聖書に於ける最も大事な質問 ウイリアム・モーア宣教師
使徒言行録16章25−34
【聖書に於ける最も大事な質問:救われるためにはどうすべきか】
聖書には色々な大切な質問が問われていると思います。たとえば、創世記で神に逆らったアダムとエバが善悪の知識の木から実を取って食べると、彼らはその罪の故に神の顔を避けて自分たちの身を隠しました。そうすると、主なる神はアダムを探し出す為に、このような質問を問いました。「どこにいるのか。」また、新約聖書で主イエス・キリストは御自分の弟子達にこの重要な質問をしました。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」そう聞かれると、シモン•ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、始めてのキリスト信仰の告白をしました。(マタイ16:15−16)。この二つの質問は大事で意味深い問ですけれども、恐らく今日の御言葉に問われた質問はもっと大事であると思います。そして、その答えは私達には、いや、私達だけではなく、この世界の全ての人々に最も重要であります。その質問は今日の朗読の30節にあります。つまり、
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
それは使徒パウロとシラスに問われたフィリピと言う町の監獄の看守の質問でした。
【投獄されたパウロとシラス】
その大事な質問の背景を調べましょう。パウロとシラスは伝道の為に今のギリシアにある町フィリピに入りました。その町に野外祈りの場所があって、そこで異邦人がイスラエルの神を拝みました。パウロとシラスはイエス・キリストの福音を祈りの場所に集った人々に紹介する為、毎週の安息日にそこへ通いました。ある安息日に祈りの場所へ行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会いました。彼女は占いをして、主人達に結構な収入を得させていました。彼女はパウロとシラスを見るとこのように叫びました。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を述べ伝えているのです。」やはり、彼女が取りつかれている霊がパウロとシラスの身元を知っていました。彼女は幾日もパウロとシラスを見る度にその同じ事を叫びました。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を述べ伝えているのです。」そのお話は真実ですが、パウロはその同じ声をずっと聞くと、我慢出来なく、その霊が去るように命令しました。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」そして、イエスの名によって言われると霊が彼女からすぐに出て行きました。
神が彼女を悪霊から解放されると、皆は喜ぶはずですが、その哀れみの奇跡でパウロとシラスは大変なトラブルに遭いました。その女奴隷が 正気を取り戻すと、 彼女の持ち主達はかなりの損をしました。彼女は占いが出来なくなり金儲けの望みがなくなってしまいました。その為に、彼らはパウロとシラスを捕まえ、当局に連れて行きこのように訴えました。「この者達はユダヤ人で、私達の町を混乱させております。ローマ帝国の市民である私達が受け入れる事も、実行する事も許されない風習を宣伝しております。」実際に奴隷の主人達は他の理由でパウロとシラスを捕らえましたが、その理由を言うのは恥ずかしいので、国と人種と宗教の事を言って彼らを訴えました。そして、パウロとシラスは高官の命令でむちで何度も打たれてから、牢に投げ込まれました。看守は二人を一番奥の所に入れて、足には木の足枷をはめておいたと記されています。
善い事をしましたのに、大変酷い目に遭ったパウロとシラスは落ち込む理由が十分ありました。「神様、私達をどうして守らなかった」と呟いてもおかしくはないと思います。しかし、彼らは牢に入れられても、足に足枷をはめられても、
「賛美の歌を歌って、神に祈っていました」
と書いてあります。つまり、困難な状況にいても、希望を持って、神に頼り、また、他の囚人の前に証を立てました。
真夜中のその時、全く思い掛けない事が起こりました。突然、大地震が起こり、牢の戸がみな開き、全ての囚人の鎖も外れてしまいました。そして、言うまでもないが、看守は起きて、その光景を見るとぞっとしました。看守は重い責任がありました。どんな状況であっても、ローマ帝国の囚人を一人でも逃がしてしまったら、責任を取る必要があったのです。そして、責任を取ると言うのは、ただ上司の前で謝って、給料の一割を減らされる事で済む訳ではありませんでした。実は、その時代、囚人が逃げたら、看守は自分の命で責任を取らなければなりません。つまり、看守は死刑にされた訳です。そして、看守は死刑の恥をかかされるよりも、切腹の方がましと思って、剣を抜いて自殺しようとしました。しかし、その瞬間、使徒パウロは叫びました。
「自害をしてはいけない。私達は皆ここにいる」
と言いました。
考えて見て下さい。もし自分がパウロとシラスの立場だったら、どうしますか。特に、不公平に鞭で打たれ、牢に入れられたら、どうしますか。もし私達だったら、機会があれば、逃げてしまう事でしょう。看守の問題は看守の問題と思って、きっと、速く遠い所へ逃げます。他の囚人達も逃げなかった事も不思議です。それは一つの説明しかないと思います。彼らはパウロとシラスを尊敬したので、パウロは看守に、
