『いつも喜んでいなさい』 植田昌彦伊丹教会長老


聖書:テサロニケ信徒への手紙[I] 5章16~24節
 
【何を求めて教会に】
人は何を求めて教会に来るのでしょうか。キリスト信徒と呼ばれる私たち教会員は何を求めて教会に来また礼拝に出席するのでしょうか。また求道者の方々も何を求めて教会に来られるのでしょうか。人それぞれ願いや思いは違うでしょう。色々な求めがあろうかと思います。心の平安を求めて、最近の言葉で言えば癒しを求めて、幸せを求めて、何か心の清らかさを求めて、宗教に興味を持って、心のよりどころ確かな人生の指針を求めて、等々色々あると思います。またその求めを持つようになった「きっかけ」も人それぞれ異なったものだと思われます。
 
【PHP:心の安らぎ】
ある本に書いてあったのですが、今もっとも日本で読まれている最高の発行部数を誇っている雑誌をご存知でしょうか。本当に日本一かどうかは私自身定かではないのですが。皆さんも読んでおられるかも知れませんが、「PHP」という雑誌というか冊子がそうだと書いてありました。これは松下幸之助が創出した人間の生き方を考える冊子です。忙しい日々の生活の中でほっとした心の安らぎを得たい、共感を覚えるものを求めて、自分の日々の生きる指針を、また生活上ぶつかる色々な心の葛藤へのヒントを、考える冊子として読まれているように思います。このPHPの冊子に求めることと同じものを教会に求めて来られる方もいると思います。それらは、教会に求めるものあるいは信仰に求めるものとしても大切なものであろうと思います。

【 信仰生活の具体的目標と成長】
では私たちの求めるものは、教会で得られたでしょうか。毎週の礼拝で得られているでしょうか。ある方は、得られているからこそ20年30年と教会生活を続けているのでしょう、といわれるかも知れません。あるいは、私たちが何かを求めてというより、神様が求めておられ、それに応えるために私たちは教会に来るのではないのですか、とおっしゃる方もあると思います。また求めるものが得られ得られないではなくて、来ること神様の御前に出ることそのことに意味があるのではないでしょうか、といわれる方もあるとお思います。
 
確かに、どのご意見ももっともだと思います。しかし私が今日皆様と一緒に考えてみたいことは、私達の教会生活・信仰生活に具体的目標、何年後にはこうありたい、こういう信徒になっていたいという実現するべき目標がありますか?そしてその目標は実現しつつありますか?ということであります。
あるいは言い方を変えてみれば、信仰者として自分を振り返ってみて、昨年より今年、今年より来年と、一歩一歩成長していると実感できるものがありますか、ということであります。
 
【説教は実を結んでいるか】
この前、橋谷先生と二人でお話をしていた時、橋谷先生がこのようなことを話されました。「ただ礼拝に出て教会員が、いいお話を聞いた、聖書のみ言葉を聞いた、ということで満足して帰っていくだけでいいのか?そのみ言葉が信徒の月曜日からの生活に影響を与え、説教で聞いたみ言葉がそれぞれの生活の場において働いていく、影響を与えて行く、というのが本来の説教のもつ意味であり、教会員としてのあり方ではないか、というお話がありました。これまでの自分を省み深く反省をさせられるお言葉でした。
 
【日曜クリスチャン】
 最近はあまり聞きませんが、むかし「日曜クリスチャン」という言葉がありました。日曜日は教会に行って礼拝を守り、信徒の交わりをし、色々学ぶけれど、一歩教会を出て月曜日からはこの世の人々と変らない生活をし、聖書を読むこともなく「つん読」、祈ることも無い、考え方も生活態度も未信徒の人とあまり変わらないという生活をしているクリスチャンのことを「日曜クリスチャン」と言っていたように思います。そこまでではないにしても、家であるいは自分の部屋で聖書も読むし、問題にぶつかったとき困ったとき祈りもしているよ、という私たちは、昨日より今日、今日より明日と信仰の成長、人間としての成長を本当に実感しているでしょうか。神様と日々交わりに生き、そして神様がますます身近な方、無くてはならない方になっていっているでしょうか。そしてそこで注がれる恵みに日々感謝を捧げているでしょうか。
 
【賞を得るために走る】
コリントの信徒への手紙[I]9章24~27節

「競技場で走るものは皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆全てに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」

