嵐の中にも神の平安と喜び ウイリアム・モーア宣教師
詩編4篇1−9:
【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】 2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ 4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ 6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。 7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜 びを/わたしの心にお与えください。9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。
【苦悩の叫び】
「呼び求めるわたしに答えてください」とダビデ王は今日の詩編で神に祈願をこめました。「呼び求めるわたしに答えてください。」私達はその同じようなお祈りを聞いた事がありますか。あるいは、自分自身の口からそのようなお祈りを心から捧げた事がありますか。多分、私達一人も残らず、いつかその同じような祈りを神に捧げた事があるのではないでしょうか。そして、恐らくある難しい時期、毎日のように、「呼び求めるわたしに答えてください」と祈願した事があるに違いありません。
【ダビデ王の苦悩、その原因と結果】
詩編第4編を書いた人物ダビデ王はその祈りを何回も捧げた事がありました。ダビデはイスラエルの王として力がありましたけれども、それと同時に、敵も試練も誘惑も結構あったのです。今日与えられた詩編の背景が記されていないんですが、先月学んだ詩編第3編と同じ状態で書かれていると思われています。ダビデはイスラエル軍の幹部であるウリヤの妻バド•シェバを無理に自分の妻として取ってしまいました。そして、その罪を揉み消す為、もっと酷い罪を犯してしまいました。ダビデ王はわざわざバド•シェバの夫ウリヤを戦場の最も危険な所へ行かせて、結局彼の死を起こしました。その事件のずっと後の事ですが、アムノンと言うダビデの息子が自分の異母姉妹タマルに惚れて彼女に対して暴行を起こしてしまいました。それからタマルの同父母の兄弟アブサロムがその暴行を聞いて、アムノンに復讐する機会を狙(ねら)って、彼を殺してしまいました。しかし、ダビデ王はアブサロムの罪をちゃんと扱いませんでした。息子を罰する為にただ彼を都エルサレムから追放したのです。その軽い罰の理由は、ダビデ王も同じ殺人罪を犯した事があったからです。結局、その為、ダビデが道徳的権威を失ってしまいました。
【わが子アブサロムの謀反】
とにかく、訓練の欠如したアブサロムはやがて親の赦しを得て、エルサレムへ戻りました。しかし、感謝を現すより、彼は親のダビデに対して謀反を企み始めました。自分が親より道徳的に優れた者、又、もっと良いリーダーだと思ったのです。アブサロムは味方と共に自分の父であるダビデ王を暗殺してから、王座を握るつもりでした。ダビデにはその事が全く思い掛けなかったので、自分の命を救う為、泣きながら裸足の姿で宮殿から急いで逃げ出してしまったと聖書に記されています。
【父の苦悩と恥】
アブサロムが起こした乱はもちろんダビデには大変なショックでした。更に、何よりも恥ずかしかったのです。自分の最愛の息子が裏切り者になったのは信じられませんでした。結局、息子の事でダビデは皆の前で名誉を汚されてしまいました。しかし、その上にアブサロムの協力者はダビデに対して酷い事を言いました。詩編第3編2節と3節を見ますとこう記されています。
「主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい、多くの者がわたしに言います、『彼に神の救いなどあるものか』と。」
つまり、「神はダビデ王を見捨てた」と言う人が多くなりました。主はダビデをイスラエルの王として立たせましたが、息子の乱を通して、御自分の祝福と権威を彼から取り上げたという話です。神こそがダビデ王を倒し、関係を絶ってしまったと主張したのです。
もちろんダビデは罪人でした。彼は皆と同じように人に対しても、神に対しても罪を犯しました。しかし、彼は罪を心から告白し、懲らしめを受けて、主の赦しを頂きました。ですから、人からいくら言われても、大変苦しく恥ずかしい状態の中にいても、主の救いと愛があると固く信じたのです。神は決して自分を見捨てなかったと言う信仰と確信がありました。
【ダビデの確信】
私達もその同じ確信を持つべきです。愛する神は忠実なお方です。憐れみ深いです。私達の罪を赦す為に、御自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、イエスは私達の罪の罰を十字架で受けて下さいました。つまり、十字架で父なる神は私達の変わりに、罪の全く無い独り子イエスを見捨てた訳です。ですから、十字架に掛けられた時、主はこのように叫びました。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
(マタイ27:46)
イエス•キリストの犠牲のお陰で、主を信じ従う者は神によって見捨てられる事を恐れなくてもいいのです。ダビデと同じように、神の
「恵みと慈しみはいつも私を追う」
と固く信じられます。(詩編24:6)
【ダビデ:御心に適う人】
ダビデはその危機と恥と責められた時、神の助けを願いました。
「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさを認めて下さる神よ」
と祈りました。多くの人はダビデのように攻撃を受け、名誉が傷つけられ、そして、不正に責められると、相手に集中して反撃します。それは私達の本能的反応です。しかし、意味深い事ですが、ダビデ王は大変な時、彼は第一に神の顔に向けて助けと慰めを求めました。それはダビデの長年のパターンでした。脅されると神の助けと力を祈りました。罪を犯した時、神に告白し赦しを願いました。失敗の時、主の慰めを願いました。知恵が必要な時、神に知恵を頂きました。そして、不正に責められ、名誉が汚される時も、主を呼び求めました。だからこそ、聖書にダビデは
