「平和を実現する人々は幸いである」田村英典

聖書:マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

【平和を実現する】

今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」


何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。

まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。

勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。

聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。

【平和がない状態】
今申し上げたような意味での平和がどれ程重要かは、これが失われている状況を考えると良く分ります。大は国と国の戦争から、小は家庭や友人関係、職場、さらに言うなら教会の中での人間関係に至るまで、平和のない状態が私たち一人一人をどんなに不幸にしているかは、議論の余地がないでしょう。

かつて学生の身でありながら、戦争に出ていかなければならなかった青年たちの手記を綴った『聞け、わだつみの声』という本があります。そこには、若い命を無理矢理もぎ取られていくその無念さ、悔しさの声がとても多く見られます。当然でしょう。戦争は残酷です。どんなに生きたいと思っても、それを許されない。個人的には何の恨みもない人を、ただ敵国の人間という理由だけで殺さなければならない。何という不幸でしょう。

戦争だけではありません。一軒の家の中での不和が、どれだけ家族全員を不幸にしているでしょうか。恐らく一番の被害者は幼い子供たちでしょう。感じやすい幼い心は、それに耐えられるようになる前に早くも傷つき、大らかな成長を妨げられ、心に深手を負っています。癒されることなく、傷を負ったまま思春期を迎え、大人になっていくとしたら、何と不幸でしょうか。まさに一人の人間の一生とその人格を殺しかねない程のことです。無論、争い合っている当人たちも不幸です。私たちにも経験があると思いますが、誰かと明らかに仲違いをしているとか、怨みのようなものが存在する時、決まって私たちの気持はどこか荒れています。下らないことにも過剰反応し、喜びや感謝も少ない。それは私たちの魂の健全な営みと成長を必然的に阻みます。何と不幸でしょう。ですから、平和でなく、争いやイザコザ、不和があることは、本当は傷つきやすく、弱い魂、精神を持つ私たちにとって、大変不幸なのです。このことに私たちはもっと気づかないといけないと思います。

【争い・不和の原因】
しかし、大は国と国、小は人間同士の争いに至るまで、何故人間はいつもこうなのでしょうか。聖書はその原因をはっきり指摘します。それは人間の持つ罪の故なのです。人が皆生れながらに持っている原罪と呼ばれる腐敗した罪の性質と、そこから湧き出てくる様々な利己的で罪深い思いに、全ての問題の根本原因があります。イエスは言われます。マルコ福音書7章20~23

「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」


【造り主なる真の神との関係】
ですから、これを解決しない限り、如何に立派な制度や法律、規則や取り決めを作っても、完全な解決にはなりません。汚染している川の流れの途中にどんなに薬品を大量に投入しても、根本的解決にはならないのと同じなのです。汚染源を絶たなければ意味がない。同様に、人間の愚かで不幸な争いも、人間の根本的な罪、すなわち造り主なる真の神との関係が壊れている点にこそあることに、人は気づかなければならないことを、聖書は明確に教えます。

一時、私たちの国はPKO(国連平和維持活動)やPKF(国連平和維持軍)のことで大きく騒ぎました。その後、2001年9月11日の米国での同時多発テロに対する米軍のアフガニスタン攻撃に対する自衛隊の後方支援、更に自衛隊のイラク派遣のことで賛否が分かれました。こういった国際的なことについては、色々な考えがあり、問題の解決も簡単ではないでしょう。

【心の罪】
しかし、聖書が言うように、私たち全ての人間の心から罪の問題、つまり自己中心、妬み、強欲、頑なな自我などが取り除かれない限り、どんなことも究極的解決にはなりません。社会的な規模での平和活動も大切にしたいと思います。しかし、まず身近な所での平和の実現に真剣に努めることを、決して忘れてはならないと思います。

では、「平和を実現する人」とは、どういう人でしょうか。本質的なことから言うなら、今言ったように、第一に、それは自分も他人も神との関係こそが根本的に修復され改善されなければならないと真剣に思っている人です。特に自分が何より自己中心の罪から解放され、心が清められなければならないと真剣に考えている人です。

【十字架によって自己中心の罪を取り除かれた人】
私たちが自分のことだけを考えたり、自分について余りにも神経過敏で自分を守ってばかりいる限り、平和は造り出せません。しかし、まさにその点で私たちは情ない程弱い。ですから、平和を実現する人は、自分も他人も主の十字架によって神に罪赦され、罪から徹底して清められ解放されなければならないと、真剣に考えている人と言えます。

【神の愛より出る動機】
第二に、平和を造り出す努力を自分がするのは、それによって自分が人より優位に立つとか、結局は自分が得をするとかといった自己本位の動機からではなく、私たち皆の幸福と、それをイエス・キリストの福音によって私たちの間に造り出そうとしておられる神の愛と御心の故にであることを、明確に自覚している人です。

【神の御力に頼る】
第三に、真の平和は人の力だけでは造り出せず、そこで一生懸命努力はしますが、最終的には神に真剣に求める人であり、イザヤ書26章12

「主よ、平和を私たちにお授け下さい。私たちの全ての業を成し遂げて下さるのはあなたです」


を真剣に祈っている人と言えます。

以上は本質的な点ですが、もう少し具体的にはどうでしょうか。聖書から身近な点を少し見たいと思います。

 
【おしゃべりを慎む】
平和を実現する人は、第一におしゃべりを慎む人と言えます。ヤコブ1章19は言います。

「私の愛する兄弟たち、よくわきまえておきなさい。誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」


心に思ったことは何でもしゃべらないではおれないという人が時々います。こういう人は必ずといって良い程トラブルを生み出し、人を傷つけ、争いを引き起します。自分の唇を制御することが大切です。

