株からひとつの芽が萌えでた ウイリアム・モーア宣教師

イザヤ書11章1−10◆平和の王

1:エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち2:その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。3:彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁き を行わず/耳にするところによって弁護することはない。 4:弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。5:正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。6:狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。7:牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8:乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。9:わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。10:その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。


【近所の空地】
うちの近所を散歩する時、いつもある空き地を通ります。その空き地はただ何もない駐車場のような所ではないし、また、手入れを全然していない雑草のジャングルでもありません。誰かがその空き地で美しいお庭を作りました。オリブの木とか、ハーブとか、お花も奇麗に植えてあります。その所を通ると、特に立ちこめるハーブの香りは歩く人を引き付けます。ですから、私達も例外ではありません。散歩する度に、家内と私はその所でよく足を止め、一分でも庭を眺め、楽しむのが習慣のようになりました。

【切られた木】


この間、仕事で朝早く家を出て駅の方へ向かう時も、その庭になった空き地を通りました。急いでいたので、止まるつもりではなかったが、庭をちらっと見ると、おかしいと思いました。どうも様子が変わっている。もう少し見ると、その理由が明白になりました。お庭の真ん中の所に木の切り株が土から出ていました。そして、株の周りにその木の丸太とおがくずが残っていました。理由は分からないけれども誰かがその美しい木を切ってしまい、庭が大変寂しくなり、歯が抜けたような光景でした。木は少なくとも四、五十年にわたって一生懸命に成長しましたが、数分のうちにチェーンソーで切られてしまいました。木を切った人は後悔して、木を元の状態に戻したい気持ちがいくらあっても全く不可能です。木がそのようにやられたら、治す事はとても無理です。命はもう終わったから、その木の美しい紅葉をまた楽しむ事はないと思いました。そして、木の切り株の寂しい姿を考えながら、駅の方へ急ぎ歩き続きました。



【預言者イザヤの時代】


今日与えられた御言葉はイザヤという預言者の預言です。イザヤは紀元前700年代イスラエルに活躍していました。その時代は特にイスラエル民族にとって難しく悲劇的でした。というのは、イスラエルの北部は敵の国アッシリアによって征服され、更に同じように南部はバビロニアの物になってしまいました。神によって与えられた国はばらばらになり、残酷な異邦人によって強制的に政権が奪われました。神が立てた力と栄光あるダビデ王朝は終止符を打ち、イスラエルは奴隷のような民族になりました。外国の支配者に飲み込まれ、国としての存在どころか、自分の文化と信仰も失う恐れがありました。国と民族は木の切り株のようになり、皆は不幸のドン底に沈みました。将来のない、希望のない、悪夢のような現実しかありませんでした。イスラエルは神によって見捨てられ、死にかかっている木の株のようなものだと皆が思いました。



【イスラエルの悲惨は神からの懲らしめ】


この悲惨は状態の中に神が預言者イザヤを通して大事なメセージを送りました。そして、そのメセージの内容は二つがあったのです。始めに、イスラエルの悲惨な状態は神からの懲らしめの為であるという事でした。つまり、神に立返るように、主はイスラエルの敵を用いて、御自分の裁き実行しました。実は、神の民イスラエルは主から遠く離れたので、多くの罪を犯してしまいました。そして、主は何回も預言者を通してイスラエルに警告しましたのに悔改めませんでした。ですから神の懲らしめが必要になりました。イザヤ書1章21節からイスラエルに対して主の御言葉がこう記されています。「どうして、遊女になってしまったのか、忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに、今では人殺しばかりだ。お前の銀は金滓となり、良いぶどう酒は水で薄められている。支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは上げられない。それゆえ、主なる万軍の神、イスラエルの力ある方は言われる。災いだ、私は逆らう者を必ず罰し、敵対する者に報復する。私は手を翻し、灰汁をもってお前の滓を溶かし、不純な者をことごとく取り去る。」



【イスラエルにたいする希望のメッセージ】


それは神の裁きでした。イスラエルはただ不運の為、敵によってやられた訳ではありません。多くの罪を悔い改めるように神はアッシリアとバビロニアを以って、御自分の民を懲らしめました。その懲らしめは神にも、イスラエルにもとても辛かったのですが、残念ながら必要なことでした。主はイスラエルの事を諦め、彼等を見捨ててしまったとしても理由が十分ありましたけれども、御自分の大きな愛の故、懲らしめによってイスラエルを立返らせようとしました。それはイスラエルに対する神のメセージでした。しかしそれだけではありません。どん底の中にある御自分の民の為に、主は預言者イザヤを通してイスラエルに大きな希望のメセージも与えて下さいました。それは復帰と素晴らしい救いのメセージでありました。



