自分の救いを達成するように努めなさい ウイリアム・モーア宣教師
フィリピの信徒への手紙2章12−18
【牢獄のパウロ】
使徒パウロは先程読ませて頂いた御言葉を牢から書きました。彼は信仰の故にローマ帝国の当局によって逮捕され、裁判を受ける間、閉じ込められました。私達はその告発が詳しく分かりませんが、イエス・キリストの信仰を大胆に人々に伝えたので、牢に入れられ、これから死刑される可能性が十分ありました。
牢に入れられた使徒パウロはその大変不安な時を、どのように日々を過ごしたでしょうか。彼が自分の不安と困苦と法的問題で落ち込んでいたら私達はその気持ちが十分分かります。また、信仰の為にそうなったので使徒パウロが神に失望していたら、それも私達は十分理解出来ると思います。「神様、どうして私はこんなに酷い目にあったのですか。長い間主イエス・キリストの福音を忠実に述べ伝えたのに、どうして私を守りませんでしたか。」もしパウロは気が滅入って来て、そのように呟いても、誰も彼を責めるものはなかったでしょう。しかし、パウロは監獄の大変な生活の中で大きいな喜びを持って、続けて積極的にイエス・キリストの僕として一所懸命に励みました。自分の投獄についてこのように書きました。「兄弟たち、私の身に起こった事が、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。つまり、私が監禁されているのはキリストの為であると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕われているのを見て確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピの信徒への手紙1:12−14)
2007年11月25日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書
神の招きにふさわしく歩もう ウイリアム・モーア宣教師
エフェソの信徒への手紙4章1−6
【聖墳墓教会の争い】
大昔の言い伝えによりますと、エルサレムにある聖墳墓教会はイエス・キリストが復活させられるまで横たわっていたお墓の上に建てられています。しかし、残念ながら何百年前から現在いたるまで色んなキリスト教宗派がその聖地の管理を主張して来ました。その問題はあんまり深刻になりましたので、1752年に、当時パレスチナを治めたオスマン帝国の君主が聖墳墓教会を六つの部分に分けて、その部分それぞれを六つの宗派に与えました。教会の屋上はエチオピア正教会の物になりましたが、1800年代の流行病のため、エジプト•コプト教会が屋上の管理を取りました。しかしながら、1970年頃、エジプト•コプト教会の修道士が屋上からちょっと留守の間、 エチオピア正教会が百年ぶりにもう一度屋上を占領しました。もちろん、コプト教会はその行為を争って、自分の修道士を屋上へ行かせ、その時から両方の宗派の代表が屋上に暮らしていました。しかし、そのライバルの二人はあんまり良い関係を持ってなかった為、2002年の夏に殴り合いなりました。両方の仲間がその騒ぎを聞くと、屋上へ飛んで来て、大変な喧嘩が起こりました。修道士11人が怪我になり、一人が無意識状態で病院へ運ばれました。主イエス・キリストのお墓と復活の聖地なのに、そう言う事件が実際に起こってしまいました。
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2007年11月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , テモテへの手紙一 , 新約聖書
私達の頭を高く上げて下さる方 ウイリアム・モーア宣教師
聖書 詩編3篇1−9
【様々な生涯の出来事】
私は自分の50数年の生涯にわたって、少なくとも一つの事が確実に分かって来ました。それはこの世での歩みには様々な事があります。私達には想像以外の事も起きると言う事です。単純に言えば、喜びの日があれば、悲しみの日もあります。全てが旨くいく時期がありますけれども、全てが失敗になるような時もきっと来ます。だからこそ、けっして私達は天狗になれません。今うまく行くからって自分を自慢する事は出来ないのです。又、今いくら元気だからっていつまでも続く保証はありません。いつかは病気が歓迎されない客のように生涯に立ち入ってしまう時もあります。更に、ある日は心配事がちっともない気持ちで溢れますが、時間があんまり経たない内に思い煩う事で不安を強く感じます。恐らく、私達皆は、落胆してお先真っ暗だと思い込んでしまう経験があるんじゃないでしょうか。
【逃れの砦:神の御言葉】
そんな時どうしますか。その時こそ私達キリスト者は襲われた人のように神の御言葉へ逃げ込みます。そして、御言葉に於ける神の変わらぬ約束と愛と慰めと救いを受けると、不思議に、新たな力と希望が与えられ、勇気を持って、どんな事でも積極的に迎えられ、勝利を期待する事が出来ます。
【ダビデ王と詩編】
永年に渡って、落胆と危機の時、キリスト者は特に詩編を通して神の助けと慰めと希望を得る事が出来ました。神の霊に導かれ、詩編を書いた人物・ダビデ王は生涯に色々な事を経験しました。イスラエルの力強い国王として宮殿の栄えを味わいましたが不幸のどん底に沈む時もかなりありました。しかし、ダビデ王はどんな時でも唯一の全能の神との関係と恵みを大事にして、主を常に賛美し、主から力と希望を得る事が出来ました。トラブルと悲しみと危機の中にいても、ダビデ王は主なる神を
「頭を高くあげて下さる方」
として経験されました。
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神によって選ばれた民 ウイリアム・モーア宣教師
申命記7:6−8
ローマ人への手紙8:28−39
【予定論の誤解】
改革主義教会の教理の中で多分一番有名な教えは予定論だと思います。信者の聖化や神の主権や御言葉を解き明かす事のような他の改革神学の特徴よりも、予定論は良く知られているでしょう。アメリカでも我々長老教会と予定論はいつも人から関連ずけられます。人々は長老教会員と話すと、「じゃ、あなたは運命予定説を信じますね」と言われる事がよくあります。改革主義と予定論とは相伴って行くべきものですけれども、予定論はよく誤解されている教理だと思います。
予定論はいったい何でしょうか。具体的に信者にとってどんな意味を持っているのでしょうか。今、その事について一緒に考えさせて頂きたいと思います。
先ず覚えて頂きたい事は、改革主義キリスト者は予定論を信じません。それはつまり、私達の信仰の対象はその教理ではありません。予定論を信じるよりは寧ろ私達は唯一の全能の愛である神のみを信じ、頼ります。
【予定論は神の愛を表現する】
と言うのは、予定論と呼ばれる教理はキリスト者の歩みの中で経験された、神の愛を表現するものなのです。だからこそ、予定論は信じる事よりも、私達の神様の経験を一番良く説明する表現であるし、御言葉の証言も正しく表すものなのです。
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2007年11月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 申命記 , 詩篇