「柔和な人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
マタイ福音書5章5節 「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」
【幸いな者とは】
イエス・キリストの語られたマタイ5~7章にある山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の三つ目、5:5「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」を今朝は学びます。イエスは3~10節で真に幸いな信仰者がどういう特徴、特質を持つ人かを八つの側面から描かれますが、その三つ目の特徴、特質が柔和ということです。
【柔和な人々は幸いである】
柔和な人々は幸い!しかし、これは当時の多くのユダヤ人たちに違和感を与えただろうと言われます。何故なら、紀元1世紀のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、それをユダヤ人たちは非常な屈辱と感じ、事あらば、武力に訴えてでもローマの支配をはね返そうという反抗心が常にくすぶっていたからです。
「世の中、何だかんだ言っても、力がものを言う。強い人間が勝って、得をするんだ。」これが当時の多くのユダヤ人が体で覚えた人生哲学でした。これは支配者であるローマ人にしても同じだったでしょう。「結局、力だ。強引さだよ。幸せになりたいなら、これだ。」
こういう考えは、今日にも見られると思います。確かに「人にも自然にも優しく」という言葉に見られますように、優しくあることの良さが、近年、言われ出しました。でも、根本ではどうでしょう。「ほしいものを手に入れたいなら、やはり力だ」という思いが根強いのではないでしょうか。しかし、人間とその永遠の運命をも全てご存じの神の御子イエスは断言されます。「柔和な人々は幸いである。」
【「柔和」は人に対する態度】
では、イエスの言われる柔和とはどんなものでしょう。これは特に対人関係における特質と言えます。3節「心の貧しい」、つまり真に謙っていることと、4節「悲しんでいる」ことは、神の前で自分の弱さや欠け、不信仰や罪深さを知っている真のクリスチャンの、自分に対する態度ですが、「柔和」は人に対する態度です。
聖書によりますと、人は大きく三つの正しい人格関係の中で生きて、真に幸いと言えます。第一は、この世界と私たち人間を造られた神に対する態度、第二は自分自身に対する態度、第三は人に対する態度です。そしてイエスによれば、人に対する態度やあり方の中で最も幸いなのが柔和なのです。
私たちは人間関係の複雑さや難しさ、大変さを多く体験していますので、他にもっと良さそうなものを考えるかも知れません。しかし、神の御子イエスによりますと、対人関係における性質の中で一番幸いなのは柔和なのです。
では、具体的に言って、柔和とはどういうものでしょうか。色々な言い方が可能ですが、聖書に伝えられている優れた信仰者たちを見るのが一番分りやすいと思います。
【柔和であった信仰の先輩たち】
例えば、旧約聖書の創世記は、四千年近く昔の信仰者アブラハムのことを伝えています。ある時、彼は自分よりはるか年下の甥のロトと土地を分けることになりました。当時の習慣では、当然、アブラハムに優先権があります。でも彼はその権利を主張せず、ロトに先に選ばせてやりました。どうしてでしょう。彼がロトを真に愛していたからです。またアブラハムは、信仰者を必ず支え祝福して下さる神の愛に本当に深く信頼していましたので、穏やかでした。要するに柔和だったのです。
次はモーセです。三千数百年前の人です。彼の人柄についても聖書は伝えます。彼は彼個人に対する悪口や非難にむきになって怒らない人でした。神がモーセを愛し、彼に優れた能力を与えられましたので、ある時、姉ミリアムと兄アロンが彼を妬み、詰まらないことを口実に彼を非難しました。この非難に対しては神御自身が答えられましたが、名誉を傷付けられたモーセ本人は何一つ自分を弁護せず、黙っていました。神が全てを正しく見ておられるのを知っていたからです。それどころか、このことで神の罰を受けた姉のために、モーセは一生懸命「神よ、どうか彼女を癒して下さい」と祈りました(民数12:13)。モーセはそのままなら、古代エジプトでかなりの地位についていたかも知れません。人一倍野心家で名誉欲の強い人間であれば、そちらに流されていったでしょう。しかし、彼はそんなことにふける野心家ではなく、自分の民イスラエルと共に苦労することを選んだ人でした。ですから、民数12:3は「モーセという人はこの地上の誰にもまさって謙遜」、つまり柔和だったと言うのです。
