霊の結ぶ実:寛容 ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書18章21−35(本文参照)
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23
霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
【些細な事を許せない!】
読売新聞によりますと、最近、行儀が悪い人に対して暴力事件が増えて来ているそうです。関東の方ですけれども、ある28歳の高校先生は電車に乗って、足を組んで座っている青年の足に触れられました。先生はその事で怒り出し、青年を大声で叱って、頭を殴りました。
又、他の事件で57歳の警察官が逮捕されました。それは、彼は山の手線に乗っている若い女性の髪の毛を強く引っ張ったからです。尋問されると、警察官はこのように自分の行為を説明しました。「彼女は携帯電話でうるさく長話をして、態度が悪かったんです。」
又、28歳の女性の人も逮捕されました。彼女は空気銃で人の車を撃ちました。信号待ちの時、その車が彼女の車の前へ割り込んだからです。
警察庁によりますと、去年、暴力行為で逮捕された人は二万人前後でした。それは10年前に比べると、3.4倍増えたそうです。そして、驚きますが、60代の人の暴力犯罪増加率は12.5倍、50代は5.6倍程です。警察庁の代表者はこの現象についてこう語りました。「恐らく以前と比べると、最近、特に熟年者は些細な事で怒りを覚え、すぐ行動に移ります。」
【霊の結ぶ実:寛容】
今日は、聖霊の結ぶ実の学びを続けたいと思います。そして、今朝は「寛容」と言う実が与えられました。ガラテヤの信徒への手紙に聖霊の結ぶ実のリストが記されています。それは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。今まで愛と喜びと平和を一緒に学んで来ました。 私達キリスト者は毎日の生活にこのものを現すべきです。 そして、そのもの全ては聖霊の賜物です。キリスト者になると、神の霊は私達に宿って下さいます。そして、霊の導きに従って歩むのなら、すなわち私達の内に霊の働きを心から許すと、キリスト者は今日の御言葉に於ける九つの特徴を現します。
【真の寛容とは】
聖霊なる神はイエス・キリストを信じる者に第四番目の実、寛容を賜ります。
「霊の結ぶ実は寛容である」
と記されています。ここで「寛容」と訳された単語はどう言う意味でしょうか。原文のギリシア語を見ますとその文字通りの意味は、「長く悩む」事、あるいは、「怒りから遠い」事です。そして、この言葉はいつも人間の相手に対する寛容と忍耐です。と言うのは、逆境や不幸や病気に対する一般的な忍耐ではないのです。ここでの寛容は周りの者の行動と言葉 に関わるものです。ですから、聖霊の結ぶ実「寛容」は次のように定義した方が良いではないでしょうか。「怒らす事に対する辛抱強い態度であります。」つまり、人によって怒らされても、また、人の失敗と弱さに直面する時でも、怒らない事です。逆に、愛と理解を持ってその人を扱う事です。
ですから、寛容はただ我慢ではありません。仕方がなく、表面的に自分の怒りを抑え、人を扱う事ではないのです。つまり、本当に怒りに燃えていても、その感情を殺して人に見せない事でもありません。ある時はそのような我慢が必要ですけれども寛容は我慢を超えます。神の力によって左右され、怒らしても、怒りを実際に乗り越え感じない事です。それは聖霊の結ぶ実「寛容」であります。
また、寛容は人の嫌な行動と言葉に対する「どうでも良い」態度でもありません。すなわち、苦手な相手はただそのような人だから、「仕方がない」と出来るだけその人と関わりをしない事ではありません。苦手でも愛を込めてその人を高く評価して、彼を神の子として積極的に扱います。
しかし、そのような寛容はなかなか難しいですね。怒らせたら、私達は自然に怒って来ます。人の嫌な行動と言葉に対してその同じような行動で仕返ししたいのです。実は、誰も寛容を持ってこの世に生まれて来ていません。私達は生まれながら短気です。考えて見て下さい。赤ん坊が空腹とぬれたおむつで真夜中に起きると、どうしますか。「お母さんが大変疲れているから、僕は我慢して、朝まで静かにじっと待って見よう」と自分に言うでしょうか。とんでもありません。その赤ちゃんは起きると直ぐ泣き出します。そして、欲しい物を頂くまで、大きい声で泣き続きます。それは人間の生まれつきの本能です。ですから、私達はいったいどうしたら、聖霊の結ぶ実、寛容を毎日の生活に実行出来るのでしょうか。私達の生活にその徳目を現すように、どんな模範と刺激と力が与えられていますか。
【王に一万タラントン借金していて許された家来】
主イエス・キリストは寛容の事を教える為にこの譬え話を語りました。先程読まして頂きましたが、もう一度読みましょう。(マタイによる福音書18:23−35)
