ホームシック ウイリアム・モーア宣教師

聖書:コリントの信徒への手紙二5章1−10

1:わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。2:わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。3:それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。4:この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。5:わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として"霊"を与えてくださったのです。6:それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7:目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

8:わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9:だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。10:なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


【ホームシック】
今年の春に中国の上海に行きました。初めての中国の旅ですから、とても面白かったです。特に向こうのキリスト教会の現状と中国の経済的発展を自分の目で見る事は良い勉強になりました。しかしながら、そのツアーの最後の日になると、不思議にどうしても家に帰りたい気持ちがあったのです。

その気持ちになったのは別に上海が嫌い訳ではありませんでした。本当に刺激的な所で、いつかもう一度また来てみたいと思いました。けれども、向こうの環境の違いの故に、家を憧れ帰りたかったのです。言葉は通じなし、食べ物も慣れていませんでした。ホテルのベッドは板のように固くてよく眠れませんでした。また、上海の道が分からなくて自由に動きが取れないと言うのも不便でした。ですから、馴染みが深い神戸と我が家を憧れ帰りたかったのです。と言うのは。

恐らく私はちょっとホームシックになったかも知れません。誰でも遠く離れると、いくら良いと言っても、やはり、楽にさせる家の事や慣れて来た環境をなつかしく思う心があります。

【使徒パウロのホームシック】
今日与えられた御言葉に使徒パウロもちょっとホームシックだったと思います。しかし、その気持ちの対象は故郷のタルソスと言う町ではありませんでした。生まれ育った家を憧れませんでした。実は、不思議ですが、パウロがホームシックになった所へは行った事も見た事もまったくありませんでした。しかし、その所に憧れ、どうしても帰りたかったのです。

先程読ませて頂いた聖書の朗読をよく聞いたら、パウロのホームシックの対象がお分かりになるでしょう。それは天国です。彼はどうしても主イエス・キリストがいらっしゃる所へ行って、その恵み、その安楽、その喜びを永遠に楽しみたかったのです。

【われらの国籍は天にあり】
使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3章20節にこう書きました。「私達の本国は天になります。」その意味はキリスト者になると、私達は神によって闇の力から救い出されて、主イエスの支配下に移して下さいました。つまり、信者の霊的国籍は天国になります。今、そうなっています。

今、天国に住まなくてもわれらの本国と国籍は天国です。そして、この世のあっと言う間の歩みが終わると、私達は本国に帰り、永遠にそこで主と共に住む訳です。ですから、パウロは自分の永遠の住まいの為にホームシックになり、霊的な故郷、天の父の所へ帰りたかったのです。

【テント職人パウロ】
今日の御言葉に使徒パウロは今、この世での存在を幕屋、つまりテントに暮らす生活と比べました。ところで、パウロは食べていく為にテントを作って販売しました。自分の生活が信徒達に経済的負担にならないように伝道しながらテントの仕事をしました。パウロは多分上質のテントを作ったと思いますが、彼もテントでの暮らしの限界をよく知ったはずです。

【テント暮らし】
多分皆さんもキャンプ場へ行ってテントに暮らした経験があると思います。二日、三日までテントでの生活は楽しいけれども、それ以上はちょっと難しいです。テントは狭いし、風が強く吹いて雨が降ると、不安定で、倒れる場合があります。また、一枚の布切れだけですからテントの中は寒くなり熱くなる事があります。そして、エアマットレスの上に寝ても、それ程楽ではありません。その上、トイレは離れた所にあるから、特に真夜中は不便です。ですから、二、三日のテントの生活の後、家の設備を憧れ、帰りたい気持ちが強くなります。いつまでもテントの暮らしを望む人は少ないだろうと思います。

