幸いな新年 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書13章1−17◆弟子の足を洗う

1:さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2:夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

3:イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4:食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5:それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

6:シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7:イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8:ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわ たしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。9:そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

10:イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11:イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 12:さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13:あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14:ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15:わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。16:はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17:このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。


【新しい年の初めに立って】
明けましておめでとうございます。今日、今年の最初の主の日に当たって、私達は正に新しい年の玄関に立ています。そして、過ぎ去った2008年を振り返って見ると、新しい2009年に対して大きな希望が私達から湧き出て来ると思います。つまり、私達は2009年が2008年より、もっと良い年になって欲しいと願うのであります。言うまでもないが、2008年には私達個人的にも世界的にも色々な事がありました。ですからその影響を考えますと私達だけではなく、全世界の人々も何よりもこの新しい2009年は幸いな年になるのを切に望んでおります。

【幸いな新年を迎える秘訣】

実は、今日与えられた御言葉には私達の主イエス・キリストは幸いな新年の秘訣を教えて下さいます。今日の個所の最後の所に主の御言葉が書かれています。ヨハネによる福音書13章17節を見て下さい。「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」つまり、今朝の個所に於ける主の教えが分かり、その教えを実行すると、私達は幸いになる、私達は幸せになります。ただ2009年は幸いな年になるようにと切に望む事だけでは不十分であります。切に望む事は必要ですけれども主イエスによりますと、もっと大事な事はその目的の為に何かを実行しなければなりません。ですから今朝、幸いな新しい年になるように、一緒に神の御言葉を学びたいと思います。

【最後の晩餐】

今日の個所の背景を説明させて頂きます。主イエスは十字架の苦難を受ける前に、御自分の12人の弟子達を集め、借りたお部屋で食事を共にしようとしました。その食事が「最後の晩餐」と呼ばれて来ました。

【足を洗う者とは】

当時のイスラエル人は何処へ行ってもサンダルを履いていた為、足が道のほこりと泥で結構汚くなりました。ですから、家に入ると足を洗わなければなりませんでした。自分の家の場合、自分で洗いました。あるいは、僕があった家の場合、僕にさせました。そして、人を自分の家に招待した時、おもてなしとしてお客さんの足を洗いました。僕がない場合、妻がその低い役割を果たしました。

【弟子達はだれも足を洗わなかった】

主の弟子達は食事の為に部屋に入る時、恐らく先ず足を洗う為に人を探しました。そして、その係の人がいないと分かり、どうしましたか。自分で自分の足を洗いましたか。あるいは、 弟子同士が部屋に入ると、自分が彼等の足を洗って僕の役割を果たしましたか。そうではありませんでした。恐らく、足を洗う僕がいないと分かると、弟子達はいらいらしながらも足を洗わずに席に着きました。そして、弟子達皆は同じように次々と部屋に入ると、同じように席に着きました。

【誰が主の足を洗うか?】

主イエスと弟子達は揃って食卓に座るとどうなりましたか。多分ちょっと緊張した雰囲気でした。習慣に逆らって汚い足のままで席に着くのはとても変でした。少なくとも誰かが主イエスの足を洗うべきだと弟子達が思ったのですが、もし誰か一人が自ら進んでそうするならば、自分が身分の一番低い者になってしまう恐れがありました。そして、その時から皆が嫌がる仕事を自らしなければなりません。多分その理由で弟子達は何もしないで、ただ食事の始まりを待っていました。昔も今も人間の社会は複雑ですね。

【主イエス、弟子たちの足を洗う】

しかし、主イエスは弟子達の行動を見ると彼等に大事な事を教えられました。今日の御言葉の4節によりますと、主は何も言わずに「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子達の足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」と記されています。神の御子イエス・キリストこそが弟子達の為に身分の最も低い僕の役割を果たされました。

【弟子達の気持ちは?】

弟子達は主によって足が洗われると、どんな気持ちだったでしょうか。多分何よりも恥ずかしかったでしょう。高いプライドの故に自分達が出来なかった事を主イエスがなさいました。更に、自分達が主になすべき事を主が自ら進んで彼等の為にしました。彼等は非常に恥ずかしがったのですが、そこですぐ反省の代わりに自分の誤った態度を隠すため、そのまま主イエスの謙遜な奉仕を受けました。