「自害をしてはいけない。私達は皆ここにいる」
と言うと、囚人達もそれを聞き、従いました。
【死から救われた看守】
とにかく、死から救われた看守は大いに感動して、御言葉によりますと、
「明かりを持って来させて、牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出しました。」
そして、彼はその時聖書に於ける最も大事な質問を聞きました。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」
と心から尋ねました。
ちょっと聞いたところでは、それは急な質問だと思いますが、多分看守はパウロとシラスの事を少しは知っていた事でしょう。逮捕される前にその二人は幾日もフィリピで伝道しましたので、恐らく看守も直接にイエス・キリストの福音を聞いたかも知れません。すくなくとも、パウロとシラスは永遠の救いの道を説いたと聞いていたと思います。
いずれにしても、大地震が起こっても誰も死にませんでした。更に、囚人の鎖が外れても誰も逃げませんでしたので、彼は自殺しなくても良いでした。その奇跡的出来事はパウロとシラスのお陰だと実感した看守は、彼らのメセージは真理だと得心しました。ですからパウロとシラスの神を知りたかったのです。その故に看守はパウロとシラスに、
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」
と言う最も重要な質問を聞きました。そうすると、二人は迷わずにこのように答えました。今日の御言葉の31節を見て下さい。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」
と返事したのです。そして、パウロとシラスはイエス・キリストの福音を看守とその家族の者に述べました。
大事な質問ですが、
「救われるためにはどうすべきでしょうか」
と聞かれると、パウロは、「善行をつまなければなりません。善行が罪よりも多かったら自分の救いを勝ち得られる」と言いませんでした。また、「宗教的儀式を行う必要がある。神はその事を好んで、褒美として救いを賜る」とも教えませんでした。更に、「救いを得るように神が定めた律法、すなわち十戒を守らなければなりません。そうすれば永遠の命を頂けます」とも返事しませんでした。そして、「神を暖かい気持ちで愛するならば、救われます」も答えませんでした。却って、
「救われるためにはどうすべきでしょうか」
と聞かれると使徒パウロはこの大事な言葉で答えたのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」神の御言葉によりますと、それは救いの唯一の道です。主イエスを信じる事です。
【「信じる」ことの意味】
ここでの「信じる」意味を学びましょう。原文を見ると信じると言うのは何よりも、「頼る」事と「信頼する」事になります。つまり、唯一の救い主としてイエス・キリストに頼って信頼する事です。他の神々はじめ、また自分と他の人の力と善行にも頼るのではなく、主イエスのみに信頼すると言う意味なのです。特に救いの為に、イエス・キリストの十字架の贖い死のみに頼り信頼します。
【イエス・キリストを信じ洗礼を受けた看守と家族】
更にイエス・キリストを「主」として信じるべきとパウロが看守に教えたのです。「主イエスを信じなさい」と言いました。
主と言う意味は支配する者、頭、ボス、首領なのです。ですから、私達は主としてイエス・キリストに従わなければなりません。例えば、主イエスの教えを学んで、毎日の生活に実行する事です。
そして、看守はすぐにイエス・キリストに従いました。つまり、彼は愛の業を現して、また洗礼を受けました。33と34節を見ますと、それは明白です。
「まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になった事を家族共々喜んだ」
と記されています。看守はパウロとシラスを兄弟のように受け入れ、その愛を良い行動で実行しました。つまり、その二人の傷を洗って、食事もさせたのです。更に、彼と家族の者も皆その晩、洗礼を受けました。ぐずぐずせずに、主イエスを受け入れたのです。つまり、洗礼と言う礼典を通して主イエス・キリストを信じた事を公に現して、また、主の命令に従いました。そして、その家族は救いの喜びをも現しました。
「神を信じる者になった事を家族共々喜んだ」
と書いてあります。やはり、イエス・キリストの恵みの福音を受け入れたその家族の喜びは自然に溢れました。滅びと失望の状態から、確かな救いと希望に移された彼らは大変喜びました。
【神の御前に立つ日に】
愛する皆さん、私達皆と全人類も、一人も残らず、いつか神の御前に直接立たなければなりません。もしその日、天地万物の造り主である全能の神が、「私はどうしてあなたを私の天国に入れなければなりませんか」と尋ねると、どう答えられますか。もし今日のお話を聞いたら、その唯一の答えが分かります。
「私は主イエス・キリストを救い主として信じているので、入れさせて下さい。」
どうか、私達皆はこの世にも死後にも、フィリピの看守のように心から、
「私は主イエス・キリストを信じている」
と告白出来ますようにと祈っております。(おわり)
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