わたしの母とはだれか ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書12章46−50

  ◆イエスの母、兄弟 46:イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47:そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48:しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49:そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。  50:だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」  


【今日は母の日】
御存じのように、今日は母の日です。母の日に私達はお母さんを覚え、特別に敬う日なのです。私達それぞれは、誰でもどんな人でも、母がいますので、皆この日に参加する事が出来ます。今日は世界中で、数え切れない人がこの日を覚え、祝っています。北、中、南米の殆ど全ての国は5月の第二の主の日に母の日を祝います。そして、ヨーロッパとアフリカ諸国も今日、母の日を祝っています。アジアだったら、フィリビン、シンガポール、マレーシア、韓国、もちろん日本などにも母の日は大切に守られています。実は、最近中国さえも多くの人々は今日、自分のお母さんを特別に覚えています。

実は母の日の運動は私が生まれ、また牧会していたアメリカのウエストヴァージニア州で生まれ、世界で初めの母の日の行事はウエストヴァージニア州の教会で行われました。それはグラフトンと言う町の小さい教会でありました。その教会で永年日曜学校の先生をしていた、信仰のあついジャービス夫人がいました。ある主の日、日曜学校のお話で、ジャービス夫人が生徒達に十戒の

「あなたの父と母を敬え」と言うお話をした際、「あなたがたもお母さんに感謝する方法を考えて下さいね」


と勧めました。そのお話を聞いた子供の中にはジャービス夫人の幼い娘アンナもいました。
 
その後、ジャービス夫人は天に召され、娘アンナが1905年5月第二の日曜日、すなわち自分のお母さんを記念して、グラフトンの教会で式を行いました。その式で彼女はかつて日曜学校で聞いた母のお勧めを思い出し、皆のお母さんを尊重する為に「母の日」を設立する運動を始めました。
 
そして、1910年にウエストヴァージニア州は祭日として母の日を認めました。そして、4年後、アメリカのウィルソン大統領が5月の第二の日曜日を国の祭日として「母の日」の設立宣言をしました。そして、現在、多くの国々では、小さい田舎の教会で一人の婦人が始めた母の日の運動の結果として、母の日が大きく祝われています。
 
 
世界中、こんな母の日の大きいアピールはやはり何よりも私達はお母さんから頂いた愛を認め、感謝したいからです。言うまでもありませんが、お母さんの愛は特別です。お母さんとその子の愛の絆は力強くて、比べられないものです。
 
【自動車泥棒】
最近ニュースで読んだ事件ですけれども、デボラ・ケンプと言う婦人が自分の6歳の娘アシュリーちゃんを連れてセルフのガソリンスタンドで給油した時、急に泥棒が運転席に入り込んで車を取ろうとしました。しかし、アシュリーちゃんが後ろの席で寝ていたので、母のケンプさんは娘を守る為に開いてある窓から車のハンドルを掴んで、泥棒を止めようとしました。彼女は数百メーロル程車で引きずられましたが、ハンドルを離しませんでした。ケンプさんはやっと犯人を止めて、彼を捕まえ車から引っ張り出しました。そして、彼女は車から息子の野球バットを持って彼を叩いて降参させました。止めてくれと叫んで、彼は何も手向かいませんでした。後でケンプさんはこう言いました。「私は別に英雄ではありません。ただ娘の事が心配で、そのように反応したのです。私の最も大事な一部がその車にいたからです。」車で引きずられた彼女の膝はちょっとだけ傷みましたが、泥棒の状態は別でした。彼の両足は折られて歩けませんでした。しかも、頭の傷も受けていました。非情な例だと思いますが、やはりお母さんの愛は比べられないすごいものであります。
 
そして、お母さんの愛と言うと、旧約聖書の列王記上のお話を思い出します。この御言葉は神から授けられたイスラエルの王ソロモンの知恵を現しますが、お母さんの素晴らしい愛も明らかにします。このお話を聞いて下さい。
 
