イエス・キリストを動かした女の信仰 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書15章21−28
 
【カナンの女】
今日与えられた御言葉は非常に感動的なお話になります。と言うのは、その語られた事件を通して私達はあるお母さんの素晴らしい愛をはっきりと見る事が出来ます。そのお母さんは自分の病気の娘の回復の為に最善を尽くして、その癒しを頂くまで諦めませんでした。
 
今日の個所の21節と22節を見て下さい。マタイによる福音書15章21節の所を開いて下さい。


「イエスはそこをたち、テイルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」


と記されています。
 
【娘の病気と悪霊】
その娘の病はどう言うものかは分かりません。主イエスの時代、分からない病気、特に変わった、気味が悪い症状と行動を示した病気は「悪霊の為」と思われました。恐らく娘は激しい癲癇を起したり、あるいは、精神病の故、不合理な振舞いを現しました。とにかく、お母さんはひどく苦しめられた娘の事を大変心配して、助ける為、あらゆる手段を尽くしました。恐らく廻りの者と相談して色んなアドバイスを聞きました。そして、多分娘を悪魔払いの祈祷師へ連れて癒しを求めました。また、願いを叶えようと様々な神々に生贄を捧げました。さらに、聖地を巡礼して娘の為に必死に祈りました。しかし、どんなに励んでも最愛の娘は良くなりませんでした。却って、その症状が悪くなってしまいました。しかし、お母さんはこうなるのも運命と諦めませんでした。

【ユダヤ人の先生イエス】
ですから、イエスと言う先生の事を聞くと、彼女は新たな希望を得てどうしても娘の為、イエスの助けを求めに行きました。イエスと言うユダヤ人の先生はパレスチナを巡回して、悔い改めと神の赦しと愛を説きました。更に、イエスは力強くて病人を癒し、目の見えない人の視力を回復させ、そして、悪霊を人から追い払いましたので、広く有名になりました。ですから、お母さんは他の手段が失敗しても、恐らくこのイエスこそは娘を助ける事が出来ると言う希望が湧き出て来ました。
 
【カナン人=異邦人】
しかし、一つの問題があったのです。イエスと言う先生はユダヤ人であって、彼女はカナン人でした。その故、宗教と民族の高い壁がありました。カナン人はパレスチナに住む原住民でした。神はイスラエルをエジプトの奴隷の家からパレスチナまで導かれたが、カナン人はもうすでにその地を領有していました。しかし、イスラエルは原住民カナン人と戦って、やがて彼等を服従させたのです。又、カナン人の宗教はおもに偶像礼拝でした。更に、彼等は自分の子どもを生け贄としてその神々に捧げました。そう言う事はユダヤ人に絶対に禁じられていましたので、その二つの民族は関わりがなかったのです。実は、ユダヤ人はカナン人を征服された堕落した民として見くびって、別々に住み、出来るだけ彼等との交際を避けました。そして、そういう待遇を受けたカナン人もユダヤ人に対して偏見を持っていて、関係はまずかったのです。
 
ですから、そのお母さんがユダヤ人の先生イエスに行くのは簡単ではありませんでした。カナン人として、高ぶったユダヤ人の助けを求めるには、あんまり強い立場ではなかったのです。更に、自分の民族の宗教と神々をおいて、ユダヤ人の先生と神を求めると、彼女はカナン人の目から見ると裏切り者になってしまいました。嫌われたユダヤ民族の先生へ行って、彼を「主よ」、「ダビデの子」と呼ん
で、又イスラエルの神の助けを求めるのは、あんまり良くないと廻りの皆が思ったのです。
 
【執拗な母の願い】
それにも関わらず、お母さんは勇気を出してイエスを捜しに行きました。そして、やっと先生と対面した時、思わず彼女は必死に自分の願いを表現しました。彼女は急に言い出しました。

『「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しまれています」と叫んだ。』


お母さんは静かに先ず主の弟子のもとへ行って、問題を説明したのではなく、直接にイエスの元へ走って、自分の願いを叫びました。
 
イエスは彼女にどう言うふうに返事しましたか。実は、返事が帰ってこなかったのです。御言葉によりますと、

「イエスは何もお答えにならなかった。」


つまり、イエスはお母さんの願いを無視したのです。しかし、彼女は失望しませんでした。却って自分の願いを続けて叫んで、帰りませんでした。そして、そのしつこい叫びは迷惑な程になりましたので、弟子達は彼女を帰らせようとしましたが、女の人は聞きませんでした。お母さんはよりもっと大きい声を出して、

