霊の結ぶ実:善意 ウイリアム・モーア宣教師
マルコによる福音書10:17−22
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
【あなたは善人ですか】
皆さん、少し想像してみて下さい。もし電車を乗っている時、誰かがあなたの側に座り、突然、「あなたは善い人ですか」と尋ねられると、どう答えられますか。赤の他人にそのように聞かれると、多分びっくりするでしょう。又、恐らく、その人は正気かと疑うかも知れません。誰がそのような個人的な質問を知らない人に聞くでしょうか。しかし、もしその質問、「あなたは善い人ですか」に答えようとしたら、どう答えられますか。実は、人間誰でも自分が善い人だと思いたいのです。「私は善くない人、悪い人」と言う者はめったにありません。
アメリカの教会を牧会した間、私は長年刑務所の訪問を毎月しました。教会の会員の息子が殺人で投獄され、私は彼に会いに行きました。行く度に彼は自分の無罪を主張して、不正な判決を嘆きました。彼が犯した罪の証拠が沢山あったのに、最後まで「他人がやった」と言い張りました。結局、そのような犯罪を認めれば、自分が善い人ではない事を認める事になりますので、なかなか自白出来なかったと思います。
私達人間は「自分が善いのだ」と思いたいのです。また、回りの人々に善い人として思われたいでしょう。それは自己像の大事な一部ですから、「あなたは善い人ですか」と聞かれると、それに対して答えるとしたら、殆ど誰でも、「私は善い人だと思う」と答える事でしょう。
【聖霊の結ぶ実「善意」】
今日、聖霊なる神の結ぶ実の学びを再び始めたいと思います。今まで愛と喜びと平和と寛容と親切を学んで来ました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。つまり、キリスト者なら、神の霊は私達に宿って下さり、霊の結ぶ実、愛と喜びと平和など、そのものは自分のものになりました。しかし、その徳目を現す為、私達の内に聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。すなわち、神の助けでその賜物を生かす訳です。今朝は「善意」と言う徳目について一緒に考えたいです。神はキリスト者にその実をもう既に授けたのです。ですから、私達はその聖霊の結ぶ実「善意」を豊かに現すべきです。
エフェソの信徒への手紙2章10節にこの大事な聖句が記されています。
「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」
書かれた通りに、私達は善い業、つまり善意の業を行う為に神によって特別に造られました。迷わず言える事ですが、それは主から与えられた私達の目的と使命です。その事を通して造り主と救い主なる愛する神の栄光を現します。ですから、私達はこの徳目「善意」を特に注目すべきです。
【ある金持ちの青年】
ある日の事でが、主イエスは自分が特に善い人だと思った男に出会いました。彼は主に走り寄って、ひざまずいて尋ねました。
「善い先生、永遠の命を受けつぐには、何をすればよいでしょうか。」そうするとイエスは男に聞きました。「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういう事は皆、子供の時から守って来ました」
と答えました。つまり、永遠の命を得る為、掟を守る以上の事が必要と彼は思いました。もちろん男の人は掟を完全に守って来たはずがありませんでした。全ての人間は罪人ですからそれは不可能です。しかしながら、主イエスはその事を彼に言いませんでした。その代わりに、
主は彼を見つめ、慈しんで言われました。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富みを積む事になる。それから、私に従いなさい。』男の人はその事を聞くと気を落として、悲しみながら立ち去ってしまいました。沢山の財産を持っていたからであると聖書に記されています。
(マルコによる福音書10:17−22)
【神お一人のほか善い者はいない】
この個所を通して聖霊の結ぶ実「善意」について三つ程の真理が啓示されています。そして、その真理は私達を善意への道に案内して下さいます。第一に神のみは本質的に善いです。
「 神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」
と主イエスは男の人に言いました。小さい時からその男は、人は善い業を行う事によって、つまり、神の掟を守る事によって、主の救いを勝ち得られると教えられていました。そして、彼は一所懸命に善い業をしようとしました。しかし、いくら励んでもそれは神の救いを受けるには足りないと感じたのです。と言うのは、彼は自分の失敗が分かったと思います。だからこそわざわざ主イエスの元に来て、「善い先生、永遠の命を受けつぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。
【イエスは神であるゆえに善】
彼はイエスを「善い先生」と呼び掛けましたが、主は、
「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」
と返事しました。その返事は自分の質問に答えにならなかったので、男の人は多分驚いたと思います。「善い先生」と言う表現は尊敬を表す挨拶に過ぎなかったかも知れません。しかし、その言葉を通して、主イエスは神の完全な善意を彼に覚えさせた事だと思います。旧約聖書には神の善がはっきりと啓示されています。例えば、詩編にこの神についての御言葉があります。
「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」
