なくてならぬもの:希望 ウイリアム・モーア宣教師

ヘブライ人への手紙10章19−25◆奨励と勧告

19:それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。20:イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。21:更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、22:心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。23:約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。24:互いに愛と善行に励むように心がけ、25:ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。


【病院へ訪問授業】

ある学校の教師は教育委員会によって町の総合病院に派遣されました。それは入院している若い患者の勉強が遅れない為の訪問授業でした。ある日訪問教師は入院している生徒の担任先生からこのような訪問授業の依頼を受けました。「クラスは今文法を学んでいます。入院している生徒に名詞と形容詞の事を教えてくれると有り難いです。」そして、担当の先生はその子の名前と病棟を教えました。

訪問教師は早速その病棟へ行って生徒を探しましたが、その子と対面すると大変ショックを受けました。男の子は火事で全身に大火傷を負って、酷く痛みを覚えていました。いくら何でもその子に勉強を教える状態ではないと思いました。しかし、そのまま何もしないで帰る事も出来ませんでした。本当に何を言った良いかも分かりませんでしたが、こう言ってしまいました。「君の担任先生は私を送ったけれども、クラスでは今、名詞と形容詞を覚えているから、勉強しませんか。」痛みの故、男の子は返事も殆ど出来なかったが、折角頼まれたので先生は無理だと思いながらでも、一応、名詞と形容詞の使い方を簡単に説明して上げました。そして、先生は帰る時に、「お大事に。近いうちにまた来るよ」と言って病棟を出ました。

【生きる気力を取り戻した少年】

翌日先生が病院に戻った時、廊下で看護師から声を掛けられました。「昨日、火傷の男の子に何をしましたか。」先生は謝ろうとしましたが、看護師はこう言いました。「実は、あの子は大変危険な状態でした。火傷はあんまり酷くて生存するかどうか分かりませんでした。しかし、先生が彼を訪問した時から状態がすごく良くなりました。特に態度が良くなりました。前はあの子は自分が死んだものと諦めていた気がしたが、今は一生懸命に生きようとしています。元気になる為、頑張っていますから、治療は上手くいっています。」

後でその男の子は元気になって退院した時、自分の回復をこう説明しました。「訪問教師が来る前、希望がなく僕は駄目だと思い込んでいた。しかし先生がわざわざ僕を教えに来ることで駄目ではないと分かった。何故なら、僕が駄目だったら、学校はわざわざ名詞と形容詞を教える先生を僕に送ったりするはずがないから。」

実に、希望があれば、殆ど何でも可能になります。希望があれば、全ての事に耐えられ、遂に勝利を味わう事が出来ます。

【なくてならぬ三つの霊的ニーズ】

先々週から私達の「なくてはならない霊的なニーズ」を学び始めました。この三つのものがなければ、私達の魂は衰えてしまいます。生理的に命があっても、その霊的なものによって生かされなかったら、空しくて豊かに生きられません。天地万物の造り主である唯一の神が人間を御自分に象って創造した時、私達はただ物質的な物を求めるのではなく、霊的なニーズも求めるようにお造りになりました。そのなくてはならない霊的なものはどういうものなのでしょうか。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙一13章13にこのように書きました。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」信仰と希望と愛、そのいつまでも残るものは私達人間の魂にとって、なくてはならないものです。そのものがなければ私達の魂は飢え、主イエス・キリストが賜る豊かな命が分かりません。

先々週私達はなくてはならない霊的のものである信仰を学びました。目の不自由な方バルテイマイはイエス・キリストの癒して下さる力を徹底的に信じ、主は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と宣言されました。主イエスのみは人間を救う力と資格があります。御自分の贖い死を通して私達を罪から救って、私達を神と和解させて下さいました。信仰によってイエス・キリストとその救いを信じる者は神の赦しと永遠の命を受け、御神の家族に入れられます。その反面、信仰のない者は暗闇の中に生き、愛する神とその交わりと救いが分かりません。

【なくてならぬもの、その2―希望】

それはなくてはならないもの「信仰」です。今日は次のなくてはならない霊的賜物「希望」を一緒に学びたいと思います。簡単に言えば希望は、「将来に良いことを期待する確信です。」例えば、先程語った火傷の男の子は先生の訪問を通して新たな希望を抱くようになりました。自分は駄目じゃないかと思ったけれども、学校は駄目な子の為にはわざわざ文法を教える先生を送るはずがないと考え、元気になる希望が溢れて来ました。つまり、将来に良いことを期待する確信を持つようになりました。そして、その確信は生きようとする大きな力になったのです。

