「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

少し整理します。まず

「義に飢え渇く人々」


とは、何度か申し上げたように、真のクリスチャンのことです。イエスは3~10節で、幸いな真のクリスチャンの特徴を八つの面から描いておられます。それらはこの世が描く幸せな人間像とは随分異なります

第一に、この世は言います。「自信たっぷりの人は幸いだ。彼らはこの世でうまくやるから。」でも、イエスは言われます。3節「自分の小ささ弱さを深く自覚して

『心の貧しい』


すなわちへりくだった人は幸いだ」と。次に、この世は言います。「人間らしい繊細で感じ易い心を持たない人は幸いだ。彼らは人生で傷つくことがないから。」だが、主は言われます。4節「この世と自分の罪のことで悲しんでいる人は幸いだ」と。第三に、この世は言います。「自己主張が強く、すぐ人に噛みついて文句を言う人は幸いだ。彼らは結局思い通りにやるから。」しかし、主は言われます。5節

「人間関係、対人関係を神の御前で見つめ、もはや自分のプライドを守る必要のない柔和な信仰者は幸いだ」

と。第四にこの世は言います。「自分のやりたいことに一生懸命で、それに満たされ、飽きている人は幸いだ。」でも、イエスは言われます。

「神に喜ばれるように、もっと清い正しい者になりたいと、飢え渇いている人は幸いだ」


と。

イエスは3、4節で、まず真の信仰者が自分をどう見ているかという対自関係を取り上げ、次に5節でそういう信仰者が対人関係でどのようであることが真に幸いかを取り上げられました。しかし、ここに来て、真のクリスチャンは殆ど自らに絶望します。心が貧しいどころか、自分が未だに傲慢で自我の強い者であることを、よく知っているからです。
 
【キリスト者の悩み】
さらに、真のクリスチャンは次のように呻きます。「私は本当は心の冷たい人間ではないだろうか。世間で起っている不幸な出来事を耳にして、悲しいとは思っても、すぐそれは終る。自分の情けない罪や不信仰を思っても、その時だけで、あとは、さ程悲しくない。対人関係においても、自分の方が優秀で強いことを相手に印象づけようとしたりして、私は柔和なんかではない。何故私はいつまでもこうなのか。これでもクリスチャンなのか。情けない。主よ、私を憐れんで下さい。私を罪から洗い清めて下さい。もっと真実な本物の信仰を下さい。私の思いと言葉と行いの一切を清めて下さい。」
 
【ダビデの告白】
このような激しい呻きと求めをダビデも告白しています。詩編51篇7節

「わたしは咎の内に生み落とされ、母がわたしを身ごもった時も、わたしは罪のうちにあったのです。」

ダビデは自分の罪の責任を母親に転嫁しているのではありません。「自分の罪深さは、何も今に始まったことではない。実にこの世に生れる前からなのだ。私は何と罪深く、汚れた者なのか」と呻いているのです。さらに9節

「ヒソプの枝でわたしの罪を払って下さい。わたしが清くなるように。わたしを洗って下さい。雪よりも白くなるように」、


11~13節

「わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしのうちに清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」


これが御言葉に照らして、ありのままの自分を知っている人であり、だからこそ、一心に神に助けを求めている真の信仰者の姿なのです。心の貧しさ、悲しさ、柔和さを通過した人が、次にどうしても示す姿です。しかし、まさにそこで主は言われます。

「義に飢え渇く人々は幸いである。彼らは満たされる。」

 


【義について-義認と聖化】
ところで、

「義」


とは何でしょう。根本的には「神ご自身の正しいご性質」のことであり、次にその「神との正しい関係にある人」の特質を言います。そしてその後者に、さらに二つの面があります。一つは、教理的に義認と言われる神の恵みです。これは私たちの罪のために十字架で命を献げて下さった神の御子、すなわち、一切罪を犯さず、また本来私たちの守るべき清い神の律法、戒めを全部私たちに代って守って下さったキリストを信じることで、神から与えられる恵みです。
 
罪を悔い改め、キリストを救い主と信じ、受け入れ、依り頼む、いわゆる回心の時、人はキリストの義を転嫁されます。その時、私たちはまだ実質的に義であるのではありません。汚れた罪の性質が残っています。けれども、キリストの十字架の贖いの故に、神はキリストを信じる者を、さも罪のない義人であるかのように認めて下さるのです。
 
罪深いままの私たちが、いわばイエス・キリストの真白な義の衣を着せられ、神に義と認めて頂けるのです。以上が信仰によって頂く第一の義認の恵みです。
 
もう一つ、聖化と呼ばれる神の恵みがあります。これがここでの義です。
 
第一の義認の恵みを受けた者が、次に実質的にも清い者、正しい者とされ、キリストのご性質に似ていくことです。このプロセスにおいては、クリスチャンは自覚的な歩みを必要とします。信仰者また神の子としての自覚が高まるにつれ、自分を聖書という鏡に写して見て、いまだ罪と汚れのある自分が分り、自分に失望し悲しむ。それで心貧しくならないではおれないし、悲しまないではおれない。対人関係でも柔和にならざるを得ない。しかし、罪の力は強い。神から与えられた自分の信仰と、自分に残っている古い罪と肉の性質とが、絶えず衝突し戦う。
 
