真の自由 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書8章31−38
 
 
【ウオレス将軍】
「パッション」と言う映画で有名になったメル•ギブソン監督は1995年に「ブレイブハート」と言う他の映画でスコットランド人のウオレス将軍の役を務めました。その映画はウオレス将軍が無残なイギリスから自分の国スコットランドの自由を回復しようとするストーリです。ウオレス将軍は立派にイギリス軍と戦って多くの勝利を得ましたが、最後に彼は友人によって裏切られ、イギリスの王に渡されてしまいました。そして、イギリスの王はウオレス将軍を処刑するつもりでした。しかし、処刑する前にイギリスの王はウオレス将軍に恥をかかせる為、慈悲を乞わせようとしました。ウオレス将軍はあざける群衆の前に連れ出され、唾を吐かれたり、物を投げられたりしました。それから、死刑執行人は拷問をかけ始め、ウオレス将軍に言いました。「もし、慈悲を乞うなら、死刑を速く進めよう、しなかったら、もっと酷い拷問をかける」と脅しました。また、ウオレス将軍の声が聞こえるように、執行人は群衆を黙らせました。しかし、将軍は恥をかきませんでした。むしろ、残った力を全部奮(ふる)い起こして、大きい声で「自由」と叫びました。
 
【自由】
「自由。」その言葉は力強いです。自由の為に多くの人々は自分の命を犠牲にしました。又、自由の為に敵を殺す事も少なくありませんでした。歴史が始まった以来、自由の為に数え切れない程の戦争が起りました。又、現在も自由はいたるところで重んじられています。自分の自由を束縛されたいと思う人は珍しい事でしょう。

【アメリカ独立戦争】
アメリカの独立戦争は何よりも自由の為の戦争でした。植民地住民は遠いロンドンにいるイギリスの王の支配を嫌がって、特にその税金を憎みました。自分の法律を定めたり、選挙で自分の代表を決めたり、税金を本国の為ではなく、自分の所で使いたかったのです。アメリカの代表的革命家パトリック•ヘンリーは自由についてこのように宣言しました。「鎖と隷属の対価で贖われるほど、命は尊く、平和は甘美なものだろうか。全能の神にかけて、断じてそうではない。私は、これ以外に私の進むべき道を知らない。私について言えば、私に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ。」その革命家にとって自由は命さえよりも貴重なものでした。ですから、財産と名誉と命を懸けて、自由の為に英国と戦い、長引く独立戦争はやっと勝利に帰しました。
 
我々アメリカ人はその歴史を重んじて、先祖の犠牲によって得た自由を大事にします。どこの国民でも同じだと思います。国の為に、特に国の自由と独立の為に犠牲した者に感謝すべき恩義を感じるはずです。このお盆の時ですが、日本の国民も国の為に犠牲になった者を新たに覚え感謝を現しました。
 
【誤解された自由】
しかしながら、自由というものを誤解する人が多いようです。その人々の行動を見ると、自由は犠牲と献身とあんまり関係がないようです。誤解する人々によると、自由は犠牲の反対になるようです。結局、その考えによりますと、自由は、何でも好きな通りする事です。制止されず、やりたい事をいつでも障害されなく出来る事が自由と言うようです。  
 
先週、先輩の宣教師に会う為、車で長野県へ行って来ました。ずっと高速道路を利用して行きましたが、車の運転を通して自分の自由を現した人が結構いました。例えば、追い越そうとする為、先行する車にぴったりついて高速で走っていました。また、速度を無視して、車の間を右へ左へと縫うように走行する車も見ました。そのような運転をする人は多分何かの自由を感じたかも知れませんが、言うまでもないが、自分と他の人の命を非常な危険に陥れています。悲劇を招く行動は本当の自由ではありません。逆に、それは自分を奴隷にしてしまいます。
 
【自由と言うより虜になって】
又、ある人は自由を現す為、薬を使用したり、姦淫したり、人を害したり、ルールと法律を破ったり、色んな無責任な行動に参加しています。しかしながら、一瞬の自由と愉快の為、一生のトラブルを招いてしまいます。自由を得ようとしても、実際に虜(とりこ)になってしまう人が多いです。
 
【放蕩息子の譬え】
皆さんも主イエスの放蕩息子の譬え話を覚えていると思います。その若い息子は父親に、家の財産を分けるようにと要求しました。そして、彼は自分の分け前を取って、遠い国へ行ってしまいました。息子は自由になりたかったのです。親の言う事をもう聞きたくありませんでした。好きな通りに生きたかったのです。そして、外国で放蕩の限りを尽くしました。少しの間、楽しそうな生活でしたが、父から頂いたお金が乏しくなると大変困って来ました。新しい友人が去ってしまい、食べ物にも困りました。ですから彼は、地元の百性に身を寄せて、豚の世話をするようになりました。お腹が空いて、その豚の餌を食べようとしましたが、彼には勿体ないと思った百姓は何もくれなかった。その息子は何よりも自由を求めましたけれども奴隷になりました。いや、奴隷より、もっと惨めな身分でした。
 
【イエス・キリストは全人類を自由にする】
イエス・キリストも自由を重んじています。しかし、御自分が提供して下さる自由は、悲劇と失望に終りません。逆に、主イエスの真の自由は私達を奴隷にする全てのものから解放して下さいます。
 
