私達の頭を高く上げて下さる方 ウイリアム・モーア宣教師

聖書 詩編3篇1−9
 
【様々な生涯の出来事】
私は自分の50数年の生涯にわたって、少なくとも一つの事が確実に分かって来ました。それはこの世での歩みには様々な事があります。私達には想像以外の事も起きると言う事です。単純に言えば、喜びの日があれば、悲しみの日もあります。全てが旨くいく時期がありますけれども、全てが失敗になるような時もきっと来ます。だからこそ、けっして私達は天狗になれません。今うまく行くからって自分を自慢する事は出来ないのです。又、今いくら元気だからっていつまでも続く保証はありません。いつかは病気が歓迎されない客のように生涯に立ち入ってしまう時もあります。更に、ある日は心配事がちっともない気持ちで溢れますが、時間があんまり経たない内に思い煩う事で不安を強く感じます。恐らく、私達皆は、落胆してお先真っ暗だと思い込んでしまう経験があるんじゃないでしょうか。
 
【逃れの砦:神の御言葉】
そんな時どうしますか。その時こそ私達キリスト者は襲われた人のように神の御言葉へ逃げ込みます。そして、御言葉に於ける神の変わらぬ約束と愛と慰めと救いを受けると、不思議に、新たな力と希望が与えられ、勇気を持って、どんな事でも積極的に迎えられ、勝利を期待する事が出来ます。
 
【ダビデ王と詩編】
永年に渡って、落胆と危機の時、キリスト者は特に詩編を通して神の助けと慰めと希望を得る事が出来ました。神の霊に導かれ、詩編を書いた人物・ダビデ王は生涯に色々な事を経験しました。イスラエルの力強い国王として宮殿の栄えを味わいましたが不幸のどん底に沈む時もかなりありました。しかし、ダビデ王はどんな時でも唯一の全能の神との関係と恵みを大事にして、主を常に賛美し、主から力と希望を得る事が出来ました。トラブルと悲しみと危機の中にいても、ダビデ王は主なる神を

「頭を高くあげて下さる方」


として経験されました。

【ダビデ王のどん底】
今日与えられた詩編第三篇はどん底の時に書いたダビデ王の作品です。一節を見ますとこの言葉が記されています。

「ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。」


記された通りにダビデ王は自分の命を取ろうとした息子から必死に逃げ出す必要があったのです。その背景はちょっと複雑ですけれども、今日の御言葉の恵みを経験出来るように、その事件の背後にあるものを思い出しましょう。
 
【ダビデの犯した罪とその報い】
実は、ダビデの家庭の問題は彼が弱い時に始まりました。ダビデはイスラエルの軍の幹部であるウリヤの妻バド•シェバを無理に自分の妻として取ってしまいました。そして、その罪を揉み消す為、もっと酷い罪を犯してしまいました。ダビデ王はわざわざバド•シェバの夫ウリヤを戦場の最も危険な所へ行かせて、結局彼を死なせました。その事件のずっと後の事ですが、アムノンと言うダビデの息子が自分の異母姉妹タマルに惚れて彼女に対して暴行を起こしてしまいました。それからタマルの同母の兄弟アブサロムがその暴行を聞いて、アムノンに復讐する機会を狙(ねら)って、彼を殺しました。
 
【アブサロムの謀反】
しかし、ダビデ王はアブサロムの罪をちゃんと扱いませんでした。息子を罰する為にただ彼を都エルサレムから追放しました。その軽い罰の理由は、ダビデ王も同じ殺人罪を犯した事があったからです。結局、その為、ダビデが道徳的権威を失ってしまいました。とにかく、訓練の欠如したアブサロムはやがて親の赦しを得て、エルサレムへ戻りました。しかし、感謝を現すより、彼は親のダビデに対して謀反を企て始めました。自分が親より道徳的に優れた者、又、もっと良いリーダーだと思ったのです。となりの人を自分より優れた者だと思わない事から始まりました。アブサロムは味方と共に自分の実の父であるダビデ王を暗殺して、権力を握るつもりでした。ダビデにはその事が全く思い掛けなかったので、自分の命を救う為、泣きながら裸足の姿で宮殿から急いで逃げ出してしまったと聖書に記されています。
 
その危機と恥と落胆の時、ダビデは自分の不幸な気持ちを神に叫びました。今日の御言葉の2節を見て下さい。

「主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい、多くの者がわたしに言います、「彼に神の救いなどあるものか」と。」


【ダビデの悲惨】
息子アブサロムはダビデを裏切って、ダビデに代わって王になる為、彼を殺すつもりでした。更に、多くのエルサレムの市民もアブサロムに味方して、ダビデ王を倒す方が良いと思いました。また、元の国王サウルの家族の者(シムイ)がダビデをこのように責めました。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家の全ての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」(サムエル記下16:7−8)
 
