イエス・キリストの犠牲 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書15章33−39
 
【主イエスの受難】
私達の主イエス・キリストの受難記念日はもうすぐです。実は、今週の金曜日になります。主イエスの受難の全ての犠牲はあなたの為、私の為でしたので、この際、主の犠牲を改めて思案すべきだと思います。来週、いよいよイエス・キリストの復活をお祝いします。しかし、この受難がなければ、復活もなかった事でしょう。そして、イエス・キリストの十字架の死の意味が分からなかったら、その復活の意味と喜びも分かるはずがありません。ですから、今朝、主イエスの犠牲について一緒に思案したいと思います。
 
イエス・キリストの犠牲を考えるとき、すぐに残酷な十字架を思い出します。十字架に掛けられた間、イエスが言い尽くせない程、肉体的苦しみを経験されました。ローマ帝国の処刑の方法として、十字架の死は一番酷い拷問でした。普通の犯罪者は他のもっと速い方法で死刑に処されたのですが、国に対して謀反(むほん)のような重い罪を犯した場合、十字架刑を使いました。つまり、これ以上の厳しい刑罰がありませんでした。一日の拷問に限られなくて、死ぬまで大抵二日、三日程の時間がかかりました。あまり残酷なので、私達は主イエスの十字架の死の肉体的苦しみを十分想像出来ないと思います。

【さらなるイエスの御苦しみ】
しかし、イエスは私達の為に肉体的苦しみの上に、また辛い精神的と霊的苦しみも受けられました。と言うのは、人間を救う為にこの世に遣わされましたが、その人間ほとんどは御自分を拒否して、最後に十字架につけました。考えて見て下さい。恐らく最も苦しい事はイエスが父なる神に見捨てられたかのように見えた事であります。十字架に掛けられた間に主イエスは、

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」

と叫びました。イエスは最後まで父なる神に完全に信じ従いましたのに、そのような苦しい、また恥ずかしい死を経験しなければなりませんでした。
 
【主の御苦しみは私たちの罪の償いのため】
しかし、御自分の苦しみと死を通して、イエスは私達の罪を償いました。全く罪のない主は十字架で私達の全ての罪を負って下さいましたので、私達は神によって赦され、御自分の愛された子供のように受け入れられています。罪の故に私達は神の敵であったのに、イエスの犠牲のお陰で、今は唯一の神に和解され、親しい交わりが出来ました。
 
【主イエスは天国の栄光を捨てて】
確かに十字架は私達の為のイエスの犠牲のクライマックスでした。世界の長い歴史の中で、もっと大きい、もっと意味深い犠牲はありません。しかし、イエスは私達の為に十字架以外にまた他の犠牲を払って下さいました。忘れやすい事ですが、イエスはこの世に生まれる前に天国のあらゆる栄光の中の存在でした。涙も苦しみもないし、煩いも全然ありません。寂しさと乏しい事も全くありません。ただ唯一の全能の神の完全な愛に囲まれている素晴らしい存在です。その完全な状態から罪と悩みと失望のある私達の所に自由にいらっしゃって下さいました。その理由は、私達人間を神に和解する為でした。つまり、永遠の豊かな命を私達に授ける為、天国の栄光から、人間になり私達と共に宿りました。
 
【神の愛のゆえに】
神としての特権を自ら捨てて、人間になり、この不完全な世に入った主イエスの動機は何でしょうか。御褒美を受ける為ですか。神の独り子に何の御褒美を与えられるのでしょうか。聖書に記されていますが、宇宙の全ての物はイエス・キリストによって造られたので、全てはもう御自分の物です。人間になり、私達の所にいらっしゃるのは、イエス個人的には全く為にならない事でした。実は、損ばかりでした。御自分の利益を忘れて天国の全ての特権を捨てて、私達の救いの為に低くなり、この世に入って下さいました。やはり、主イエスの動機は愛でした。
 
