神の招きにふさわしく歩もう ウイリアム・モーア宣教師

エフェソの信徒への手紙4章1−6

【聖墳墓教会の争い】
大昔の言い伝えによりますと、エルサレムにある聖墳墓教会はイエス・キリストが復活させられるまで横たわっていたお墓の上に建てられています。しかし、残念ながら何百年前から現在いたるまで色んなキリスト教宗派がその聖地の管理を主張して来ました。その問題はあんまり深刻になりましたので、1752年に、当時パレスチナを治めたオスマン帝国の君主が聖墳墓教会を六つの部分に分けて、その部分それぞれを六つの宗派に与えました。教会の屋上はエチオピア正教会の物になりましたが、1800年代の流行病のため、エジプト•コプト教会が屋上の管理を取りました。しかしながら、1970年頃、エジプト•コプト教会の修道士が屋上からちょっと留守の間、 エチオピア正教会が百年ぶりにもう一度屋上を占領しました。もちろん、コプト教会はその行為を争って、自分の修道士を屋上へ行かせ、その時から両方の宗派の代表が屋上に暮らしていました。しかし、そのライバルの二人はあんまり良い関係を持ってなかった為、2002年の夏に殴り合いなりました。両方の仲間がその騒ぎを聞くと、屋上へ飛んで来て、大変な喧嘩が起こりました。修道士11人が怪我になり、一人が無意識状態で病院へ運ばれました。主イエス・キリストのお墓と復活の聖地なのに、そう言う事件が実際に起こってしまいました。

【主イエスの弟子として】
キリスト教会の中にもこう言う事があると悲しく望ましくない証になるけれども、私達がキリスト教会として一致を現す時、力強く、誰でも私達は主イエスの弟子である事が分かります。

実は、主イエスが十字架の贖い死に向かった時、御自分の教会の為に祈られました。そのお祈りには主は豪華な大聖堂や立派な礼拝や世俗的権力などを願いませんでした。おもに一つの事の為に祈ったのです。それは信者の一致です。ヨハネによる福音書17章20−21節に主のこの御言葉が記されています。

「また、彼ら(すなわち、当時の弟子達)のためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々の為にも、お願いします。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにして下さい。彼らも私達の内にいるようにして下さい。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになった事を、信じるようになります。」    

 

【教会の一致】

エフェソの信徒への手紙にも使徒パウロが教会の一致の重要性を強調します。パウロはその書物に18回程そのテーマを取り上げました。今日与えられた御言葉に、その一致を保つ為、私達に特別な生き方を勧めます。エフェソの信徒への手紙 4書一節の後半を見ますと、こう書いてあります。

「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩む」


事です。つまり、私達の生き方は主イエス・キリストの弟子にふさわしくなるべきです。何故なら、私達の生き方と振る舞いを通して周りの皆にイエス・キリストの証を立てるからです。

回りの者の不信仰はおもに何の為でしょうか。それは世俗主義ですか。唯物主義ですか。進化論の影響の為ですか。そうではないと思います。恐らく、キリスト者の証と生き方が躓きになる為、不信仰がまだ残っているでしょう。愛を説くのに、愛が足りません。また、キリストによって一つになったのに、私達はその一致を保ちません。インドの独立運動指導者であるガンジーはこのように言いました。「私はキリスト者になりたいですが、先ず、キリストの教えに心から従って生きる人に会いたいのです。」又、英国人の哲学者で無神論主義者ラッセルがこの発言をしました。「もしキリスト者が信じた事を本当に実行したら、彼らはこの世をすっかり変えるでしょう。」

【神の招きにふさわしく歩む】
実は、今日の御言葉には丁度ラッセルが言った事が勧められています。

「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩」


みなさい、と書いてあるのです。そして、2節と3節にその生き方が記されています。

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」


この神の招きにふさわしい生き方を調べてみましょう。

【一切高ぶることなく】
先ず、私達は

「一切高ぶることなく」


生きるようにと進められています。つまり、謙遜の態度を持って生きるべきです。ギリシア語の原文を見ると、ここでの

「一切高ぶることなく」


と日本語に翻訳された単語は、文字通りに「低くされている」となります。自分が相手より低い者だと思う訳です。

 

フィリピの信徒への手紙2章3節に使徒パウロは謙遜の事を詳しく説明しました。それは、

「相手を自分よりも優れた者と考える」


事です。そして、パウロによりますと、私達の謙遜の模範こそはイエス・キリストです。

 

フィリピの信徒への手紙2章6−8節

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者である事に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」