(119:68)。そして、又この聖句があります。
「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。」
(歴代誌上16:34)。実に神の善と比べると、人間の善は汚れた襤褸(ぼろ)のようなものと悟らせる為、イエスは男の人にそのように返事をしました。
又、その返事で、主イエスは他の目的もありました。もしイエスがただの人間だったら、主は「善い」先生ではありません。神のみは「善い」方ですから。しかしながら、主は同時に完璧な人間であり唯一の神であるならば、もちろん「善い」と呼ばれるべきです。実は、ここで主は御自分が唯一の神である事を言わずに伝えたのです。ですから、イエスは結局男の人にこのような事を伝えたのです。「もし私を『善い』と呼ぶなら、私を全能の神と呼ぶ事と全く同じ事です。あなたはここで私の本当の身元を認めていますか」と語らずに聞かれました。第一に主イエスは神のみが善いと宣言したからです。
【全ての人は罪を犯す】
そして、第二にこの事件を通して主は人間の罪深さを明らかにしました。誰でも唯一の全能の神以外には罪人です。私達人間は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神と隣人を自分自身のように愛しませんでした。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」
(ローマ3:23)と聖書に記されています。しかし、その男の人は自分の力、自分の善意を持って永遠の命と神の救いを得ようとしました。その考え方は現在も流行っています。多くの人々は善行をつむ事によって神の好意を得られると信じます。そして、もし自分の善行は過ちと罪より多かったら大丈夫と思いたいのです。しかし、それは神の標準ではありません。主イエスはこのように言われました。
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
(マタイ5:48)確かに、男の人は神の戒めに従がをうとしました。つまり、人を殺しませんでした。偽証と姦淫などをもしなかったと思います。しかし、彼は十戒の第一戒を破りました。彼は唯一の全能の真の神ほかに神がありました。そしてその神は自分の富でした。彼は神の代わりに自分の富に頼り、財算を売り払い、貧しい人々に施す事が出来なかった。つまり、神より富を愛したのです。神か富みの選択になったとき、富を選んでしまいました。そして、彼は自分が思った程善い者ではないと悟らされました。
【私に従いなさい】
最後に、この出来事を通して私達は善意への道に案内されています。「私に従いなさい」と主イエスは男の人に勧めました。そして、私達一人一人にもその同じ招きを提供して下さいます。「私に従いなさい。」イエス・キリストを心から信じ従うと、主の贖い死を通して私達の全ての罪が赦され、罪のない、又、完璧な者として神によって受け入れられます。更に、主によって救われると神の聖霊は私達に宿って下さり、御自分の実「善意」を結ぶように助けて下さいます。聖霊は私達の考え方と価値観と思いを変形させて下さり、悪の代わりに善意を満たして下さいます。そして、ただ私達の力ではなく、神御自身の力で善意を現すようになります。その結果、神から与えられた私達の使命を果たす事が出来ます。それはエフェソの信徒への手紙2章10節に書いたように、
「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」
私達は回りの者の為に祝福になる訳です。つまり、善意を持って、隣人を自分のように愛する事です。そして、ローマの信徒への手紙に記されているように、
「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように。...悪に負ける事なく、善をもって悪に勝ちなさい。」
(ローマ12:17、21)
【ヴァージニア州立工科大学での銃乱射事件】
二ヶ月前の事ですが、アメリカのヴァージニア州立工科大学で銃器乱射事件がありました。犯人は32名の学生と先生を犠牲にしました。犯人は韓国の国籍である事で、韓国でもまたアメリカに住んでいる韓国人社会でも大変衝撃的で不安を抱きました。ヴァージニア州立工科大学の広場に犠牲者の追悼式の場所が設けられました。驚く事ですが、犯人の追悼式も犠牲者33名の中で4番目にありました。そして、そこには三日後からお花と手紙が置かれるようになりました。その中で犯人への手紙には、こう書かれていました。「あなたが必要としていた助けが出来なくて後悔している。心が痛かった。」又、「大変寂しかっただろう。それを独りで耐えるのに大変だっただろう。そんなあなたに手を差し伸べなかった私を赦して。」または、大学のインタネット新聞には犯人の家族を慰める話がありました。犯人のお姉さんのお詫び文に対してある人は、「あなたも愛する人を失った」と慰めました。ある人は、「私の祈りのリストにあなたの家族もあります」と言っていました。
去る4月20日正午に犯人を含めた33回のベルを鳴らし、そして、33個の風船が飛び上がりました。犯人の魂は犠牲者の魂と共に天に上り、友達の赦しの中にあったのです。
言い尽くせない程、悲劇的事件でしたが、その素晴らしい扱いによって悪に負ける事なく、善をもって悪に勝ちました。神の愛と赦しを模範として、大きな証を示しました。どうか私達も、聖霊の結ぶ実、そのような善意を実行出来るように天の父なる神に祈りましょう。(おわり)
2007年07月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上
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