「憐れみ深い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章7節

【真のクリスチャンの幸いとは】

5章3節からのイエス・キリストの幸福の教えの中で、今日は5番目、7節に進みますが、その前にイエスの教えを正しく理解するために三つの点を確認しておきます。第一に、これら一連の教えは、全て信仰により霊的に生れ変った信仰者が聖霊によって与えられる新しい特質を描いたものです。キリスト教信仰に生きる人はこういう人だということです。

第二に、これらは全体として適用されなくてはなりません。真のクリスチャンは3節「心の貧しい」、つまり謙遜な人ですが、同時に6節「義に飢え渇」き、9節「平和を実現」し、いいえ、 3~10節の全ての特徴を持っている人です。これらの内の一つを持っているだけで満足することは、主の御心ではありません。

第三に、これらは私たち自身の人間性と信仰を探り、私たちの心をテストします。これらを学んで「これは私の考えとは違う。私には合わない」というなら、それはその人がまだ本物のキリスト教信仰から遠い存在であることを意味します。逆に、これらの教えに自分を照らして見て、「あぁ、私はまだまだ信仰の薄い者だ。だが、これらは確かに真理だ。私もこうありたい」と心底願うなら、その人は本物のキリスト教信仰を持ち、救いの道を既に歩み始めています。このように、これらは私たち自身をテストします。以上、三つの点を確認しました。

【聖書の言う憐れみ深いとは】

そこで、7節「憐れみ深い人々は幸いである」に進みます。憐れみ深いとはどういうことでしょうか。憐れみと聞くと、私たちは慈悲のようなものを思い浮べるかも知れません。しかし、そこには自分より弱い立場の人や下の人に恵んで上げるとか、可哀想に思って何かをして上げるというイメージがあるように思います。そこで、憐れむ方の人はやや上からの感じになり、憐れまれる方は卑屈になりかねません。また、これは物事を曖昧にして大目に見る、と取られるかも知れません。気の毒な人や可哀想な境遇の人に同情するという点がありますが、やや消極的、感傷的で、積極的なものに欠けているという感じがします。

 

聖書の言う憐れみとはどういうものでしょう。人と人の交わり、コミュニケーションを成立させる上で不可欠な要素といえば、愛と信頼ですが、特に愛は重要で基本的なものです。実は憐れみは聖書においては明らかに愛の一つの形態です、しかし、人間の愛はとても脆く、しかも計算や駆け引きなど、偽善も混じり易いですので、憐れみも、生れながらの人間の持つものは常に不完全で不純ですらあります。この現実を認め、へりくだって私たちは主イエス・キリストのみ許に平伏したいと思います。主イエスの光に照らされて、初めて歪みや不純さのない真の憐れみの内容を示され、その本当の祝福を与えられるからです。

 

真の憐れみは神のものです。詩編86:15は言います。

「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。」


詩編103:8も言います。

「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。」

 

そしてこの神の憐れみは、何といっても御子イエスの受肉、すなわち人間となってこの世に生れられたことと、その主イエスのご人格と御業において最高に表されました。主は何のためにこの世に来られたのでしょうか。

マタイ9章9節以降が伝えていますが、人々から嫌われていた徴税人のマタイを主が弟子になさり、彼の家で食事をしておられると、大勢のユダヤ人が来て、弟子たちに言いました。11節

「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」これを聞いてイエスは言われました。12節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


神の御子イエスが罪と汚れに満ちたこの世に人となって来られた理由は、私たち罪人を救う憐れみ以外の何ものでもありませんでした。事実、イエスは、当時人々に嫌われ蔑まれていた徴税人たちをご自分の下に招き、罪ある女たちを救い、悲惨な病に苦しむ多くの人を癒されました。しかし、イエスの十字架こそ、神の憐れみの最大のものでした。それは人間の罪を罪としてあくまで罰し、裁かれる神の義の表れであると共に、罪の中に失われている私たち人間を贖おうとされる神の限りない憐れみの表れであり発動でした。

従って、クリスチャンとは、ただ神の憐れみにより、イエスの十字架の贖いの死によって罪赦された者であり、日々、神の憐れみの中に生かされている者に他なりません。クリスチャンとは、なお残る自分の罪の故に自らに絶望し悲しみつつも、日々神の憐れみの内に、キリストにある赦しと揺るぎない慰めと励まし、希望と勇気をいただいている者です。

この神の一方的な憐れみとイエスによる救いの事実の上に、次に人への憐れみが教えられ、またそれが可能となるのです。

そこで次に、人への憐れみについて見たいと思います。

【人を赦す】
消極的な面から言いますと、憐れみには人を赦すという点があります。コロ3:12は言います。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたも同じようにしなさい。」


ある時、私たちは何回まで人を赦すべきかと尋ねたペトロに、主は答えられました。

「7の70倍まで」


つまり無限に赦しなさいと(マタイ18章22節)。そして続く譬話の中で、王の憐れみにより1万タラントンの借金を赦された家来に私たち信仰者を喩えて、僅か百デナリオン、つまり1万タラントンの60万分の1の借金のある仲間を憐れんでやるべきではないかと教え、最後に言われます。マタイ18章35節