【エッサイの株から芽が萌えいで】
今日のみ言葉の1節を見て下さい。イザヤ書11章1節です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と記されています。確かにイスラエルは木の切り株のようになってしましました。結局、独立した国として死んだものになりました。また、一つの民族としても命はあぶなかったのです。更に、神の懲らしめを受けると、イスラエルの人々は霊的にとても苦しかったです。しかし、神はその枯れた切り株からイスラエルの為に新しい命を約束して下さいました。 「株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と主は約束しました。


私達皆はそのような切り株を見た事があると思います。毎日の生活の中で切られた株のような、そういう体験をした事があると思います。どん底に落ちてしまい、希望は全く見えないのです。前に進めない限界を経験します。


その時、神は私達にも声を掛けて下さいます。木は切られてしまったけれども、やがてその株から芽が萌えいで、復活のように新しい命が見られます。そしてある場合、芽が段々成長して、切られた木よりも高く成長していきます。


神はそのイメージを用いて大きな希望を御自分の民に授けて下さいました。懲らしめを経験しているイスラエルは将来に主の救いを頂き、大きな恵みを受けると言う神の約束です。そして、その芽が萌えいでる株は特別な株です。



【ベツレヘムのエッサイ】


それは記されたように「エッサイの株」です。エッサイは旧約聖書の人物でした。サウルと言うイスラエル国王が神から離れ、主の裁きを受けました。そして、サウルの代わりに神は御自分の民に新しい王をお選びになりました。主は預言者サムエルにこう言われました。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。私は、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出掛けなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。私はその息子達の中に、王となるべき者を見いだした。」(サムエル記上16:1)



【エッサイの息子ダビデ】


神が選んだそのエッサイの息子ダビデはイスラエルの一番力強く、善い国王になりましたが、罪深い人間ですから失敗や過ちもありました。ダビデ王は決してイスラエルに必要な救い主ではありませんでした。ですから神はイスラエルのどん底の時、最も良いお知らせを預言者イザヤを通して発表して下さいました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝がそだち」、つまり、神は将来に、エッサイの子孫から救い主を立てて下さると言う約束です。



【主を畏れ敬う霊】


その救い主はどのようなお方でしょうか。今日の朗読の2節を見て下さい。「その(救い主)の上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」救い主になるお方は完全に神の霊に満たされています。ですから、その方がおっしゃる言葉は唯一の全能の神の声になります。神と等しい者になります。



【救い主の完全なる正義と真実】


更に、救い主の正義と真実も完全になります。そのお方は、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」と記されています。不完全な人間と違って救い主は神として全ての事を知り、全ての事を見て、全ての人を見抜く事が出来ます。ですからその裁きは神の裁きになります。



そして、その上、救い主はやがて神の完全な国を全ての造られたものに授けて下さいます。特に御自分の完璧な平安と平和を私達に満たされます。6節に書いたように、「オオカミは子羊と共に宿り、ヒョウは子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。」更に、「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(9節)



【イザヤ預言はイエス・キリストにより成就した】


愛する兄弟姉妹、神の霊に導かれたイザヤが預言したお方こそはイエス・キリストです。神の御子、主イエスはこの世に下り、エッサイの子孫として神でありながら人間になり、私達と共に宿りました。木の切り株のような存在を経験する私達人間に永遠の救いと希望を豊かに与えて下さいました。また、これから主は再び来られる時、御自分の完全な正義と平和を全地に齎して下さいます。



【待降節の恵み】


今日で私達はアドベント、すなわち待降節に入ります。今日からクリスマスまで神の独り子とこの世の唯一の救い主、イエス・キリストの御降誕の意味と恵みを新たに思案します。そして同時に、私達はこれからの主の再臨を切に待ち望みます。どうか、危機と混乱のこの世に住む私達一人一人がアドベントの希望と喜びによって豊かに生かされ、支えられるようにお祈りします。 (おわり)

2008年11月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

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