 
【イチロー選手の目標】
私たち一人ひとりの信徒として朽ちない冠を得るために目標を持って進みなさい、ということではないでしょうか。それは、年齢は関係ないと思います。80歳は80歳の目標があり、60歳は60歳の目標があり、30歳は30歳の目標があり、10歳には10歳の目標があると思います。信仰とは違うのですが、プロ野球のイチロー選手の13歳小学校6年生の時の「ぼくの夢」という作文には感動します。明確な彼の目標が記されているのです。そのために自分が何をするかもはっきりと記しているのです。
 
【朽ちない冠を得るために】
では私たちキリスト信徒はどのように目標を設定すればよいのでしょうか。私の場合、今ちょうど60歳です。では10年後の70歳のとき、20年後の80歳のときにどのような信徒になっているのが自分の夢かということになります。もちろん健康で自分の足で自分の手で身の回りのことが出来そして、教会にも自分で行ける、そして教会の奉仕がまだまだ出来る、そういったことも一つの目標であります。それはすごく大きな恵みですけれども、現状の延長のそれだけが目標では何か寂しい気がいたします。こんなことを言うともう既に80歳になっておられる方には失礼な言い方になるかもしれませんがお許し下さい。今60歳の私が考えていることとしてお許し下さい。
 
あなたが現在何歳であっても20年後の自分を考えてみてください。その時どのような信徒でありたいと思われますか。
 
【神が望んでおられること】
今日与えられている、聖書の箇所テサロニケ信徒への手紙[I]5章16~18節をもう一度読んでみましょう。
  


『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ主キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。全てを吟味して、よいものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。』


『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』この姿こそが、神さまが望んでおられるあなた方の目標だというのです。
 
【目標の達成は可能か】
皆さんはこの聖書のみ言葉をどのように受け止められるでしょうか。そんなこと天国へ行ってからの話で、この地上に生活する限りそんなの無理よ、というのが私達の思いであり本音ではないでしょうか。実際私達の生活において、家庭の中にも、仕事においても、学校においても、色々な人間関係の悩みがあり、経済的困難もあり、肉体的苦しみもあり、自分のもって生まれた能力や性格で、毎日悩みの連続と言っていいような私達の毎日であります。しかしそのような現実をよく知っておられる神様が、私たちに

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』


という目標を示されるのです。
 
本当に、現実の私たちに実行出来る目標でしょうか。パウロは有り得る、信じるものはこのようになると断言しているのであります。なぜなら、神様が私達に望んでおられることであり、私たちをお招きになった方は、真実な方であるから、というのです。
 
【キリスト・イエスと共に歩むとき】
現実がいかなるものであろうとも、「いつも喜んでいるあなた」、「絶えず祈っているあなた」、「どんなことにも感謝しているあなた」、を神様は求めておられるとパウロは言うのです。そしてそれが、神様が主イエス・キリストをこの世にお送りくださった目的であり、キリスト・イエスにおいて、神様が私たちに求めておられることなのだというのです。
 
神様は真実を持って真剣にこのことを私たちに迫っておられるのです。しかし他方私たちはいつもこの世と妥協し、この世の延長線上でしか自分というものを見ていないのではないでしょうか。そしてそれが、今も罪の中にいる私たちの限界であり現実なのだと逆に諦めて自分にまた他の人にも言い訳をしているのではないでしょうか。しかし本当にそのような中途半端なキリスト者の生涯のために主イエスは十字架にかかってくださったのでしょうか。神様は最愛の御子をこの世に遣わし、十字架の死に至るまでその愛を貫徹してくださったのは、そのような中途半端な人間の救いのためだったのでしょうか。
  決してそうではありません。神様は私達の現実を、日々の生活を全てご存知です。あなたの悩み、あなたの苦しみや悲しみ、あなたのどうしようもない現実を全てご存知です。その生活のただ中に聖霊なる神様を送ってくださり、日々み言葉を与えてくださっているのです。
 
【聖霊の火を消さないためには】

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ主キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。全てを吟味して、よいものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。』