【天にある永遠の住みか】
この世での、この体での暮らしはテントのような一時的の存在です。もう一度使徒パウロの言葉を聞いて下さい。5章一節から読みます。

「私達の地上の住かである幕屋が滅びでも、神によって建物が備えられていることを、私達は知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、私達は裸のままではありません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住かを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう為に、天から与えられる住みかを上に着たいからです。私達を、このようになるのにふさわしい者として下さったのは、神です。神は、その保証として『霊』を与えて下さったのです。」


【新しい霊的からだ】
私達は天に召されると、今持つこの体の代わりに主は新しい霊的体を与えて下さると言う事です。つまり、主は私達から全ての罪を取って頂き、私達の性格と思いと行いも完全にさせて下さいます。従って、あらゆる弱さや悩みや恐れや心配などから私達を開放して下さるのです。つまり主は私達を天国での暮らしに相応しい者としてさせて下さいます。

【神の幕屋】
天国では、罪と死、苦しみと病気、悲しみと思い煩いが全くありません。人間と神との関係と、人間と人間との関係が正しくなり、皆はお互いに愛し合って完全に恵まれた状態です。

ヨハネの黙示録21章3−4節に記されていますように、

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」


と書いてあります。

その天国、私達の本国は、永遠の住まいになります。文字通りに、私達はその言い尽くせない程素晴らしい所の永住者と国民になります。主イエスによって歓迎され、主の元で永遠まで楽しい日々を過ごす事が出来ます。やっと本国に帰り、「これは私の憧れた、本当の家」と言って、ほっとします。

【地上の幕屋か、天の住みかか】
愛する兄弟姉妹、使徒パウロのように天国にホームシックですか。この世のテントから主イエスが準備して下さったしっかり建てられた永遠のお住まいに移りたいですか。選ぼうとしたら、どちらを選択するのでしょうか。パウロもその選択について迷いました。彼は信仰の故に監獄に入れられ、死刑にされる可能性が高かったのです。そして、フィリピと言う町にある教会に自分の気持ちについてこう書きました。フィリピの信徒への手紙1章19節の聖書を開いて下さい。

【生きるとはキリストであり、死ぬ事は利益】

「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事が私の救いになると知っているからです。そして、どんな事にも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬ事は利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きが出来、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つの事の間で、板挟(いたばさみ)みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたの為にもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいる事になるでしょう。そうならば、私が再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト•イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、私ゆえにまし加わる事になります。」


使徒パウロは天国にとてもホームシックでした。監獄に入れられたばかりでなく、また、しつこい病気によって悩まされました。言った通りに天に召される事は自分にとって遥かに望ましいでした。全ての重荷を降ろして、本国に帰りたかったのです。神によって完璧にされ、自分の目で愛する救い主イエス・キリストを見たかったのです。主イエスとの直接な交わりを楽しみに待っていました。間違えなく、病気と監獄の独房から開放され、一日も速く天に召されるのは自分の個人的な益と強く信じたのです。

【パウロの使命】
しかし、パウロは自分の個人的利益だけを考えませんでした。神によって大事な使命が与えられました。そして、その使命はこの世のみで果たす事が出来たのです。それはイエス・キリストの愛を分かち合い、主の福音を広く述べ伝える事です。さらに、信者の信仰を成長させる事です。天に召されるとその働きが出来ないから、パウロは喜んでこの世で留まり、主に仕えました。不便であっても、苦しみと悲しみがあっても、神のみが知る時まで積極的にこの世で 実り多い働きに励むつもりでした。

【私たちの使命】
愛する兄弟姉妹、それは私達が取るべき態度ではありませんか。本国になる天国に憧れ、ホームシックでありながらでも、喜びを持って、この世で神の国の為に励むべきです。小さな業を通してでも、主イエスが持っておられる愛を周りの皆に現し、主が自由に提供して下さる唯一の救いをこの世の人々に知らせるのです。やはり、私達一人一人は使徒パウロと同じ使命が与えられています。

どうか、私達は憧れの本国に召される時まで、真の神の力に支えられ、喜びと希望を持って主と隣人に仕えましょう。

(おわり)

2008年08月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

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