と記されています。

【主イエスの完璧な謙遜】
主イエスは私達に謙遜の完璧な模範を示して下さいました。完全な栄光に包まれた神の御子は私達罪人の為にその全てを捨てて、力も何も持っていない人間の赤ちゃんとしてこの世に入りました。そして、人間に救いを齎す為、主は御自分の命も犠牲にし、十字架の最も恥ずかしく酷い刑を受けたのです。主は御自分の命よりも、私達の命を大事にした事によって謙遜を教えられました。私達は毎日の生活にその同じ態度を持つなら、神の招きにふさわしく歩めます。

【ある優秀な神学生】
ある若い神学生がスコットランドの一番大きい教会で説教奉仕の依頼を受けました。その神学生の学業は優れて、成績が一番でした。しかも、説教免許を満点で取りましたので、その教会は是非彼の説教を聞きたかったのです。ですから神学生は大きな自信とプライドを持って、自分の腕を皆に見せる気持ちで素晴らしい説教を述べようとしました。大きい教会ですので、階段を上って講壇に立ちましたが、自分の前に何百人の信者が期待を持って説教を待ちました。町の偉い人と神学校の先生も彼を見て待ちました。しかし、自身に溢れていた神学生は高い講壇に立った瞬間、口をいくら開けても言葉が出ませんでした。そして、恐れと恥で、泣きながら講壇から降りて、教会を走り逃げました。ある信者が神学生を慰める為、一緒に教会を出てこのようなアドバイスを提供しました。「もし今日、講壇を降りたように上っていたら、上った時のように降りる事が出来たはずです。」

私達は一切高ぶる事なく生きると、神の招きにふさわしく歩めます。そして、同じ目的で、使徒パウロは

「柔和で、寛容の心を持ちなさい」


と勧めております。ここでの

「柔和」


はただ優しい心を示す事ではありません。

【柔和】
確かにそれは大事ですが、元々の意味は自分を保つ力をコントロールする事です。あるいは、自制です。この対比は足りないかも知れませんが、成熟した犬と小犬が一緒にいる時の姿を見た事がありますか。小犬が大きい犬に吠え、うるさがらせて、足を噛んでも、先輩はどうしますか。先輩は容易に小犬を止めさせる力、いや、殺す力があるのに、その出しゃばりを柔和に受け止めて、心地良く自制を持ちます。犬は私達に模範を示す事が出来ると思わなかったかも知れませんが、考えさせられますね。ここでの御言葉の柔和はその感じです。

【寛容の心】
しかし、神の招きにふさわしく歩むのに、柔和と謙遜だけでなく、また、

「寛容の心を持ちなさい」


と教えられています。ここでの寛容はただ仕方なく我慢する意味ではありません。相手からの侮辱と迷惑と被害を受けても、それを恨みと苦情なしで耐えると言う事です。怒らせても、怒りません。又、苦手な相手や何も分からない人を積極的に忍耐を持って扱う事です。しかし、それは可能でしょうか。怒らせる人と苦手の人と何も分からない人が大勢いるのです。寛容と忍耐を持つとは難しいですね。

【父なる神の寛容と忍耐】
考えて見て下さい。実際に私達一人一人は愛する天の父なる神からその寛容と忍耐を受けています。神が私達に対する大きな忍耐がなければ、ずっと昔に罪深い人類を滅ぼしたはずです。主は私達を罪のない状態で創造されたのに、全人類が神の正しい道を拒否し、自己中心的になってしまいました。その故に私達は失敗した実験のように捨てられたはずです。しかし、神は素晴らしい忍耐を持って、全人類に救いの道まで開いて下さいました。今も代価無しで提供しています。

使徒パウロはテモテへの手紙一1章15−16節に自分についてこのように述べます。

「『キリスト•イエスは、罪人を救う為に世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト•イエスが先ずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となる為でした。」

 
神は私達に対して大きな、大きな忍耐を持っていますので、斯く言う私達はほんの少しでも隣にいる人にその同じような忍耐を示した経験がありますか。ちょっと気に入らないとすぐに行動に出ます。自分と同じ考えでないからと言ってすぐ相手を判断してしまいます。

愛する兄弟姉妹、

「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛を持って互いに忍耐し、平和のきずなでむすばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」


どうか、その素晴らしい主の招きにふさわしく答えられるように、神の恵みが一人一人の上に豊かにありますように祈りましょう。  (おわり)

2007年11月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , テモテへの手紙一 , 新約聖書

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