 
この言葉こそ私たちに与えられているのです。あなたの霊の火を消してはいけません。あなたの中におられる聖霊の火をどうぞ消さないで下さい。燃やし続けてください。あなたの中に留まり続けてくださるように聖霊なる神様に祈り続けてください。預言を軽んじないで下さい。預言とは聖書のみ言葉です。聖書の一言ひとことを軽んじないで下さい。もっともっと大切にして下さい。この聖句を通して神様は私に何を語り掛けてくださっているかをいつも主に問いかけて下さい。そして日々の生活の中で何が神様に喜んで下さることなのか、何が神様のお嫌いになることなのかを、よくよく考え吟味し、その神様が喜んでくださるよいこと、神様が望んでおられるよいことだけを出来るように主に祈り求めてください。
 
そして悪いもの、決して主が喜ばれないことからは遠ざかるようにしましょう。その時、私たちを教会に招き、救いのみ業に預かるものとしてくださった平和の神が、必ず私たち一人ひとりを全く聖なるものとし、霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして下さるのであります。これが神様の約束であり、私達の目標として示してくださっていることです。
 
【内村鑑三:後世への最大遺物】
内村鑑三の書物に「後世への最大遺物」という本があります。読まれた方も多いのではないかと思います。内村鑑三がこの中で語っているのは、この世に生を受けたものとして後世に何を残せばいいのか、ということであります。お金や事業や学問や文学も素晴らしいものです。それらの才能に恵まれた方はどうぞその道を通してこの世のため、そして後世のために素晴らしいものを残してください。しかしそれらの才能に恵まれない人でも、誰にでも残せるもので真に最大遺物といい得るものがある、それは『勇ましい高尚な生涯』であると、内村鑑三は言うのです。
 
【勇ましい高尚な生涯の実践】
では『勇ましい高尚な生涯』とはどんな生涯なのかというと、こういう生涯だというのです。「すなわちこの世の中は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中あるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。」あるいは又こうも言っています。「己の信ずることを実行するものが真面目な信徒であります。ただただ壮言大語することは誰でも出来ます。いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれが信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬ間は、神はわれわれにとって異邦人であります。それ故にわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行いたさなければなりません。・・・・・これを称して真面目なる信徒と申すのです。われわれに後世に遺すものが何も無くとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものは何もなくとも、あの人はこの世の中に生きている間は真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に残したいと思います。」
 
【わたしの御言葉の実践】
では、今日のみ言葉に示された神様が望んでおられる「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」というみ言葉を私たちが生活の中でどのように実行すればいいのでしょうか。私の一つの実践を紹介します。私は絶えず言葉に表して主に感謝をすることにしています。具体的には、『主よ、有難うございます!』をいつも口ずさむようにしています。車を運転しているときも、電車にのっているときも、歩いているときも、会議をしているときも、その時々神様に感謝することはいくらでもあります。「主よ!今日も素敵な空を有難うございます。」「主よ!美しい緑を有難うございます。」「主よ!美しい小鳥のさえずりを有難うございます。」「主よ!あの方と久しぶりにお会いでき有難うございます。」「主よ!会議の結論を得ることが出来て有難うございます。」「主よ!新しいアイデアを有難うございます。」そして一日何十回・何百回と『主よ、有難うございます!』と言っています。これも「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」というみ言葉の私なりの実践です。どうぞ、実行する人になってください。今日与えられたこのみ言葉をあなたはどう日々の生活の中でいかに実行していくかを考えてみてください。工夫をしてみてください。そしてそれを実行してみてください。そして実行し続けてください。その時必ず主は喜んでくださると信じています。
 
【完成に至る】
私達の生活の只中におられる神様を見上げて、神様のみ言葉に忠実に、今日を、明日を歩んでいくとき、どんなに悩みの中にあっても、どんなに困難の中にあっても、どんな苦しみや悲しみの中にあっても、全てを神はご存知である、全てはその神様のご支配の下にあると信じるとき、

「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」


という神様が与えてくださったこの目標が、この私に現実のものとなるのです。そしてこのような人生をこれから10年20年30年歩んでいくとき、内村鑑三が言った『勇ましい高尚な生涯』が私たちのものとなり、『後世への最大遺物』を私たちも残すものとされるのではないでしょうか。
そしてその時、

「平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なるものとして下さいますように。また、あなた方の霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたし達の主イエス・キリストの来られるとき、非の打ち所のないものとして下さいますように。あなた方をお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」


というパウロの言葉が私達の上に実現するものと信じています。(おわり)  

2007年07月15日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

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