パンを裂かれた時イエスだと分かった ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書24章13−35◆エマオで現れる
13:ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14:この一切の出来事について話し合っていた。15:話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16:しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17:イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18:その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19:イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20:それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするた め引き渡して、十字架につけてしまったのです。21:わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22:ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23:遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24:仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25:そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26:メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27:そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、 御自分について書かれていることを説明された。28:一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29:二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30:一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31:すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32:二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 33:そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34:本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35:二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
【ヒトラー暗殺計画】
牧師と神学者であるドイツ人のデイートリック•ボーンヘッファーは1943年にナチによって逮捕され、監獄に入れられました。彼はヒトラーの集団殺害的な支配を悟り、その邪悪な政権を倒すのは神の御心だと信じて来ました。ですからボーンヘッファーは同じ目的を持つ仲間を集め、ヒトラーを止めようとしました。そして、仲間は審議した上、ヒトラーを止めるには一つの道しかないと判断しました。それは彼を暗殺する事でした。牧師として、神学者として人を殺すのは大変辛いけれども、そうしないとヒトラーは続けて言い尽くせない悪事を働く事になってしまいます。その為にボーンヘッファーはヒトラーの暗殺計画に関与しました。その計画は正確に進まれ、爆弾の鞄はヒトラーの会議室に置かれました。しかし、会議室に置いた爆弾の鞄が偶然人によって動かされ、爆発はしたもののヒトラーは生き残りました。 計画が失敗すると、やがてボーンヘッファーとその仲間は秘密警察によって逮捕され、死刑を宣告されました。そして、ナチ政権の征服の数日前にボーンヘッファーは処刑されてしまいました。
【ボーンヘッファーの両親の贈り物】
処刑される二ヵ月半前にボーンヘッファーは両親に手紙を書きました。その手紙の中にこのお話がありました。「今日は日曜日です。ジャガイモとカブの夕食を食べようとした時、お父さんとお母さんが送った小包が届きました。あなたからその小包の物を頂くと言い尽くせない喜びを感じました。私達の間の愛の絆は絶対に断つ事がないと固く信じながらも、お父さんとお母さんの愛の外面的しるしが欲しかったです。このように物質上の物は精神的と霊的現実を伝達するものになります。同じように、我々の信仰に於ける礼典は物質上の物を通して霊的現実を伝えて下さいます。」
【具体的な愛のしるしと聖餐式】
独房で処刑を待つボーンヘッファーは御両親の愛情が分かりましたが、その愛の再確認に飢えていました。そして、具体的なしるしを通してその愛を見たかったのです。両親からの小包はその目的を十分に果たしました。そしてボーンヘッファーによりますと聖餐式も私達の為に似たような目的を果たします。つまり具体的なしるしを通して神の愛が現します。
今日、私達はこの聖餐を通しては、天のお父さんからの小包のようなものを頂きます。具体的なしるしを通してボーンヘッファーが喜びで満たされたように私達も神の愛を再確認出来ます。
【エマオ途上の二人の弟子】