「あなたがたの一人一人が心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようにされるであろう。」

 
これは、人を赦すことが私たちの赦しと救いの根拠になるというのではありません。救いは100%、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れ依り頼む信仰によります。ただイエスは、私たちが神の憐れみにより信仰だけで自分が罪赦されたのを知っているなら、当然、人をも赦せるはずであり、もし人を絶対赦せないというなら、それは私たちがまだ救われていない徴ではないかと、要するに私たちの身勝手を強く戒められるのです。

【憐れみは、神とキリストの内にある】
憐れみの源は、神とキリストの内にあります。そして人への憐れみは、自分がただ神の一方的憐れみにより赦され救われているという感謝と喜びから生み出され、自分が主の憐れみなしには決して赦されることのない惨めな罪人であり無力な者であることをよく認識するなら、同じ罪人である他者への赦しという憐れみを生み出さないではおれないということです。

【憐れみの積極的な面】
憐れみの積極的な面は、言うまでもなく、人への親切や思いやり、優しさ、心からの温かい同情などです。要するに、これは相手の立場に立って考え、相手の身になって行動することと言えます。この意味で、聖書の言う憐れみには、軽蔑とか見下した感じは微塵も含まれません。それは弱い者、悩める者、苦しむ者、悲しんでいる者に対する真の理解であり、彼らに寄り添い、重荷を分かち合おうとする心からの親切です。ローマ12章15節

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあることです。

 
【憐れみ深い人の特徴:犠牲を払う人】
消極的には他者を赦す心、積極的には特に苦しむ人への愛という点を確認しましたが、ここで憐れみ深い人の色々な特徴も見ておきたいと思います。第一にそれは犠牲を払う人です。キリストに倣い、犠牲を払ってでも人を赦し、手伝って上げる人です。

【憐れみ深い人の特徴:自己のよき行為を忘れる人】
第二に、それは自分が他の人にした良いことや親切を次々忘れる人です。マタイ25章31節以降で、イエスは、世の終りに神の国に入れられる人とそうでない人とが分けられる状況を語られます。救われる人たちは、王から「あなたたちはこんなに素晴らしいことをした」と褒められても、「いつ私たちがそんな良いことをしたでしょうか」と言って驚いています。忘れています。逆に、自分がかつて人を赦したことや人への親切を手柄話のようにいつまでも覚えている人は、神の国から遠いと言わざるを得ません。

【憐れみ深い人の特徴:人を罪と悪魔の犠牲者として見ることの出来る人】
第三に、それは人を罪と悪魔の犠牲者として見ることの出来る人です。人の問題や欠点に色々気づき、また人から嫌な思いをさせられる事があっても、すぐ人を裁かない。すぐ駄目と決めつけない。罪は罪、いけないことはいけないとしつつも、「何故あの人はああなのだろう」と考え、「自分も神の憐れみを受けなかったなら、あの人と同じような考えや行動をしていたのではないか」と自らを省み、そこでその人のためにまず神に祈る。イエスの教え通り、マタイ5章44節

「敵を愛し、迫害する者のために祈」


る人です。皆が罪とサタンの犠牲であることを知っているからです。

【憐れみ深い人の特徴:救いの絶大さに絶えず驚き、感動し、感激している人】
第四に、それは自分に対する神の憐れみと救いの恵みの余りの大きさ、豊かさを思い、「主よ、どうしてあなたは私にこんなに良くして下さるのでしょう」と絶えず驚き、感動し、感激している人と言えます。

【憐れみ深い人は何故幸いか】
では憐れみ深い人は何故幸いなのでしょうか。これを最後に見て終ります。イエスは言われます。「その人たちは憐れみを受ける。」これは人に対して憐れみ深くしておけば、いつか人から憐れみのお返しを受けるというのではありません。確かに、神は、憐れみ深い人にこの世でも人からの憐れみを受けさせられることがよくあります。しかし、たとえこの世ではそれが受けられなくても、世の終りに主ご自身が喜んで報いて下さるということです。神の憐れみへの喜びと感謝の故に、人に憐れみ深く生きる人は、世の終りの大いなる審判の日に必ず主から溢れるばかり豊かな憐れみを受けるのです。成程、Ⅱコリント5章10節は、

「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならない」


と言います。信者も世の終りにキリストの裁きの座に立ち、この世での行いへの報いを受けます。このことを思うと、胸がキュッと締め付けられます。でも、心から悔改めている真の信仰者には、全世界を贖って余りある豊かな主の十字架の贖いがあり、罪のリストは全て廃棄されます。従って、報いと言っても、事実上は私たちの行なった、いいえ、主の恵みによりさせていただいた私たちの善い行いに対してだけです。

 

こんな素晴らしいことがあっていいのでしょうか。でも、これが主の救いの恵みなのです。世の終りに、主は憐れみ深かった信仰者にどう言われるでしょう。マタイ25章40節

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」


詩編103:8以降は言います。

「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。主は私たちを罪に応じてあしらわれることなく、私たちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠いほど、私たちの背きの罪を遠ざけて下さる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんで下さる。」

 

 
神の憐れみに対する感謝と喜びの故に、人に憐れみ深い人は、たとえこの世では何一つ報われなくても、終りの日に報われないなど、あり得ない。私たちが忘れていても、主はことごとく覚えておられ、報いて下さる。これが主の約束であり、福音です。ですから、私たちも憐れみ深い者として少しでも歩むことを、改めて共に励まされたいと思います。

「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」

(おわり)

2006年11月12日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

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