2006年10月

世代を貫く神の契約的信実 ―キリスト教の"因果応報"― 市川康則神戸改革派神学校教授

(聖書:サムエル記下21章1‐14)
 
序―因果応報
 「因果応報」はすぐれて仏教的な言葉ですが、しかし、単純に「原因結果」の意味に取れば、キリスト教信仰にも当てはまります。キリストを信じるなら(原因)、罪を赦され、救われます(結果)。ある哲学者は、キリスト教が日本で受容されない原因の一つは、祖先崇拝を粗末にしてきたからだと言います。私たちは祖先を「崇拝」しませんが、しかし、祖先がいたから私たちが今ここにいるということは事実です。そればかりか、私たちはしばしば、良きにつけ悪しきにつけ、祖先のしたことに影響を受けたり、条件付けられたりします。私たちは前後の時代の人々といっしょに歴史を担っており、その中で自分たちの役割を果たします。よく果たせば、次の代の人たちは助かりますが、しかし、悪く果たすと、迷惑な置き土産をすることになります。

こういうことは信仰生活や教会形成にも当てはまります。今朝学びます聖書の箇所も、このことを教えています。しかし、最も重要なことは、単に先祖と私たちの間の、また私たちと子孫の間の因果関係だけを意識するのではなく、すべての時代にわたって恵み深く主権的に支配しておられる神に、私たちの意識を向け、神様にこそ信実、忠実に関わることです。神への誠実・礼節こそ、人々へのふさわしい態度をとることができる土台です。祖先をいたずらに美化したり、あるいは非難することなく、神の御心―聖書の教え―に照らして、良いことは良い、悪いことは悪いと判断、評価できるのです。

2006年10月22日 | カテゴリー: サムエル記下 , 旧約聖書

「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「柔和な人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ福音書5章5節 「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」

 
【幸いな者とは】
イエス・キリストの語られたマタイ5~7章にある山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の三つ目、5:5「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」を今朝は学びます。イエスは3~10節で真に幸いな信仰者がどういう特徴、特質を持つ人かを八つの側面から描かれますが、その三つ目の特徴、特質が柔和ということです。
 
【柔和な人々は幸いである】
柔和な人々は幸い!しかし、これは当時の多くのユダヤ人たちに違和感を与えただろうと言われます。何故なら、紀元1世紀のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、それをユダヤ人たちは非常な屈辱と感じ、事あらば、武力に訴えてでもローマの支配をはね返そうという反抗心が常にくすぶっていたからです。
「世の中、何だかんだ言っても、力がものを言う。強い人間が勝って、得をするんだ。」これが当時の多くのユダヤ人が体で覚えた人生哲学でした。これは支配者であるローマ人にしても同じだったでしょう。「結局、力だ。強引さだよ。幸せになりたいなら、これだ。」
こういう考えは、今日にも見られると思います。確かに「人にも自然にも優しく」という言葉に見られますように、優しくあることの良さが、近年、言われ出しました。でも、根本ではどうでしょう。「ほしいものを手に入れたいなら、やはり力だ」という思いが根強いのではないでしょうか。しかし、人間とその永遠の運命をも全てご存じの神の御子イエスは断言されます。「柔和な人々は幸いである。」

2006年10月08日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