「主イエスを信じて死ぬ幸い」 宝塚教会牧師 国方敏治

宝塚教会牧師 国方敏治

ヨハネ福音書11章17-44節

◆イエスは復活と命  17:さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18:ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19:マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20:マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。  21:マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。  22:しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」  23:イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、  24:マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27:マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 ◆イエス、涙を流す  28:マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29:マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30:イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31:家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32:マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33:イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34:言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35:イエスは涙を流された。  36:ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37:しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 ◆イエス、ラザロを生き返らせる  38:イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39:イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40:イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41:人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、    わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42:わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」  43:こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44:すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。  

 


【死は幸い?】
私たちにとって「死」とは、死ぬ事は最大の不幸、最大の災いと考えられています。
けれども、聖書には「今から後、主(イエス)に結ばれて死ぬ人(死人)は幸いである」(黙示14:13)と言われています。教会やキリスト信者の葬られた墓の墓碑に、しばしばこの御言葉が記されているのを見るのです。では、死が幸いであるとは、どういう事か。今朝は、この驚くべき福音の言葉を共に聞き取りたいと願っています。


【マリアとマルタの兄弟ラザロの死】
今日お読みした御言葉には、二人の姉妹マリアとマルタ、そして兄弟ラザロが登場してまいります。その兄弟ラザロが病気であった。そこで、二人の姉妹は主イエスのもとに人をやって言わせた。3節

「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」


、けれどもそうこうしている間に兄弟ラザロは死んでしまったのです。病気と死です。
病は私たちを肉体的にも精神的にも大変苦しめる出来事です。大変不安にさせます。
 
病は死を予想させるからです。死は人間の最後に起こる事、死によって人は滅びを意識し、人生の終局、神の裁きを意識させる出来事です。できれば誰もが避けたい事柄です。けれども、私自身が牧師としてキリスト教葬儀を通して体験した事、それは大変違っていました。そこから多くの恵みを味わったのです。一人の人、一人のキリスト信者の生と死を通して、そこに現された神様の恵みの数々を数える事ができました。
 
【キリスト教の葬儀】
私が洗礼を受けてまだ日が浅い頃、神戸の神港教会で一人の信仰者の葬儀に出席した時の驚きを今でも覚えています。私は四国出身ですが、高校まではキリスト教とは縁のない中で過ごして参りました。その中で仏教の葬儀を何度か経験しましたが、そこで感じた死の底深く暗いイメージとキリスト教徒のそれとは全く違っていました。
 
キリスト教の葬儀においては、列席者に挨拶する遺族の姿の中に悲しみの中にも慰めや喜びが感じ取れました。それは私には新鮮な驚きでした。4節で主イエスは言っておられます。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」


。死で終わらない、死を超えて行くのです。主イエス・キリストの死と復活により、彼を信ずる者が与る復活の命を通して死を超え、「神の子」とされる栄光の栄光に与ることが許されるのです。
 
【墓に葬られて既に四日も】
主イエスは、ラザロが病気であることを聞いてからもなお、二日間同じ所に留まった後、11節を見るとこう言われた。

「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」


と。更に17節では

「イエスが行ってご覧になると,ラザロは墓に葬られて既に四日も経っていた」


と記されています。出迎えたマルタは主イエスに言いました。21節

「主よ、もしここにいて下さいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(なぜもっと早く来て下さらなかったのですか)」


。言外に、主の遅延に対するつぶやきと不満が感じ取れる言葉です。それは、同時に死の力に対する主イエスの権威、死という出来事に対して「主イエスさま」あなたには何かできるのでしょうかとのつぶやき、問いの言葉ともなっています。その言葉に対して、主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と語られたのです。
 
【墓は悪魔の支配する領域】
他方で、ラザロの死に際して人々はというと、19節を見ると

「マリアのところには、多くのユダヤ人が兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」


と言われています。そこには慰めと悲しみを共にする隣人、共同体の姿があります。更に、31節を見ると

「(彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て)、(人々は)墓に泣きに行くのだろうと思い、(後を追った)」


とあります。ここで「墓」とは死の支配、悪魔の支配する領域です。
 
【主イエスの怒りと涙】
33節にも

「彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見た」


と記されています。死に際して私たちのできること、なし得ることは悲しみと嘆きを表すことだけです。マリアはと言うと、姉のマルタから先生がお呼びですと告げられると、彼女もまた急いで主イエスのもとに行き、32節

「主よ、もしここにいて下さいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」


とマルタと同じ事を繰り言のように告げるだけでした。それを聞いて(33)

「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。『どこに葬ったのか』と。彼らは『主よ、来て、ご覧下さい』と言った。イエスは涙を流された。」


とあります。ここで語られる主イエスの怒りは、何なのだろうか。主イエスは憤りを覚え、興奮して「どこに葬ったのか」と彼らにお問いになったのです。私たちは皆愛する者の死に際して、悲しみを覚えつつ、葬儀を行い、葬りをするのです。
 