しかし、自分の力で戦う時、必ず罪が勝利し、その後、惨めな敗北感と自己嫌悪を覚える。「私は何故いつまでも信仰が弱いのか。私は到底自分の力で自分を救うことなど出来ない。何故私は人をいつまでも赦せず、詰まらないことで我を張り、素直に自分の間違いを認めて謝れないのか。私は時に罪を罪と知りながら、犯している。どこまでなら、神は私の不信仰を大目に見て下さるだろうかと、私はギリギリまで罪を犯し、神を試し、罪を楽しんでいるではないか。」
 
【クリスチャンの罪意識と神への立ち返り】
しかし、真のクリスチャンはそのような罪と不信仰の後、これまでにない惨めさを味わい、まんまとサタンの手に陥った自分に気づき、一層深い罪意識に苦しむ。
ルカ福音書18章9節以降の譬話に出てくる徴税人のように、自分の胸を打ち叩いて苦しむ。しかし、その時、真の信仰者は、聖霊の助けにより、父なる神に助けと救いを求め、必ず神に立ち返る。そして叫ぶ。「神様、私はこんなにも不信仰です。私はあなたに今裁かれても何一つ文句を言えません。しかし、主イエス・キリストの故にあなたに寄りすがります。私を罪から洗い清めて下さい。私を主の御性質に与らせ、主に似る者へと清めて下さい」と。
 
パウロは、信仰により自分が救われていることをよく知っていました。でも、自分が完全でないことも知っていました。彼は義に飢え渇いていました。ですから、フィリピ3章12~14節で言います。

「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕われているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、うしろのものを忘れ、前のものに全身を傾けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」


これが真の信仰者です。
 
「飢え渇く人々」とイエスは言われました。食物、飲物がなければ、人は飢え渇いて死にます。同様に、真のクリスチャンも「自分はこんないい加減な信仰のままでは滅んでいく」と心底思い、必死に神の義を求めます。それ程、自分の必要を自覚しています。しかし、こういう人こそ、真に幸いなのだとイエスは言われます。「彼らは満たされる。」これがご自分の命まで献げて下さった神の御子、主イエスのお約束であり保証です。この約束と保証をイエスはマタイ7章7節でも下さっています。

「求めなさい。そうすれば与えられる。」


 
ということは、「もうこれで良し」とすっかり自己満足している真のクリスチャンなど、あり得ないということです。実際、イエスは主の祈りの第五の祈願で私たちにこう教えておられます。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と。そしてルカ18章の譬話に出てくる徴税人のように、自分の胸を打ちながら、

「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」

と呻く程に義に飢え渇いている人に、イエスは必ず応えて下さいます。
 
ヨハネ福音書6章37

「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」


人となって下さった神の御子イエス・キリストこそ、そしてイエス・キリストだけが、義に飢え渇く人を真に満たして下さる方です。イエスこそ、まさにヨハネ6章35節の

「命のパン」


であり、ヨハネ4章10節の

「生きた水」

を与えることのできる方です。イエスこそ、御言葉と御霊により御自身のご性質である義を信仰者の内にしっかり回復し、形作り、満たすことの出来る方であり、この方以外に救いはありません。ユダヤ教権威者達を前に、ペトロは言いました。使徒言行録4章12節

「ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 
【自らを振り返るとき】
私たちは信仰者として今の自分を振り返ってみたいと思います。面白おかしいこと、趣味、自分の好きなことには、時間もお金も体力も惜しまず割き、精力的に求めているかも知れない。しかし、義に飢え渇くという点ではどうでしょうか。昔、ある教会で次の牧師を招聘する時、役員の一人がこう言ったそうです。「教理や神学はいらないから、伝道さえやってくれる先生なら、誰でも良い。」
 
こう述べた文脈は考慮すべきでしょうが、この役員は果たして義に飢え渇く人だったでしょうか。自分の内に残っている罪の性質を激しく憎み、悲しむという点は、どうだったでしょうか。自分の救いの完成のために、パウロのようにⅠコリント9章27節

「自分の体を打ち叩いて服従させ」


ようとする人だったでしょうか。これは他人事ではありません。ここにいる私たちにも色々な求めがありましょう。しかし、最近の自分は何に夢中で一生懸命でしょうか。義に飢え渇いているでしょうか。一人一人が、また夫々の夫婦が自らに問いたいと思います。
 
私たちはこれが主からの祝福に満ちた教えであることを忘れたくないと思います。主はマタイ6章33節で言われます。



「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる。」


素晴らしいことに、私たちの主は「義に飢え渇く」ことに伴う祝福と約束を、ここまで広げて下さっているのです。
 
ですから、「義に飢え渇く」こと、飢え渇き続けることは素晴らしく感謝なことなのです。神はこの一番大事な義に飢え渇く者には、ご自身の最高の良きものである義そのものは勿論、加えて他の色々な必要をも必ず満たして下さるのです。「義に飢え渇く人々は幸いである。彼らは満たされる。」
 
【満たされるためには】
時々、ハングリー精神の大切さが叫ばれます。確かに、ハングリーでなく、自分の現状に満足し切っている人は成長しません。人は結局、自分が何をどう求めているかによって、大きく変えられるのです。私たちは自分の胸に手を当てて、正直に自分に尋ねてみたいと思います。「私は本当のところ、今、何に飢え渇き、夢中になっているのか。それは、いつどんなことで私のこの世の命が終っても、喜んで感謝して神の御前に立つことが出来るように、私を罪と汚れから清め、神の御前に私を神の作品として完成し、喜んで私自身を神に差し出せるものにするだろうか」と。人間としてこの最も尊い義への飢え渇きを、夫々が改めて自らに深く静かに問うて見たいと思います。「義に飢え渇く人々は幸いである。彼らは満たされる。」
(おわり)

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/79