恐れてはならない ウイリアム・モーア宣教師
出エジプト記14章1−16◆葦の海の奇跡
1:主はモーセに仰せになった。2:「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。3:するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。4:わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。
5:民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」
6:ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、7:えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。8:主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、9:エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。 10:ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、 11:また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。 12:我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」13:モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。14:主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
15:主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16:杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
【嵐の夜のこと】
ある嵐の夜、お母さんが自分の小さい息子を寝かしてつけようとしました。しかし、雷が落ちそうな激しい音でゴロゴロと鳴った為、坊やは恐れて、なかなか落ち着いて寝られませんでした。お母さんはライトを消し部屋を出ようとした時、坊やは、「ママ、雷が恐いから、ずっと朝まで行かないでよ」と頼みました。そして、お母さんは坊やをやさしく抱いてこう言いました。「ご免ね、ママはパパの部屋で寝なくちゃならない、だから、それは出来ないよ。」その事を聞いて坊やは、「ほら、ママも雷が怖いんでしょう」と泣きそうな声で返事しました。
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わたしは道である ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書14章1−7◆イエスは父に至る道
1:「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2:わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3:行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4:わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
5:トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7:あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
【男と女の違い?】
皆さん、突然の質問ですけれども、女性と男性の主な違いを御存知ですか。それは運転をしていて道に迷うと男の人は道を尋ねません。皆さんも知っていると思いますが、男の人は殆ど誰もが道を尋ねる事を嫌がっています。道を迷っても男の人は出来るだけ他の人に目的地の方向を聞くのを避けたいのです。何故なら、男の人にとってそれは柔弱の表れでもあるからです。もし知らない所へ行こうとしたら先ず地図を見て行くべきですから、道に迷う事は恥ずかしい事でもあります。そして、特に男の人にとって、赤の他人に自分が道に迷った事を知らせるのは恥ずかしいのです。その故に男の人は道に迷うと、「近道を探したよ」、「きっと目的地が遠くはないよ」、「あ、あのコンビニがあったのよね」など言い訳を言いながらも、時間を掛けて目的地を探します。とにかく、男の人にとって道を尋ねるのは最後の手段にしたいのです。
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いつまで、主よ ウイリアム・モーア宣教師
詩編13編1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
2:いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
3:いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
4:わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください/死の眠りに就くことのないように5:敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
6:あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。
【リンカン大統領の悩み】
恐らくリンカン大統領はアメリカの全ての大統領の中、最も偉大な指導者でありました。特に南北戦争の大変な危機の間、リンカン大統領は国の統一を守り、そして戦争後、国の傷を癒す為、敗北した南部に対して寛大な政策を採用しました。
リンカン大統領は南北戦争では非常に悩みました。同国民の間に70万人程の戦死者があって、戦傷者の人数も酷かったのです。そして、その戦争の悩みの上にリンカン大統領は更に個人的な悩みもありました。その南北戦争の間に11歳の最愛の息子ウィリー君が腸チフスになりました。ウィリー君が 一ヵ月間病気と戦かっている間、リンカン大統領と奥さんはその病床から殆ど離れませんでした。目撃者の話によりますと、大統領は寝ずに息子の看病をしていて、繰り返し繰り返し、このように嘆いたそうです。「これは一生の一番辛い試練だ。どうして、どうして、私がこの酷い目にあうんだろう。」そして遂にウィリー君が息を引き取ると、悲しみに沈んだリンカン大統領は泣きながらこう言いました。「私の可哀想な息子よ。この世ではあんまり善い子だったので、神様がウィリーを天に召されたのね。天国はこの世よりもっと良い所だと信じていても、我々はどれほどこの子を愛したか。死なれたら、辛くてたまりません。」
私たち皆は子であり、親であるので、このリンカン大統領の気持ちが十分分かると思います。そして、いつかは誰でもリンカン大統領が経験した試練を受ける事になると思います。それが重い病気や、深刻な家族の問題や、経済的危機や、愛する者の死や、砕かれてしまった夢などのようなものかもしれませんが、いつか私達にも直面する時が来ます。そして、その霊魂の暗闇に私達はリンカン大統領のように「どうして、どうして、私がこの酷い目にあうんだろうか」と神に叫びます。
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幸いな新年 ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書13章1−17◆弟子の足を洗う
1:さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2:夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3:イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4:食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5:それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6:シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7:イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8:ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわ たしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。9:そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10:イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11:イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 12:さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13:あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14:ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15:わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。16:はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17:このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
【新しい年の初めに立って】
明けましておめでとうございます。今日、今年の最初の主の日に当たって、私達は正に新しい年の玄関に立ています。そして、過ぎ去った2008年を振り返って見ると、新しい2009年に対して大きな希望が私達から湧き出て来ると思います。つまり、私達は2009年が2008年より、もっと良い年になって欲しいと願うのであります。言うまでもないが、2008年には私達個人的にも世界的にも色々な事がありました。ですからその影響を考えますと私達だけではなく、全世界の人々も何よりもこの新しい2009年は幸いな年になるのを切に望んでおります。
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