あるユダヤ人達が、37節で

「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」


と言ったように、私たちにはそれしかできないのです。けれども、ここでの主イエスの態度は明らかに私たちとは違う、何か異常な興奮を示しています。それは何だろうか。彼女も一緒に来たユダヤ人たちも泣いています。悲しみ、嘆いているのです。
 
【死に対する人間の無力】
それしかなすすべがない人々の姿がそこにあります。愛する者の死に際しても、死の支配に委ね、墓穴に葬ることしかできない「死の事実」、この死の事実に対する主イエスの怒りがそこに表されていると言えます。「墓穴」とは死の支配、悪魔の支配する領域です。死の事実、それは同時に「死の力」をもって私達を支配する悪魔の支配です。主イエス・キリストの怒り、それはこの「死の力、悪魔の支配」に対する憤りです。
 
【ラザロの復活】
38節を見ると、主イエスは再び心に憤りを覚えて、石で塞がれた墓に来て、言われました。

「その石を取り除けなさい」


と。そして、天を仰いで祈って言われました。
(43)

「ラザロ出てきなさい」


。力強い命の声です。墓を開かれる主イエス・キリスト、死人を起き上がらせる主イエスの命の声です。ここに「ラザロの復活」を「しるし」として、私たち信仰者の復活の希望が証言されているのです。
 
【枯れた骨が生き返る】
旧約のエゼキエル書37章を見て頂くと、そこに不思議な言葉が記されています。それは、神の言葉によるイスラエル民族の復活、神の支配の再建を枯れた骨が生き返るというイメージで語り伝えているのです。そのように、ここに人間の知識や経験を越えた出来事が歴史の中に起こったと言うこと。人間の歴史や人間自身を造られた神さまが真実に今働いているという事実をここに知ることができるのです。主イエスの十字架と復活に基づいて、彼を信ずる者に永遠の命が与えられる確かな福音の言葉として語られています。
 
それはどのようにしてであろうか。現実に主イエスによるラザロの復活という出来事が人々の心に何を引き起こしたのだろうか。そこには、このことを通して、ユダヤ人の敵意が決定的となり、主イエスに対する殺意が明確となり、主イエスの受難、十字架の死が現実のものとなったのです。1章29節において、洗礼者ヨハネが主イエスを見て

「世の罪を取り除く神の小羊」


と語った言葉がこうして現実のものとなったのです。主キリストが信ずる者の罪を取り除く神の小羊となった。
 
【主にある死人は幸いである】
主イエス・キリストの受難と死、十字架と復活の出来事、その福音的事実を信仰をもって受け止めることを通して、私たちの救い、罪の赦し、永遠の命が信ずる者に与えられるのです。

 「今から後、主に結ばれて(あって)死ぬ人(死人)は幸いである」


との聖書の御言葉を改めて心に刻みたいと思います。ここには、死ぬことが決して不幸ではない、主にあっては幸いである、信者にとって死は不幸ではない、確かな救いの慰めがあるとの約束が告げられているのです。信者の死、キリスト教葬儀において告げられる御言葉の慰めがあるのです。悲しみの中にも慰めがあり、命の希望があるのです。
 
【主イエスを信じるとは】
25節に、主イエスの私たちへの問いかけの言葉があります。

「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを(あなたは)信じるか」

「主イエスを信じる者は死んでも生きる。生きていて主を信じる者は死ぬことがない」、あなたはこのことを信じるか、と問うているのです。主イエス・キリストを信じたら病気をしないとか、死なないというのではありません。ラザロも私たちと同様にやがて死を経験したに違いないのです。ただ、聖書が教えている私たち人間が「生きる」とは、「死ぬ」とはどういうことかということです。それは、創造者なる神さまによって与えられた魂も体も含めた、本当の意味での「生きる、生き甲斐をもって喜んで生きている」ということと、他方「死とは、そのような意味での神と共にある生が奪われている」肉体の死を含めた滅びということです。
 
【主イエスを救い主と信じる信仰】
主イエスが死に打ち勝ち、罪の支配、死の支配、悪魔の支配を打ち破り、永遠の命の支配をもたらして下さった。マルタは27節で

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」


と主に答えています。主の呼びかけに対する応答としてのマルタの信仰告白です。それは主イエス・キリストを「我が主、救い主」と信じて救われ、死を超えて永遠の命に生きることができる私たちの信仰の告白でもあるのです。
 
【復活の主がわれらを友と呼んで下さる】

「私は復活である」


(25)という主イエスの御言葉は、神さまと隣人との関係において破れ、生ける屍のような状況にある罪人である私たちに対する命の言葉です。主の御言葉は地上において、この歴史の中で、新しい命を与えて永遠の命を生きるような生活を主にあって始めさせて下さる、そればかりでなく死を越えた復活の希望をお与え下さる御方として主イエス・キリストが確かにおられることを示しています。それは同時に、ラザロを主が「友」(11)と呼んで下さったように、私たちをも苦難の世にあって「(我が)友」と愛を以ってたえず呼びかけて下さる主がおられる事を示しています。(おわり)
 

2008年06月22日 | カテゴリー: エゼキエル書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

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