【シモン•ペトロの反応】

しかし、主イエスが弟子のシモン•ペトロの所に来ると、ペトロは恥ずかしくて主からその奉仕を頂く事が出来ませんでした。「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか。私の足など、決して洗わないで下さい」と言いました。そうすると主イエスはこう答えられました。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもない事になる。」ここで主はもうすぐ行う罪を洗って下さる御自分の贖い死に言及しました。その最も身分の低い奉仕を通して全人類の為に救いの道を開いて下さいました。

【主の模範に従え】

主イエスは皆の足を洗ってから、上着を着て席にまた着きました。そして、このように大事な事を弟子達に教えて下さいました。12節の所を見て下さい。「私があなたがたにした事が分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。この事が分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」と主が言われました。

【奉仕の基本的な動機は愛】

主イエスによりますと、御自分を模範とする人々は幸いであります。幸せです。つまり、主イエスのお名前によって、謙遜な態度を持って奉仕を実行すると私達は幸いです。その奉仕には喜びがあります。何故なら、その奉仕の基本的な動機は愛であるからです。イエス・キリストは御自分の弟子達を心から愛したので、自ら進んで彼等の汚い足を洗う事が出来ました。当時の社会には「主」という身分を持つ人は弟子の足を洗う事はとんでもありませんでした。しかし、主イエスは大きな愛を持っていましたので、自分の身分を忘れ、喜んで弟子達に謙遜な奉仕を実行しました。

【誰が一番偉いだろうか】

主はその奉仕の態度を以前にも教えられました。ある日、弟子達の間に、自分達のうちで誰が一番偉いだろうか、という議論が起りました。その議論を聞くと主はこう言われました。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中で一番偉い人は、一番若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(ルカによる福音書22:24−27)

【主イエスの奉仕と愛の生涯】

主イエスが私達の為に給仕する者になったのは愛であるからです。そして、御自分の愛を実行されると主は喜びました。使徒パウロは主の奉仕と愛の態度についてこのように述べました。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人の事にも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト•イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者である事に固執しようとは思わず、却って、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至まで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2:3−8)

主イエスは私達に大きな愛を持っておられましたので、御自分の身分を考えずに、へりくだって私達に仕えました。ですから私達も愛の動機でへりくだって周りの者に仕えます。そして、不思議に主イエスのお名前によって人に仕えると私達は幸いであり、喜びになります。

【ジョージ•ワシントン大統領】

アメリカの革命戦争の時の出来事ですが、私服を着ていた男の人が馬に乗って、一生懸命に塹壕を掘っている兵士達の所を通りました。その兵士のリーダーは木の切り株の上に立って、大声で兵士に指示を怒鳴りました。馬に乗っていた男の人は兵士のリーダーにこう言いました。「手が足りないのに、どうしてあなたは働かないんですか。」そのように聞かれると、兵士のリーダーは、「私は伍長(ごちょう)ですから、力仕事をしないよ」と返事しました。その事を聞くと馬に乗っている人は伍長に謝って、馬から降りて疲れ切った兵士達を手伝いました。そして、仕事が終わると彼は兵士達のリーダーに向かってこう言いました。「伍長さん、また今度の時、仕事をする為に手が足りなかったら、あなたの最高司令官に言って下さい。私は又手伝いに来ますから。」その男こそはアメリカ合衆国の最初の大統領であり、最高司令官であるジョージ•ワシントンでした。恐らくワシントン大統領もイエス・キリストから謙遜な奉仕の精神を覚えたかも知れません。

【聖餐式はキリストの愛と奉仕を記念】

間もなく私達は聖餐式にあずかろうとします。聖餐式に私達の為に主イエス・キリストが為してくださった最高の奉仕を記念し感謝します。主イエスは御自分の大きな愛の故、私達の永遠の救いの為に御自分の命を捨てて下さいました。どうか、私達もこの新しい年にはその愛から来る奉仕の精神を主イエスから学び、毎日の生活に実行出来るように祈りましょう。そして、その奉仕から来る祝福によって、2009年は幸いな、Happy New Yearを迎えたいと思います。(おわり)

2009年01月04日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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