【ダビデの苦悩】
ダビデがその惨めな状態で息子のアブサロムと彼の連中から逃れた時、私達はその気持ちが少しでも分かると思います。実の息子と家族の者と都の市民どころか、ダビデは神からさえも見捨てられたと恐れました。おそらく、自分の罪の故に神がアブサロムを通して自分を罰していたと思いました。ダビデはバド•シェバの事件とサウロ家の扱いを思い出して、もしかしたらその為に今回のトラブルになったと思ったかも知れません。ダベデは非難する者の意見を神に表現して、それが正しいかどうかを主に尋ねたのです。
 
【神に見捨てられる】
実は、神によって見捨てられた事は人間にとって最も悲惨な状態です。神の助けが全くないと思ったら、絶望の中の絶望だと思います。もしかしたら私達もその気持ちを実感じた事があるかも知れません。苦しめる問題はどこまで増えるのでしょうかと思い、神の助けなどは全く無いと失望に落ちてしまいます。
 
【神に打ち明ける】
ダビデ王は同じ気持ちでした。しかし、彼は自分の心を正直に神に打ち明けました。自分の失望、自分の落胆と恐れを全部表現したのです。そして神は不思議に答えて下さったのです。私達はどうしてその事が分かりますか。ダビデの態度がすっかり変わったからです。不幸のどん底から、信仰の平安と喜びと希望へ移りました。4節からお読み致します。

「主よ、それでもあなたはわたしの盾(たて)、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」

 
【罪の悔い改め】
ダビデ王は自分の罪と過ちを認めて、その罪を心から悔い改めたのです。ですから、神の赦しを受けたのです。その故に、今回のトラブルは決して神の罰ではないと悟りました。主は彼を見捨てなかったのです。逆に、彼の愛する味方でした。
 
 
【神の赦し】
実は、ダベデ王はこの詩編の始めの所には自分の問題と恐ればかりに集中しました。そうすると、もちろん落ち込んでしまったのです。しかし、彼は自分の問題の変わりに神の赦しと力、また神の愛と憐れみに集中しますと、全てが変わりました。彼は実際に神によって見捨てられたのでなく、逆に、主が盾のように自分を敵から守って下さったと実感しました。神を

「私の頭を高くあげて下さる方」


として経験しました。つまり、主は勇気と力と前向きの気持ちでダベデを生き返らせて下さいました。人は問題に向かうとすぐ何も見えません。全てがその問題、その事しか耐えられません。しかし、ダビデは自分のトラブル、その問題よりも、神の恵みに集中しますと、ダベデの態度が180度
変わりました。喜びを持って、

「主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えて下さいます」


と主に賛美しました。
 
【神の力と愛に立ち返る】
私達はダビデ王の経験から学ぶ事があります。私達も苦難と心配に襲われた時、自分の惨めさよりも、神の変わらぬ力と愛に集中すべきです。そうすると私達も神の慰めて下さる声を聞く事が出来て、態度もすっかり変わります。そして、それだけではなく、神は御自分の平安を私達に与えて下さいます。
 
6節と7節を見てください。

「身を横たえて眠り、私はまた、目覚めます。主が支えていて下さいます。いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。」


真夜中にも敵がダビデ王を探して殺そうとしたのですが、しかし、そうゆう時でも神を信じたダビデは眠る事が出来ました。誰でも経験した事があると思いますが、大きな心配や問題があると、私達はま夜中に目が覚めるおぼえがあります。眠る事がなかなか難しいです。恐れと落胆でいっぱいで、安らかに休めません。しかし、神の恵みに集中し、心配を主に委ねて、ダビデのように平安のうちに眠る事が出来ます。
 
【ダビデ王の信仰】
ダビデは神に信じ頼りましたので、嵐のような状態の中にいてもぐっすり眠りました。そして、朝目覚めると、喜びで溢れました。やはり、長い夜の間、神が彼を守って下さいました。多くの敵が彼を探しましたが、神がダビデを保護して下さいました。主が共にいて下さると新たに分かったダビデ王の信仰が蘇えり、勇気を持って、何でも耐えられ、何でも戦えられる確信でいっぱいでした。やはり、神が自分の味方であるなら、何も恐れる必要が無いと徹底的に信じたのです。神は私と共に歩きこの難しい時期を通りすぎて下さると信じました。
 
【神は私達の頭を高くあげて下さる】
ダビデ王の信仰が生き返らると、どうしましたか。8節を見ると分かります。彼は大きな期待を持ってこのように祈りました。

「主よ、立ち上がってください。私の神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください。救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように」


と祈りました。
 
ダビデ王は信仰を持って神の救いを心から求めました。そして、神は彼の祈りを叶えて、敵から救って下さったのです。更に、王位も復帰して下さいました。
 
ですから、私達もダビデのように困難な時、勇気と期待を持って全能の愛である神に集中して祈るべきです。何故なら、

「救いは主のもとにあります」


からです。そうすると神は私達の頭を高くあげて、私達の為にも勝利と喜びを齎して下さいます。(おわり)

2007年11月11日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

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