ダビデもそうでした。ダビデは神と人に対して大きな罪も犯し失敗もしましたが、神を畏れる柔和な人であったことも確かでした。彼は古代イスラエルの王となる前に、前任者のサウル王から妬まれ、三度も殺されかかりました。でも決して復讐しようとはしませんでした。これは正しい神を信じ、その愛を深く信頼していたからです。
ステファノのことを新約聖書は伝えています。ステファノは紀元50年頃、ユダヤ人の手により、キリスト教会最初の殉教者となりました。でも、石で打たれて息を引き取る直前の彼の祈りは、使徒7:60「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」でした。何と、それは彼を殺そうとする者たちのためのものでした。
【最高の柔和:神の御子、主イエス・キリスト】
しかし、何といっても最高の模範は神の御子、主イエス・キリストです。主は神であられるのに人となられ、徹底的に自らを低くされ、私たち罪人の救いのために、十字架で命を献げて死んで下さいました。フィリピ2:6は言います。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
このイエス・キリストについてマタイ12:19は、比喩的にですが、
「彼は傷ついた葦を折らず、燻る灯心を消さない」
と言います。そして主は、ご自分を十字架に付けた者たちのために十字架上で祈られました。
(ルカ23:34)「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」
以上のことから、聖書のいう柔和がどういうものかがほぼ分ると思います。確認します。これは、人が神の前に平伏す信仰から来る新しい性質です。パウロなどは元々強い性格でしたが、回心しクリスチャンになって、柔和という性質を身に着けました。
【柔和の特質について】
ですから、聖書の言う柔和は、生れつきの単なる大人しさとか引っ込み思案ではなく、何に対しても妥協的な性格の弱さでもありません。とにかく人との間に摩擦を起したくないというだけの気質でもありません。先程例に上げた人々は、真理に関しては頑として譲らず、そのためには命を張ってでも戦いました。
【柔和は、自尊心をもたない】
従って、聖書のいう柔和は、もはや人からいちいちひどく傷付けられる自尊心を持っていないことと言えます。世の中には、みょうにプライドが高いために自分自身についてひどく神経質な人がいます。そういう人は、誰かからこう言われた、ああ言われた、ショックだったと言っては、絶えず傷つき、人は誰も私のことを分ってくれないと言っては絶えずこぼし、自分を憐れみます。でも、真に柔和な信仰者は、そういうことではもう傷つきません。『天路歴程』や『恩寵溢るる』などで有名なピューリタン作家ジョン・バンヤンが「倒れている人は転ぶ心配はない」と言った通りです。
【柔和な人は、いわゆる自己主張はしない】
柔和な人は、正しい意見は人に対してハッキリ言いもしますが、いわゆる自己主張はしません。自己PRや自分を大きく見せることもしません。神が全て真実をご存じであることを、よく知っているからです。当然のことですが、柔和な人は怒りっぽくありません。正しいことのためには憤りますが、自分の名誉や権利のことでは怒りません。有名なアレクサンダー大王の一生を損ねたのは、この点での欠けだったと言われています。酒を飲んでいた時のようですが、彼は激しく怒り、ある時、大切な親友を槍で突き刺して殺してしまったのでした。
【柔和な人は、仕返しをしない】
柔和な人は、対人関係において仕返しをしません。悪をもって悪に報いません。本当の意味で温和です。人を傷付けるより自分が傷付けられる方を選び、一切を神の愛の御手に委ねて耐え忍びます。それどころか、「神はどうして私のような罪深い汚れた者、弱い愚かな者を敢えてお選びになり、信仰を与え、罪の赦しと永遠の命を下さり、こうも良くして下さるのでしょう。どうしてこんな私に」と繰り返し驚き、神にどう感謝を表して良いか分らない人です。この喜びと感謝が、対人関係にも自ずと滲み出て来たものが柔和なのです。
