、分かりやすく教えられました。どうか私達一人も残らず、その真理と命の唯一の道を皆さんと同行したいと思います。(おわり)
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