 

また誰かのことで知っていることは、全て他の人にしゃべってしまわないと気が済まないという人も困ります。平和を造り出す人は、何でもしゃべりはしない。不和の材料になるようなことは、知っていても敢えてしゃべらない。要するに、平和を造り出す人は自分の唇を制御する人であり、「話すのに遅」い人です。詩編141篇3の祈り、

「主よ、私の口に見張りを置き、唇の戸を守って下さい」


を切実に覚える人です。

【怒るに遅く】
二つ目は、先程のヤコブ1章19にあるように「怒るのに遅い」人です。他人のことでも自分のことでもすぐ怒る人は、他の点では如何に優れていても、平和を実現することには向いていません。平和を造り出す人は、主が言われるように、マタイ5章5「柔和な人」、温和な人です。

第三に、それは良く考える人と言えます。何度も引用しますが、ヤコブ1章19は「聞くのに早く、話すのに遅く」あるべきだと言います。言い換えると、これは良く考えるということでもあります。どう考えるのか。無論、ただ考えるのではありません。聖書の教え、福音の光の下で、神がどういう御心を持っておられるかを、一旦、深呼吸して冷静に客観的に考えるのです。 

【キリストに倣いて】
第四に、それは自分のことは後回しにしてでも、積極的に自分から進んで平和を造り出そうとする人と言えます。マタイ福音書5章23以降で、誰かと自分との間で何か不和が生じた場合、相手に非があろうとなかろうと、クリスチャンはまず自分の方から進んで和解の手を差し伸べるべきだと、主は言われます。明らかに相手が悪い場合、私たちは往々にして、まず相手が謝り、非を認めるべきだと主張します。だがイエスは「不和を感じているあなた自身から、まず和解の手を差し伸べよ」と言われます。

何故か。考えてみれば、神御自身が、神に背を向け敵対していた罪人の私たちに対して、何と御子イエスを送り、御子を十字架につけてまで私たちへの和解の福音を一方的に差し出して下さったからです。神には私たちにそんなことをなさる義務など全くない。悪いのは私たちです。だが、神はそれをご自分の方からして下さった。何という神の愛でしょう!ですから、その神に救われ赦された私たちも、自分から進んでそうすべきなのです。イエスが言われる通り、マタイ福音書5章44

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る。」


ローマ書12章20も言います。

「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」

 

他にもまだあると思いますが、これでやめておきます。そこで最後の点ですが、こういうことなら、クリスチャンは努力するばかりで、損ではないでしょうか。しかし、主はこういう人々こそ「幸い」だと言われます。どうしてでしょう。「その人たちは神の子と呼ばれる」からです。

無論、クリスチャンは救い主イエス・キリストへの信仰のお蔭で既に神の子とされています。しかし、ここの意味はもっと実質的にも神の子と呼ばれる者に相応しくされていくということです。神の最も麗しい御性質は、私たち人間が不信仰で神に心を閉ざし、現実にも日々情ない罪を犯しているのに、御自分の方から御子を賜り、御子の十字架の血によって私たちと和解し、御自分との平和を差し出して下さった、その驚くべき愛に見事に表されています。ですから、自分から平和を造り出す人は、まさに神に似て、神の子と呼ばれるに相応しいのです。

私たちは神について色々なイメージを抱いています。裁きの神、絶対者なる神。それらは勿論正しいです。しかし、聖書の中で他にも頻繁に表されるものがあります。それは平和の神です。イザヤ書9章5は神の御子キリストを「平和の君」と呼びます。ローマ書15章33は言います。

「平和の源である神が、あなた方一同と共におられるように。」


Ⅰテサロニケ5章23も言います。

「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。」


神は何より御子イエスの十字架の血によって平和を御自ら造りだし、私たちにそれを一方的に提供され、今もそれを御自身と私たち、また私たちと他の人たちとの間に造り出すことを、真剣に願っておられる平和の神なのです。この神の故に、自分の犠牲を払ってでも「平和を実現する人々」はまさに神に似る人であり、この世でも神はそういう人をいよいよ御自分の子と呼ばれ、やがて地上の歩みを終えて神の前に召される時、平和の神はそのような人を公にハッキリと御自分の子と宣言し、永遠の祝福の中に入れ、ローマ8章17

「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人」として栄光の御国を継がせて下さるのです。必ずそういう時が来ます。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

平和を実現し、造り出す!これは私たち人間のなすべき数々の事柄の一つというより、むしろ私たちが絶えず求め貢献すべき最も尊く幸いなことの一つなのです。それは神が他ならぬ「平和の神」だからです。

 

今朝、私たち一人一人が今一度「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことが、如何に尊いかを良く認識し、改めてこの福音に生きる決意をしたいと思います。どうか主イエス・キリストが私たちを励まし、御霊を豊かに注いで下さいますように。

12~13世紀、アッシジで活躍したフランチェスコの祈りの一部を祈って終ります。

「主よ、私をあなたの平和の道具にして下さい。憎しみのあるところに愛をもたらし、争いのあるところに赦しを、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす人にして下さい。主よ、慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを求めることが出来ますように。」アーメン

 
(おわり)

2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

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