【人の愛とは】
私達皆はある程度人を愛する事が出来ます。と言うのは、私を愛してくれる人に私も愛する事が出来るはずです。つまり、互いに愛し合う事が出来ると言う事です。しかし、自分の利益を全て忘れ、敵の益の為に自分の命を残酷な死までも犠牲にするのは特別な愛であります。それは神の大きな愛です。私達にはそのように愛するのはなかなか難しいと思います。
 
【主イエスの生涯】
私達の為にイエス・キリストは完全な天国の存在の代わりにこの世の苦難や疲れや空腹や裏切りなどを積極的に選択して下さいました。小さい時からイエスの環境は物質的にあまり恵まれていませんでした。生まれた所は貴族の屋敷ではなくて、むしろ、汚い匂いいっぱいの馬小屋でした。両親はごく普通の貧しい田舎者でした。そして、小さい時、家族と一緒に残忍(ざんにん)なヘロデ王から外国まで避難せねばなりませんでした。そして、大人になってから何も悪い事をしなかったのに、イスラエルの宗教の指導者が主を常に嫌がらせをしました。また、住む家がなくて、人を教え癒す為に、いつも巡回していました。財産もなくて持ち物と言えば、自分の着るものしかありませんでした。
 
そして、十字架に掛けられた時、その着物さえも取られてしまいました。真に預言者イザヤの通りに、

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私達に顔をかくし、私達は彼を軽蔑し、無視していた。」


(53:3)
 
言うまでもなく、主イエスは痛みと苦しみと迫害を好みませんでした。私達と同じように主も本能的にそのものを避けたかったと思います。イエスは御自分の苦難についてこのように祈られました。

「わが父よ、もし出来る事でしたら、どうか、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の思いのままにではなく、御心のままになさって下さい.」


(マタイ26:39)
 
実は、私達の救いの為の主イエスの贖い死は父なる神の御心でした。他の方法がありませんでしたので、御自分の絶大な愛ゆえ、その多大の犠牲を喜んで払って下さいました。罪の全くない神の独り子の死だけが私達の罪を贖う事が出来ました。預言者イザヤの言葉の通りに、

「彼が刺しつらぬかれたのは私達のそむきの為であり、彼が打ち砕かれたのは私達のとがの為であった。彼の受けたこらしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された。」


(イザヤ53:5)
 
【私たちの応答は】
御自分の完全な愛から、私達に永遠の救いを自由に授ける為にイエスがその最も大きな犠牲を払って下さいました。
主イエスの色々な犠牲と贖い死を見て、私達の答えは何でしょうか。二つの答えしかないと思います。あなたの為のイエス・キリストの犠牲を無視するのはその一つです。それは非常に悲しい反応であるし、そのように答えたら、神の素晴らしい恵み、罪の赦しと永遠の命を受ける事が出来なくなります。
 
その反対に、もう一つの答えは信仰と愛と感謝と喜びです。あなたの為のイエス・キリストの犠牲と愛を悟り、心から受け入れると、その答えは自ずから出て来ます。救いの恵みを頂いた私達は大きい希望を持って、溢れる程の信仰と愛と感謝と喜びをもって答えます。
 
【主の聖餐】
私達の為のイエスの尊い犠牲を忘れないように主が聖餐式と言う礼典を制定して下さいました。ルカによる福音書にこの御言葉が記されています。

「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒達も一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと私は切に願っていた。言っておくが、神の国で過越がなしとげられるまで、私は決してこの過越の食事をとる事はない。』そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、私は今後葡萄の実から作ったものを飲む事は決してあるまい。』それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒達に与えて言われた。『これは、あなたがたの為に与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたの為に流される、私の血による新しい契約である。』」


(ルカ22:14~20)
 
私達の主イエス・キリストの犠牲を記念するようにまもなく聖餐式を行います。どうか聖餐を通してその尊い犠牲を新たに覚え、溢れる程の信仰と愛と感謝と喜びが経験出来るように祈っております。(おわり)

2007年04月01日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/98