神の信実・神への忠信 ―ダビデ王とその家臣― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授
(歴代誌上11章15‐19)
序.
歴代誌上11章15‐19は、ダビデとその家臣が共々に、またそれぞれに、神に対して忠義であり、真に献身したことを伺わせる一つのエピソードを記しています。この箇所の並行記事がサムエル記下23章13‐17にありますが、そこでは、三勇士の武勲は、ダビデの生涯と事績を記す一連の物語の終わりのほうに位置しています。今朝の箇所では対照的に、ダビデがサウルに代わって登場してくるのを書き始める部分―長いダビデ物語の初めのほう―に位置しています。
神の民、イスラエル王国の要とも言うべきダビデ王朝の勃興・形成の物語の最初期から、ダビデ自身の事績のみならず、彼の忠義な家臣団が―各自の名前が連ねられて―述べられていることは意義深いことです。イスラエル王国の基礎固めがなされ、それを通して主なる神の主権的支配が着実に進んで行く背景には、ダビデだけなく―ダビデ一人ではどうにもなりません!―彼が自らの王の任務を遂行することができるように、彼に仕えた多くのイスラエルの家臣がいたことが、読者には初めから印象付けられます。神はご自身の御業の遂行のために、ダビデの忠実な家来をも(ダビデと共に)用いられたのです。
2006年11月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , サムエル記下 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上
「心の清い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
【心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る】
5章8節だけ、もう一度お読み致します。
「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」
何か私たちの心に静かな余韻を残す言葉ではないかと思います。
これは今から二千年前、神の御子イエス・キリストが真の信仰者の特徴と幸せについて語られた教えの一つですが、まだ洗礼を受けず、クリスチャンになっておられない皆様にも、さ程抵抗なく、受け止めていただけると思います。
心の清い人々が幸いであることを否定する人はまずいないでしょう。また、もし神を見ることが本当にできるなら、それは幸いだと思う方も少なくないと思います。私は10代の終り頃、生きる道を求め、20歳の時に初めて近くの教会へ行ってみました。とはいえ、最初は強く警戒し、極力深入りすまいと心に決めていました。しかし、それとは別に、私は教会の中に何か世間とは違う真実なものがあると感じました。少し大袈裟に言えば、それは私に別の世界のあることを気付かせ、心を洗われる気がしました。
そして、人間というものが、いいえ、私自身が罪深いことも素直に認めることができました。聖書が行なう人間や社会の分析、そして洞察についても、余り抵抗はありあせんでした。「これならクリスチャンになってもいい」と割合早い時期に思ったものです。
2006年11月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書
「憐れみ深い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
聖書:マタイ5章7節
【真のクリスチャンの幸いとは】
5章3節からのイエス・キリストの幸福の教えの中で、今日は5番目、7節に進みますが、その前にイエスの教えを正しく理解するために三つの点を確認しておきます。第一に、これら一連の教えは、全て信仰により霊的に生れ変った信仰者が聖霊によって与えられる新しい特質を描いたものです。キリスト教信仰に生きる人はこういう人だということです。
第二に、これらは全体として適用されなくてはなりません。真のクリスチャンは3節「心の貧しい」、つまり謙遜な人ですが、同時に6節「義に飢え渇」き、9節「平和を実現」し、いいえ、 3~10節の全ての特徴を持っている人です。これらの内の一つを持っているだけで満足することは、主の御心ではありません。
第三に、これらは私たち自身の人間性と信仰を探り、私たちの心をテストします。これらを学んで「これは私の考えとは違う。私には合わない」というなら、それはその人がまだ本物のキリスト教信仰から遠い存在であることを意味します。逆に、これらの教えに自分を照らして見て、「あぁ、私はまだまだ信仰の薄い者だ。だが、これらは確かに真理だ。私もこうありたい」と心底願うなら、その人は本物のキリスト教信仰を持ち、救いの道を既に歩み始めています。このように、これらは私たち自身をテストします。以上、三つの点を確認しました。
2006年11月12日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「落ち着いた生活」グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師
聖書:1テサロニケ4章11−12節、2テサロニケ3章6−13節
1.イントロダクション:聖書は日常生活の指南書
今日はテサロニケの信徒への手紙から神様のみことばに耳を傾けようとしています。みことばに対してどんな期待を持って聞くでしょうか。多くの人々にとって聖書は日常生活と関係が全くないものです。聖書に触れたことがないからです。聖書を読んだことがない人が多いです。
読みたくない理由をあげると古い本で、わかりにくい言葉と内容があるからだと言われます。それは確かにそうですが、聖書は日常生活と関係がないという意見は誤解です。聖書は創造者なる神様から出た言葉ですから、人間のすべてに語られているものです。人生の大きなテーマ(人間存在や生ける意味など)だけではなく、細かいテーマまで語られています。
例えば、セックスについてとか家庭やお金や言葉使いや環境や健康や人間関係などのテーマに言及します。今日の箇所でも重要なテーマが出てきます。「仕事」というテーマです。11節に簡単に語られています、
「自分の仕事に励み、自分の手で働くように務めなさい」。
2006年11月05日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 箴言