2008年3月

生きた水の流れ 河内常男伊丹教会長老

聖書 ヨハネ7:37より38 

◆生きた水の流れ

 37:祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39:イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである。

【私の信仰の歩み】
私は、33歳のときに伊丹教会へ復帰しました。復帰したというより、放蕩息子がやっとの思いで、たどり着いたという感じです。神様の哀れみです。

私の洗礼は18歳の高校生のときでした。津山の日本キリスト教団 津山城西教会という小さい教会でした。私には5つ上の姉がおり連れられて日曜学校へ行くようになったのです。

牧師先生からあなたも、洗礼を受けなさいというそのひと言で受洗しました。今思えば先生が良く薦めて下さったと感謝しています。

 

【社会人として】
でも私には信仰の本当の深い意味が判っていませんでした。高校を出て伊丹で就職し、大阪で5年、その後又伊丹のもといた工場へ戻り、15年間は教会から離れていました。

私は、大学の受験に失敗してから、これを良いことにすぐ就職しました。仕事の内容はあまり問題ではなく、津山を出て行くことが、目的のようなものでした。自分にとって津山での10年は良い思いありませんでした。

2008年03月30日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

わたしは主を見ました ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書20章1−23

◆復活する   1:週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2:そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」   3:そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4:二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5:身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。   6:続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7:イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8:それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9:イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10:それから、この弟子たちは家に帰って行った。   ◆イエス、マグダラのマリアに現れる  11:マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12:イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13:天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14:こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。  15:イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わた     しが、あの方を引き取ります。」16:イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17:イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18:マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。   ◆イエス、弟子たちに現れる  19:その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。  20:そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。  21:イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22:そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23:だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」  

 
【フィリップとイースターの宿題】
フィリップと言う小学生は普通の男の子ではありませんでした。彼は知的障害を持って、12歳なのに、知力が一年生程度でした。しかし、フィリップの両親は出来るだけ彼に普通のクラスに参加させる為、一般の小学校に行かせました。フィリップは頑張りましたけれども勉強はなかなか難しくて、他の子供達にはついていけなかったのです。春になると、先生は復活祭の事、イエス・キリストがお墓から蘇った事をクラスに教えてくれました。先生が特に強調したのは、主イエスが復活してから、そのお墓が空になった事です。そして、宿題として先生は生徒達にプラスチック卵一個ずつを渡して、このように言いました。「プラスチック卵をお家に持って帰って、復活と新しい命を示す物を探し、卵に入れ、明日学校に持って来て下さい。分かりましたか。」子供達皆は、「先生、分かりました」と熱心に答えましたが、フィリップは先生に聞かれても何も返事しませんでした。ですから、いつものようにフィリップの家へ連絡して、宿題を説明するつもりでしたが、先生は忙して忘れてしまいました。

2008年03月23日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

 悪から善を ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書27章32−56

◆十字架につけられる  32:兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33:そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34:苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめた だけで、飲もうとされなかった。 35:彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36:そこに座って見張りをしていた。  37:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書い た罪状書きを掲げた。 38:折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 39:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40:言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41:同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42:「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43:神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わた しは神の子だ』と言っていたのだから。」  44:一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

◆イエスの死
 45:さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47:そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48:そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49:ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
 50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51:そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52:墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
 53:そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54:百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55:またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56:その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 


【受難週】
今日で私達と全世界の教会は受難週に入ります。イエス・キリストが受難を前にエルサレムに入った日曜日からの一週間をキリスト者は特に主の十字架の貴い犠牲を新たに覚え、その意味と恵みについて思案します。私達は受難週の際、主イエスが払った犠牲に集中すべきです。何故なら、来週の主の日にイエス様の復活をお祝います。


2008年03月16日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

主イエス・キリストのみ ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書17章1−8

◆イエスの姿が変わる   1:六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2:イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3:見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」   5:ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。   6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7:イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8:彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

 
【六甲山の魅力】
家の北側の窓から六甲山がよく見えます。そして、小さい時から山が好きだった私は毎朝起きると、窓のカーテンを開けて、その日の六甲山の様子を眺めます。ある朝は、六甲山は雲と霧に包まれて、完全に見えなくなります。又ある冬の日は雪で美しく輝いていました。春になって暖かくなると、六甲山は段々緑に覆われて、見るだけで気分が爽やかになります。そして、秋の六甲山は燃えるかのような紅葉になり、とても奇麗です。山は平地より、季節の変化が目立ちますので、とても面白くて魅力があります。
 
【高所から】
しかし、季節の変化以上に、やはり山の高度は山の魅せられるところではないかと思います。高い山に登ると別の世界に入るような気がします。空気が美味し、人里離れますので自然の音しか聞こえないし、すずしいです。そして、山から平地を見下ろすと山の魅力が特に感じられます。つまり、自分が全ての上にいるから、遠くまで見えるし、下にある普通の世界は小さくなります。ある面では、高い山から世界を見下ろすと、私達人間は神の目から見られているような感じかもしれません。         

2008年03月09日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

自分を無にする事 ウイリアム・モーア宣教師 

聖書:フィリピの信徒への手紙2章1−11

 ◆キリストを模範とせよ   1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰     め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、   2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、     わたしの喜びを満たしてください。   3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに     相手を自分よりも優れた者と考え、   4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。   5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみら     れるものです。   6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固     執しようとは思わず、   7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ     ました。人間の姿で現れ、   8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で     した。   9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与     えになりました。  10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス     の御名にひざまずき、  11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父     である神をたたえるのです。  

 

【キリストに似ること】
この世にいる間、私達キリスト者はおもに一つの目的を持って生きています。それは私達の救い主イエス・キリストにだんだん似て行く事です。何故なら、キリストに従って、似て行く者はキリスト者です。そして、同時に、キリスト者はキリストに従って似て行く者であります。その上、私達はキリストに似て行く事が何よりも父なる神の御旨であり、何よりも主を喜ばせる事であるとよく知っています。
 
【イエス・キリストに似て行く道】
今日の御言葉はイエス・キリストに似て行く道を教えて下さいます。この個所は私達がどういうふうに主イエスにより近づけるかを説明します。今日与えられた御言葉によりますと、イエスのようになろうとしたら、私達は先ず主との同じ態度をとらなければなりません。フィリピの信徒への手紙2章5節の所を見て下さい。使徒パウロはこのようにフィリピと言う町にいるキリスト者に語りました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト•イエスにもみられるものです。」
 
原文を調べると、その表現は、「キリスト•イエスの同じ考え方、あるいは同じ態度をとりなさい」となります。つまり、主イエスの態度と価値観が自分のものになると、私達の動機と行動が変わり、徐々にイエスに似ていきます。

2008年03月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書