「御心に適う人」
(サムエル記上13:14)と呼ばれました。
つまり、人間の意見と指導よりも、神を喜ばせる事と神の知恵を重んじて来ました。
ダビデ王にとって、主は、「わたしの正しさを認めて下さる神」でした。つまり、自分について廻りの者の考えよりも、彼は神の意見を高く評価しました。何故なら、神御自身こそがダベデの名誉を見積もって、守るからです。
【苦悩の中から】
特に困難の時、私達もダビデのように、人を責める事よりも、神に頼り、神の助けを求めるべきです。そして、ダビデ王の祈願は私達のお祈りになります。
「呼び求めるわたしに答えて下さい、わたしの正しさを認めて下さる神よ。苦難から解き放って下さい。憐れんで、祈りを聞いて下さい。」
先ず神に祈ってから、ダビデは自分を苦しめる人に向けて語りました。しかし、彼は怒りと憎しみを持って話しませんでした。却って、冷静を保って彼等にアドヴァイスを提供したのです。3節のところを見て下さい。
「人の子らよ、いつまで私の名誉を辱(はずかし)めにさらすのか、むなしきを愛し、偽りを求めるのか。主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いて下さると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主により頼め」
と記されています。
恐らくダビデ王はおもに自分の息子アブサロムの事を考えてこの個所を書きました。アブサロムは許せない行動で父の名誉を汚してしまいました。彼は権力に飢えているからダビデの王権を奪おうとしました。実は、父が亡くなると、アブサロムが王になる予定があったのですが、彼は待つ事が出来なくなり、家族と国の悲劇を招きました。忍耐を少し持っていたら、遠くない将来、王になった事でしょう。しかし、彼は偽りを言って、自分がお父さんより優れたリーダーだと主張し、国民を騙してしまいました。その結果は大混乱と流血です。実は、その反乱でアブサロムは剣で自分の命を失ってしまいました。少なくともこの事件は忍耐の重要性を私達に教えて下さいます。
4節を見ますと、ダビデは神の御心に従って生きる人の安心を語ります。
「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いて下さると知れ」
と言うアドバイスを自分を反対する者に与えました。ダビデは神を知り、何よりも御心を行いたかったのです。その故に毎日の生活を通して彼は神を自分の呼び求める声を聞いて下さる方として経験しました。それはダビデと同様に私達にも嵐の中の大きな慰めと平安となります。どんな時でも、どんな場合でも、神は私達の願いを聞いて助けて下さるのです。
【怒りからくる罪:アブサロムの怒り】
5節に私達は怒りを生み出す罪を警告されます。
「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ」
と書いてあります。常識ですが、怒った時の反応は罪になりやすいです。しかし、落ち着いて来てから、祈りながら行動すると、正しい判断が可能になります。アブサロムは自分の怒りをなかなかコントロール出来ませんでした。怒りの理由でタマルの事で自分の兄弟を殺人しました。そして、多分何よりも怒りの故にお父さんダビデに対して謀反を起こしました。結局、そのアブサロムの怒りは悲劇と罪を起こしてしまいました。
【ふさわしい献げ物】
ダビデの最後のアドバイスは6節にあります。
「ふさわしい献げ物をささげて、主により頼め」
と。私達のふさわしい献げ物は何でしょうか。やはり、それは神の御用の為に自分自身を献げる事です。つまり世の光と地の塩になる事です。そして、その役割を果たすように全ての事において主を信じ頼るべきです。
【御顔の光を向けて下さい】
最後に、ダビデ王は神が自分に授けて下さった平安と喜びの証を立てます。嵐の中にいてもその恵みを豊かに経験しました。
「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、私達に御顔の光を向けて下さい」
とダビデの敵に言いました。ダビデはその完全な恵みを示す者、主を知り、そして大変な時こそ、神は御顔を向けてダビデを照らして下さいました。私達は悩みの時に神の支えを頼りにし、人生の困難の中を通して導いて下さる神の力に寄り頼む事が出来ます。この確かな保証によって私達は勇気と希望を持つ事が出来ます。
【至高の喜び】
「人々は麦とふどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを私の心にお与えて下さい。平和のうちに身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに私をここに住まわせて下さるのです」
とダビデは詩編第4編を閉じます。
彼は神を徹底的に信じたので、言い尽くせない平安だけではなく、溢れる喜びも感じたのです。そして、神のみに頼ったダビデは嵐の中にいても身を横たえ、ぐっすり眠る事が出来ました。
【母親の愛に包まれて】
治療の為に少女が苦しい注射をしてもらわなければなりませんでした。医師が持った注射器を見るだけで恐怖を感じ、涙を浮かべました。しかし、お母さんは少女を抱いて、「大丈夫よ」と優しく慰めてくれました。そのなじみの声を聞くと、少女は安心して、安らかな表情を示しました。何故なら、独りでその試練を受けなくてもいいのです。お母さんが共にいて、支えるからです。
ダビデ王は常に自分の顔を父なる神に向けました。そして難しい時にこそ、共にいて下さる神の存在に大きな平安と喜びを経験しました。愛する兄弟姉妹、主は私達にもその同じ賜物を自由に授けたいのです。どうか、その賜物を受けるように、愛する神を信じ頼りましょう。(おわり)
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