【豊かに生きるための希望】

豊かに生きようとすると人間誰でも希望がいります。希望があれば殆ど何でも耐えられ我慢も出来ます。火傷の男の子は自分が良くなるのだと信じた時から、酷い痛みを耐え忍ぶ事が出来、前向きの態度を示しました。しかし、逆に将来に良いことを期待出来ない場合、豊かに生きる事は難しくなります。また、悲劇を招きます。

【自殺クリニック】

この間ニュースの話題になりましたが、あるイギリス人の青年はラグビーの練習中に事故で全身麻痺になりました。そして、幾つかの手術を受けたのにちょっとしか良くなりませんでした。終生車椅子の生活に伴う「二流存在」は自分に耐えられないと固く信じ、どうしても死のうとしました。つまり、将来に良いことを全く期待出来ないと思い込んで、全ての希望を失ってしまいました。しかし、全身麻痺の為、一人で自死する事さえも出来ませんでした。ですから、スイスにある医師の助けを借りる「自殺クリニック」へ行こうとしました。青年はなんとかして自分の両親を納得させ、彼らは息子の願いに応じてスイスに連れて行きました。そして現在、イギリスの公訴局長官は両親を自死幇助違反で調べています。あの青年は全ての希望を失いましたので、そのような悲劇的結果になりました。

【将来のための努力】

希望は人間にはなくてならないものであるならば、私達はその賜物をどうすれば得られますか。色んな方法があるのですが、私達は将来に良いことを期待出来る為に現在努力します。例えば、良い就職が出来るように学校を中退しないで、卒業まで頑張ります。そして、退職後の良い生活が出来るように年金料を払って、貯金します。また、買いたい物があれば、現在にお金を貯めておきます。そして、ある人は宝くじを買って当たる希望を抱きます。更に、老後の良い健康の為、多くの人々は生活習慣病に気をつけます。言うまでもないが、将来に良いことを期待出来るように現在頑張る必要があります。それは常識です。しかし、いくら頑張っても、いくら将来の為に賢く用意しても、そのような希望は保証されていません。と言うのは、健康を守ろうとしても病気になる人がいます。一生懸命に勉強しても希望した就職が出来ない場合もあります。そして、老後の為の投資も無駄になる可能性があるでしょう。やはり私達は本当に失敗しない、確かな希望を望みます。


【究極の神様のお約束ー共に居てくださる主】
今日の御言葉にこの聖句が記されています。ヘブライ人への手紙10章23節を見て下さい。「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」

愛する兄弟姉妹、私達の希望は良い就職より、もっと大事です。私達の希望は良い健康よりも遥かに素晴らしいものです。私達の希望は安定した老後の生活よりも重要なものです。何故なら、私達の希望は唯一の全能の愛である神の約束に基づいています。神はこう約束されました。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。」「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。」(ヘブライ人への手紙13章5)

更に主イエスはこうおっしゃいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章20)

【求めよ、さらば与えられる】
そして、主イエスはこのように約束しました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。問をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7章7−8)

神は私達にそのように約束して下さいましたので、大きな希望があります。どんな事があっても、神の恵みは私達には十分であります。そして、「約束して下さったのは真実な方」、天地万物の造り主、唯一の永遠の神ですから、その「希望を揺るがぬようしっかり保つ」事が出来ます。

主は、世の終わりまで、いつも私達と共にいると約束して下さいました。それは大きな希望と安心です。この味方がいらっしゃるからこそ心強いです。お金よりも、健康よりも素晴らしい事です。

【この世を去った後も】
しかし、その上、神の約束と恵みはこの世の生涯に限られていません。主イエスが提供して下さる救いは私達の死後にも、永遠までも続きます。イエスはこう言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたの為に場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたの為に場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の元に迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいる事になる。」(ヨハネによる福音書14章1−3)

【主イエスのからだを通って】
この永遠の命はイエス・キリストの贖い死のお陰です。罪の全く無い主は御自分の身に私達の罪の罰を負って下さいましたので、神は私達を御自分の永久の家に受け入れて下さいます。今日の御言葉に記されているように、「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私達の為に開いて下さったのです。更に、私達は神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」

愛する兄弟姉妹、この全ての事を「約束して下さったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(おわり)

2008年11月02日 | カテゴリー: ヘブライ人への手紙 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/180