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来達に貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済出来なかったので、主君はこの家来に、時分の妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待って下さい。きっと全部お返しします』としきり願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間達は、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」
と主イエスが教えられました。
「どうか待って下さい。きっと全部お返しします」と家来が主君に頼みました。同様に仲間が家来に願いました。「どうか待って下さい。返すから。」そして、主イエスは譬え話をこのように閉じました。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
意味深い事だと思いますが、譬え話の「どうか待って下さい」と訳された表現は聖霊の結ぶ実「寛容」と全く同じです。結局、「寛容して下さい」と家来と仲間両方が願いました。しかし、寛容を豊かに頂いた家来はその同じ徳目を仲間に現しませんでした。そして、その故に主君は家来への自分の寛容を取り上げてしまいました。もちろんこの譬え話の主君は天の父なる神のようです。そして、家来は私達と似ています。
【寛容の模範】
やはり、私達の寛容の模範は愛する神です。神は罪深い私達を見て何をするのでしょうか。神は私達に対して御自分の怒りを抑えられなくなり、人間の事を諦め、私達を見捨てましたか。そうなさっても、私達は神を責められません。それは私達の当然の運命です。しかし、神は続けて私達一人一人を心から愛し、決して私達を見捨てません。実は、私達に対する御自分の寛容は計り知れません。詩編103:8にこの御言葉があります。
「主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。」
そして、ペトロの手紙二3:9にこのように記されています。
「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたの為に忍耐しておられるのです。」
私達は神から受けた同じような忍耐と寛容を周りの者に現すべきだと主イエスによって教えられています。そして、私達は人に寛容を現すと、私達の為の神の寛容の理解と感謝を確認出来ます。
寛容は聖霊の賜物ですので、 神はもう既にそのものを私達一人一人に授けて下さいました。そして、聖霊の力によってその実を回りの者に分かち合う力も与えて下さいます。どうか、神に大きく用いられる為、私達の内にいる聖霊の寛容の働きを許すように神に祈らなければなりません。そうすれば、聖霊の結ぶ実・寛容を私達の生活に豊かに生かすことが出来ます。
【主イエスの寛容と忍耐】
そして、主イエスが示した模範に常に従いましょう。主は敵に渡される直前、祈る為に弟子達を連れてゲツセマネと言う園へ行きました。
「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」
と三人の弟子に頼みました。イエスは少し進んで行って独りで祈りましたが、しばらくしてから、弟子達の所へ戻りましたら、彼等はグッスリ眠っていました。主は弟子達を起して、もう一度目を覚ますようにと言いましたが、彼等はまた直ぐに眠りに落ちてしまいました。そして、イエスはまた行って、
「父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」
と祈りました。しかし、弟子達の所に戻ると彼等はまた眠っていました。主イエスの最も苦しい時、弟子達は眠るしか出来ませんでした。三度も眠ってしまいました。誰でも主イエスの立場だったら弟子達にいらだち怒るはずだと思います。十字架の死に直面した主は少なくとも弟子達のサポートと祈りを期待出来るはずですが、彼等は三度も失敗したのです。それにも関わらず、主は寛容と忍耐と愛を持って、ただこのように弟子達に言いました。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人達の手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」
(マタイによる福音書26章36−46)いつも共にいた弟子達にさえ裏切られても、主イエス・キリストは弟子達に対して怒りを覚えませんでした。弟子達の弱さを背負って、最後まで寛容を持って彼等を愛したのです。どうか、私達も日々の生活に於いて些細な事においても、大きい事においても、そのような寛容を生かす事によって勝利する生活をしましょう。(おわり)
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