【ソロモン王の裁き】
列王記上3章16以下

「遊女が二人王のもとに来て、その前に立った。一人はこう言った。『王様、よろしくお願いします。私はこの人と同じ家に住んでいて、その家で、この人のいる所でお産をしました。三日後に、この人もお産をしました。私達は一緒に家にいて、ほかに誰もいず、私達は二人きりでした。ある晩の事、この人は寝ている時に赤ん坊に寄りかかった為、この人の赤ん坊が死んでしまいました。そこで夜中に起きて、私の眠っている間に私の赤ん坊を取って自分のふところに寝かせ、死んだ子を私のふところに寝かせたのです。私が朝起きて自分の子に乳をふくませようとしたところ、子供は死んでいるではありませんか。その朝子供をよく見ますと、私の産んだ子ではありませんでした。』   もう一人の女が言った。『いいえ、生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子です。』さきの女は言った。『いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのが私の子です。』 二人は王の前で言い争った。王は言った。 「『 生きているのが私の子で、死んだのはあなたの子だ』と一人が言えば、もう一人は、『いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」そうして王は、「剣を持ってくるように」と命じた。王の前に剣が持って来られると、王は命じた。「生きている子を二つに割き、一人に半部を、もう一人に他の半分を与えよ。」   生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、『王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげて下さい』と言った。しかし、もう一人の女は、『この子を私のものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けて下さい』と言った。王はそれに答えて宣言した。『この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である』


と記されています。生きている子のお母さんは自分の子を何よりも愛して、子供が犠牲となるよりも、むしろ他の人の手に渡す方が良いと思いました。それはどんなに悔しくても、お母さんはその子を愛し、どうしても守りたかったのです。つまり、彼女は子供の為に自分の気持ちと立場を犠牲にしたのです。その愛を現したのは、大昔のそのお母さんだけではありません。私達一人一人も、自分のお母さんからその同じような愛を経験したと思います。
 
母の日に際して私達はお母さんの特別な犠牲的愛を覚え、その恵みの為に感謝を表します。お母さんがまだ生きておられる者も、また天に召された者も、私達は今日、その愛を受けた私達はお母さんに感謝を表します。お母さんの大きな愛の心を思い起こす事が出来ます。そして、更に、そのようなお母さんを私達それぞれに与えて下さった神にも感謝を表すべきです。
 
先週の金曜日に私が携わる仁愛幼稚園で母の日のプログラムがありました。その行事の中で子供達が手作りプレゼントをそれぞれのお母さんにあげ、「お母さん、ありがとう」と言いました。その感謝の言葉を聞いて苦労する若いお母さん達は本当に嬉しそうでした。あるお母さん達は涙を流す程感動しました。
 
肉親の絆は大変大事な関係として聖書に認められています。十戒の第5戒は、

「あなたの父母を敬え」


であるし、

「父親たち、子供を怒らせてはなりません」


(エフェソの信徒への手紙6:4)と新約聖書に記されています。更に、主イエスは十字架の苦しみの中でも、母の事を心配して、マリアの世話を御自分の弟子に託しました。しかし、主イエスは肉親の関係を大事にしながら、他の家族の絆も非常に重んじたのです。それは神の家族の絆です。つまり、キリスト者同士の関係です。
 
【私の母とは誰ですか】
ある日、主イエスが群衆を教えられた時、母マリアと兄弟達がイエスを迎えに来ました。そして、誰かがイエスに言って、「あなたのお母さんと兄弟達が、あなたに話があると外で立っています」と言いました。そうすると、主はこのように答えました。「私の母とは誰ですか。また、私の兄弟とは誰ですか。」それから、イエスは手を弟子達の方に差し伸べて言われました。

「見なさい。私の母、私の兄弟達です。天におられる私の父の御心を行う者は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのです。」

 
【神の家族】
私達は生まれた家族と結婚で結ばれた家族がありますが、主イエスによりますと、私達は同時に他の家族にも属しています。そして、私達はその神の家族、つまりキリストの教会を大事しなければなりません。生まれた家族と結婚で結ばれた家族と同じように重んじるべきです。
 
神は西谷聖書集会を通して私達に他の家族を与えて下さいました。神は御自分の大きい愛の故に私達一人一人を呼び集め、こう言われます。「見なさい。あなたの姉妹、あなたの兄弟、あなたの母、あなたの父です。私があなたがたを愛したように、お互いに愛し合いなさい。」
 
イエス・キリストの贖いのお陰で私達は神の子供になりました。そして、神の子供であるなら、私達皆は兄弟姉妹です。つまり、家族です。だからこそ、神の家族として相応しく歩むべきです。私達はお互いに愛し、赦し合いします。私達は喜ぶ家族の者と共に喜び、泣く者と共に泣きます。私達は互いに尊敬を表し、相手を自分自身よりも優れた者と思います。私達は重荷を負っている兄弟姉妹を助け、その問題は自分の問題のように扱います。私達は共に神を信じ、共に神を礼拝し、共に主の聖餐にあずかります。主イエス・キリストの愛によって、私達は神の一つの家族になりました。ですから、私達一人一人は喜びと感謝をもって、神の家族の者として相応しく歩みます。(おわり)

2007年05月13日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 列王記上 , 新約聖書 , 旧約聖書

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