【地を受け継ぐ幸い】
では柔和な人は、何故幸いなのでしょう。
イエスは言われます。
「その人たちは地を受け継ぐ。」
この表現は詩編37:11、22、29、34から来ていますが、要するに、神が従順な信仰者に約束しておられる色々な具体的祝福に必ず与るということです。古代社会において、土地程確かで具体的なものはありませんでした。
そしてこの祝福は、柔和な信仰者の内でもう始まっています。例えば、傲慢で粗野で怒りっぽく、独善的で自己主張が強く、他人のことに無神経な人、つまり柔和でない人は、何かと人に対して強く出て、その場は得をしたようでも、結局、神と人から愛されません。それだけでも不幸ですが、加えてそういう人は、すぐ人をライバル視し、見下したり無視したりしますから、人と親しく交わって、人の中に神が与えておられる良い物、美しい物に触れたり発見するというような喜びを、あまり知ることも体験することもありません。
そういう祝福、喜びを、本来神は人間関係に与えておられますのに、傲慢で利己的で自我が強いために、知ることもありません。何という不幸でしょう。こういう人は日常生活でも色々なことに愚痴や文句を言い、折角良いものをたくさん与えられ、あるいは持っていても、その良さに気付かない。つまり、持ってはいても、本当の意味では持っていないのと同じなのです。
柔和な人はこれと正反対になります。自分を抑え、人を尊ぶ柔和な人は、自ずと神と人から愛されます。対人関係においても自分が謙っていますので、人の中に多くの良いものを見出し、神の恵みや神の清い御心を豊かに吸収できます。こういう人には心を開いて相談してくる人も多く、新しい友を与えられるという素晴らしい幸いに与ります。
成程、あまり回りからは注目されることがなく、自分のことより絶えず人に尽くしていますから、目立たないかも知れません。しかし、全てのことに神の愛の御手を見ることが出来ますから、平安です。そして質素な食事にも「あぁ、おいしい」と心から感謝出来ますし、僅かな持ち物でも神に感謝し喜べますから、本当の意味でそれらを所有しているのと同じなのです。まさしく「地を受け継ぐ」のです。
【新しい天と地とを永遠に受け継ぐ幸い】
それだけではありません。柔和な信仰者たちも、神のご計画に従ってやがてこの世を去り、神の御許に召されますが、世の終りには栄光の体への復活に与り、神から最高の祝福である新しい天と地とを永遠の嗣業として賜ります。つまり、「地を受け継ぐ」ということが、その最高の意味において成就するのです。
「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」
無論、全てのクリスチャンがこうだというのではありません。神の前に真に謙虚で、従順で、素直で、愛のある「柔和な」信仰者がそうなのです。
私たちには、「自分もああいう性格だったら、もっと人との間でも得をして、いいだろうな」と思うものがあるかも知れません。しかし、どうでしょう。案外、私たちも上辺だけの人間学やハウ・ツーものの処世術、人生哲学に惑わされてはいないでしょうか。私たちは、自分の残る生涯を歩んでいく上で、どういう性格が本当の意味で幸いだと思っているでしょうか。自ら徹底して柔和であられ、貧しさの中にも、いつも天の父なる神を仰ぎ、父なる神からの良いものを見出し、いつも喜び、静かに忍耐され、しかも柔和さの極みとしてのあの十字架の死において私たち罪人のために、永遠の神の国への扉を開いて下さった神の御子イエス・キリストは言われます。
「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」
このイエス・キリストの御言葉を深く心に刻み、共に神の祝福の下に、むしろ柔和な者として、生かされる地上の命の限り、ご一緒に歩んで行きたいと思う。聖霊なる神が、どうか私たちを内面から御子イエス・キリストに似せて、柔和な者に造り変えて下さいますように。(おわり)
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