イエス・キリストは御自分の地上のお働きを始めた時から全人類の自由を強調しました。主はバプテスマのヨハネに洗礼を受けてから、出身の町ナザレへ帰りました。そして、聖日になるとイエスは町のシナゴーグ、すなわちユダヤ教会堂へ行って、聖書を朗読するようにと頼まれました。主は立ち上がって、イザヤ書からこの個所をお読みになりました。

「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせる為に、主が私に油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる為である。」


(ルカ4:18)。
 
聖書によりますと、

「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいる全ての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」


と記されています。
 
【自由、解放、回復のメッセージ】
主イエス・キリストの福音は何よりも自由の福音であります。貧しい者の為の良いお知らせです。 捕われている人に解放のメセージです。目の見えない者の為に回復の福音です。そして、圧迫されている人には自由のメセージになります。主イエスの当時の人々と現在に住む私達にも真の自由のメセージは絶対に必要であります。なぜなら、多くの人々はまだ奴隷のように住み、本当の自由が分かりません。
 
今日与えられた御言葉にこの素晴らしい主イエスのお話が記されています。ヨハネによる福音書8章36の所を見て下さい。

「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」


と主が宣言されました。もちろんここでの「子」は主イエス御自身、子なる神の事です。 ですから、この個所は「もし私があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言う意味なのです。イエス・キリストこそが私達を解放して下さり、本当に自由にしてくださいます。
 
【罪の力からの解放】
さて、主イエスは私達にどのような自由を授けて下さるのでしょうか。
 
第一にイエス・キリストは罪の力から私達を自由にして下さいます。主イエスは当時のユダヤ人に御自分が「自由」を提供した時、彼等はイエスの言う意味を誤解して躓きました。今日の朗読の33節を見ますと、ユダヤ人は主にこのように返事しました。

「私達はアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になった事はありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」


と言いました。実は、その返事はちょっと不思議です。自分の民族の長い歴史を振り返って見るとアブラハムの子孫は何回も奴隷になった事がありました。以前はエジプトとバビロンとペルシアとシリアのそれぞれの支配で酷い目にあいました。そして、当時、イエスの時代、イスラエルはローマ帝国の植民地しとして苦しめられました。
 
しかし、彼等はプライドが高くて、その事実を見逃し、

「 今まで誰かの奴隷になった事はありません」


と主張したのです。しかし、主イエスは政治的の自由を考えなかったのです。

「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」


とおっしゃいました。
 
つまり、罪は人間をコントロールする力があります。例えば、欲望と怒りと我が侭などは私達の考えと行動に強く影響すると、私達はその罪の奴隷になってしまいます。しかし、イエス・キリストを信じ従うと、罪の代わりに、主の教え、主の聖霊は私達をコントロールするようになります。罪の力が壊され、自由になります。
 
その上に、主イエスは十字架で私達一人一人が支払うべき罪の為の罰を私達に代わって、払って下さいました。ですから、神の目から見ると私達は主イエスの義になり、誰も私達を罪に定める事が出来ません。罪を犯しても、主イエスのお陰で私達は神から赦しを受けられます。
 
ですから、造り主である全能の神は私達の味方になり、永遠まで神御自身の愛に包まれています。御自分を信じる人の為に罪の力を壊して下さったので、私達は自由になりました。そして、主イエスが私達を自由にすれば、私達は本当に自由になります。
 
【恐れと心配からの解放】
第二に、イエス・キリストは私達を恐れと心配から解放して下さいます。自由にさせます。私達は愛する力強い神を「父」と呼ぶ事が出来ます。そして、その父なる神は私達の全てのニーズを御存知で、助け支えて下さいます。

「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と言って、思い悩むな。••••あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要な事を御存知である」

(マタイ6章31−32)と主イエスは教えられました。そのような神を徹底的に頼る事が出来ます。どんな事があってもその神は私達と共にいて、支えて下さいます。必要な知恵と力と助けを授けて下さいます。私達の祈りにベストに答えて下さいます。そのような神に仕えるので、心配と恐れは無駄です。イエス・キリストは心配と恐れから御自分を信じる者を自由にさせます。そして、主イエスが私達を自由にすれば、私達は本当に自由になります。
 
【主のよき業に加わる】

最後に、主イエスは目的のない、無意味な生涯から私達を自由にさせます。神は私達を創造して、そして主イエスを通して私達を罪から救って下さいました。それは理由があったのです。もちろんその主な理由はただ御自分の愛ですが、神は御自分の働きに参加する為にも私達を生かして下さいます。

「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです」


とエフェソの信徒への手紙2章10に記されています。神によって愛されているので、周りの者を愛する事が出来ます。同じように、神によって赦されているから、相手を心から赦せます。更に、神によって永遠の救いを頂いた私達はその唯一の救いを周りの者に分かち合う事が出来ます。それは私達の使命と喜びです。
 
愛する兄弟姉妹、今日の御言葉に主イエスは、

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」


と宣言されました。イエス・キリストの真理を知る私達は自由になりました。罪から自由になりました。恐れと心配から解放されました。無意味な生涯からも自由になりました。ですから、どうか私達一人一人は喜びと勇気を持って自由人のように歩みましょう。(おわり)

2007年08月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

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