「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しまれています」


とうるさく叫び続けました。
 
そこで、弟子達も主イエスの助けを求めました。

「この女を追い払って下さい。叫びながらついて来ますので」


と主に願いました。実際、彼等はそのお母さんを扱う事が出来なかったので、主イエスの助けを願いました。「彼女は私達の事を聞かなくても、多分主からの注意は聞いて、帰るでしょう」と弟子達が思ったのです。やはり彼等は異邦人の女とその娘の事をあんまり気遣わず、ただ騒ぎを起すうるさい彼女を黙らせたかったのです。
 
【私はイスラエルの家の失われた羊にしか遣わされていない】
そして、主イエスはどのように答えられましたか。24節を見ますと、主は、

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」


と答えました。つまり、「あなたは私と何の関係があるか」とイエスは彼女に聞きました。普通の人はそう言う消極的な答えを聞いたら、諦めるでしょう。結局主イエスは彼女に、「私は異邦人であるあなたの為に来たのではありません」とはっきりと言ったのです。しかし、直接にそのように断られた彼女はどうしましたか。彼女は諦めて失望しませんでした。泣きながら帰りませんでした。怒りませんでした。
 
【子供達のパンを小犬にやれない】
却って、そのお母さんは、

「イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助け下さい』」


と更に願いました。彼女はイエスを自分の主として認めました。「実は、私とあなたは関係があります。あなたは私の主です。そして、私は何よりもあなたの助けが必要であります。だから、助けて下さい」と結局言ったのです。彼女は自分の民族の神々の代わりに主イエスを拝みました。又、イエスの奇跡的力を徹底的に信じたのです。もし信じなかったら、そこまでしつこく願わなかったと思います。しかし、主イエスが今度はどう答えられましたか。

「イエスが、『子供達のパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになりました」

と26節に記されています。
 
【小犬も主人の食卓から落ちるパン屑は貰える】
彼女はもう一度断られました。結局、「私の助けはあなたに勿体ない」と言われたのです。誰でもその厳しい言葉を聞いたら諦めるはずです。公に自分が犬と比較されたら、当然助けを受ける全ての希望を失い、怒りと悲しみを覚えながら帰ってしまうしかありません。しかしながら、そのお母さんはプライドを抑(おさ)えて、積極的に主イエスに返事しました。主よ、ごもっともです。

「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑は頂くのです」


と言いました。
 
彼女は自分が神の特別に選ばれた民、イスラエルの子孫ではないとよく分かりました。しかしながら、自分が決して何も関係のない野良犬でもないと主張したのです。自分が犬だったら、主イエスの家に住む主の愛犬だと言ったのです。主イエスを愛し、主イエスに頼り、主イエスが自分の娘を救う力があると徹底的に信じたのです。
 
【婦人よ、あなたの信仰は立派だ】
イエスはその異邦人の素晴らしい信仰を見て感動され、このように言われました。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」


と皆の前でおっしゃって下さいました。そして、

「その時、娘の病気は癒された」と聖書に記されています。  


【女の信仰を明らかにするため】
間違いなく、イエス・キリストは始めからカナンの女の人の信仰が分かったと信じております。そして、その信仰を自分の弟子達始め、私達にも見せたかったのです。実はその信仰を引き出すため始めに主は彼女に冷たく返事したのです。
 
今日の御言葉は娘の為、母親の愛のストーリですけれども、それよりも信仰のストーリになります。つまり、彼女の立派な信仰は私達に模範を示します。つまり、主イエスによりますと、私達の信仰は彼女の信仰のようにならなければなりません。彼女は願いがあって、その願いが叶えられるまで、続けて願いました。答えが来なかっても、断られても、侮辱されても、そのお母さんは絶望しませんでした。信仰を捨てませんでした。
 
どんな事があっても主イエスの愛と力を信じ、頼りました。そのような信仰が「立派」であると主イエスは宣言されました。そのような信仰が主を動かして、その母親の願いが叶えられました。ひどく苦しめられていた最愛の娘が主によって癒されました。
 
マタイによる福音書にそのイエス・キリストの御言葉が記されています。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。」


(マタイ7章7節)
 
私達の生涯において信仰を持って歩む時、間違いなく、色々な問題に直面する時があります。全ての事が思い通りにならないし、病気や失敗や逆境や人間関係の問題などが襲って来ます。しかし、色々な事が皆にあるけれども、私達がどう受け取るかは私達によるのです。特に、そう言う時こそ、私達はカナンの女の人のような信仰を持たなければなりません。諦めないで、希望と信仰を持って愛する天のお父様に続けて願って見て下さい。カナンの女の人のように積極的に又、絶対的に信じ頼る事です。そのような信仰は立派であると主が言われました。そのような信仰を現すなら、神はきっと私達の願いを聞いて下さいます。
(おわり)

2007年09月30日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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