今日の御言葉に於けるイエス・キリストの二人の弟子も、神の愛の具体的なしるしを頂きました。数日前、主イエスは当局によってエルサレムで逮捕され、不正に十字架で処刑されてしまいました。その二人は、「主イエスが復活なさった」と言う驚くべきお話を同僚の弟子達から聞きましたが、エルサレムの当局を恐れて、都から11キロ離れたエマオと言う村へ逃れようとしました。イエスのように自分達も捕まえ、処刑されるとの恐怖を深く感じて避難しに逃げました。同僚のお話以外に主の復活の証拠がなかったので、彼らの恐怖はその希望よりも強く、エルサレムを出て、家に帰るつもりでした。その二人はイエスこそ「イスラエルを開放して下さると望みをかけていました」が、主の残酷な死に伴って、その望みを捨てたのです。家に帰って前の生き方へ戻るしかないと思ったのでしょう。結局、彼らはイエスとそのメセージの失敗に諦めてしまいました。
【復活の主イエス】
その二人は主イエスに諦めましたが、イエスは決して彼らを見捨てしませんでした。御言葉によりますと、彼らは避難の道を歩きながら、蘇られた「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と記されています。(24章15−16)
主は誰よりもその弟子達のニーズが分かって近づいて来て下さいました。そして近づいて来たイエス・キリストは彼らに何をおっしゃいましたか。「裏切り者よ、どうして逃げているか?『私は復活する』と約束したのに、信じないで私を見捨てたのでしょうか。そうするなら、私はあなた達を見捨てるしかない。もう終わりだよ。」とおっしゃいましたか。いいえ、その代わりに主は彼らに近づいて来てただ、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねました。
【人は相手次第で変わるが】
主イエスはその二人の弱さと不信仰と気持ちが分かり、彼らを非難する為ではなく、彼らを助ける為に、わざわざ探し、近づいて来て下さいました。
私達がその二人だったらどうでしょう。決して主の事を諦めず、逃げなかったと信じたいですね。実際に私達は日常の生活においてもすぐ気持ちが相手次第で変わる事があります。例えば、あなたがこなかったから私も行かない。あなたがこうしてくれたから私もこうして上げると簡単にしてしまう事もしばしばある私達であります。
【イエスの愛は変わることがない】
このような私達はきっと信仰も弱くなり、主に従うより、私達のそれぞれの恐れと疑いと悩みと欲に負け、迷うでしょう。そしてその時こそ、主イエスは私達をも探し、近づいて来て、私達の信仰を助けて下さいます。これこそがイエス・キリストの愛と憐れみです。
主は歩きながらその二人と共に行って、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれている事を説明された」と記されています。ずっと日が暮れるまで、彼らが分かるまで、ゆっくりと話された事でしょう。しかしながら、不思議にその人がイエスだとまだ分からなかったと記されています。
【パンを裂かれたときイエスだと分かった】
28節の所を見て下さい。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊り下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊るため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と書いてあります。
ようやく、イエスがパンを裂いて彼らに渡すと、数日前の主の晩餐を思い起こしました。その晩餐の時も、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たしに与えて下さいました。そして、晩餐で主はこう言われた。「これは、あなたがたの為に与えられる私の体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカによる福音書22章19)
【聖餐式は天のお父さんからの贈り物】
主イエスが制定された礼典、聖餐式で、物質上の物を通して神は私達に対する御自分の大きな愛を再確認して下さいます。つまり、御子イエス・キリストを惜しまずに私達に送り、その贖い死によって私達に永遠の救いを賜りました。また、ボーンヘッファー先生が御両親から頂いた小包のように、聖餐式は天のお父さんからの贈り物です。聖餐式を通して主は私達にも近づき、共に歩み、御自分の愛を新たに現します。
【エルサレムに戻る】
2000年前のその二人は復活の主が分かるとどうしましたか。33節の所を見て下さい。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、『本当に主は復活して、シモンに現れた』と言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いて下さった時にイエスだと分かった次第を話した」と記されています。
彼らは失望しましたが、喜びました。主を疑いましたけれども、新たに信じて来ました。恐れから逃げたが、勇気を持ってエルサレムへ戻り蘇えられた主に従いました。その大きな変化の理由は主イエスが彼らの為に近づいて来て、パンを裂いてお渡しになったからであります。
【聖餐により新たな信仰と力を】
愛する兄弟姉妹、主イエス・キリストは今も私達に近寄って来て下さいます。間もなく、私達の為の神からの小包が届けられ、パンと杯を頂きます。それは主イエス・キリストを思い起こします。主の御臨在と愛を新たに経験します。 そして、御言葉にあるその二人のように新たな信仰と力が湧き上がります。その新たな信仰と力によって強められ、共に主に従いましょう。(おわり)
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