「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

【真の幸いとは】
「幸い」というと、英語ではハッピーという言葉がすぐ思い浮かびます。ハッピーは偶然という意味の言葉ハップから来ています。思いがけない出来事をハプニングと言いますが、そのハップです。従って、いわば偶然転がり込んできた幸いです。それも悪くはありませんが、ちょっと頼りない幸いです。健康を損ね、計画が挫折しますと、たちまち去っていきます。

主の言われるのはそういう幸いではありません。幸いと訳されている元のギリシア語は、すぐ失われる表面的幸せではなく、何が起っても奪われることのない深い確かな幸せを意味するのだそうです。人生の思いがけない出来事や変化にも影響されず、この世が与えることも奪う事もできず、死さえも奪えない永遠の幸いです。ですから、主は「天の国は...」と言われます。

そういう真に幸いなクリスチャンとは、どういう特徴を持った人でしょうか。それが3~10節で言われており、その最初に来るのが「心の貧しい」ことです。ですから、これはとても重要で、その後の全ての幸いの出発点、大前提と言えます。

【心の貧しいとは】
では、「心の貧しい」とはどういう意味でしょうか。無論、心が貧弱で薄っぺらなことではありません。「心」と訳されている元の言葉は、8節の「心」とは違い、むしろ、しばしば霊と訳されるものです。聖書で霊と言う場合、特に天地の造り主なる真の神との関係における私たち人間の心の中心部分を言います。造り主なる神との関係における心と言えば、良いでしょうか。

「貧しい」と訳されている言葉は、本当に何もない乞食のような最悪の貧しさを指します。自分一人では生きていけず、他者に依存する他ない状態です。結局、「心の貧しい」とは、絶対者なる神との関係において自らの無力、弱さ、罪深さを徹底して自覚し、ひたすら自分を低くし、神の憐れみに寄り頼み、自分の考えや力にではなく、神の御心とご支配にこそ委ね、従おうとする謙(へりくだ)りのことです。謙りは謙りでも、神の前での徹底した謙りです。

これこそが真に幸いなクリスチャンの真っ先に上げられるべき特質であり、これを欠いた人は、他に如何に優れた力があっても、最も尊い特質を欠いた人と言わざるを得ないのです。これがイエスの教えられる真に幸いな人です。

これは世間で言われる幸せの条件とは随分違うと思います。通常、こういうことはどう思われているでしょうか。「そんなことでは駄目だ。もっと自信を持たなきゃ。自分には強い力と優れた能力のあることを信じ、それを周りに印象づけるのだ。そうでないと世間では認められない。幸せを手にしたいなら、人より力のある自分を見せ、自分の力を信じ、高いセルフ・イメージを持ち、自分を表現することだ。そうすると、皆はあの人の所に行ってみようということになり、あなたは幸せになる。」こういう処世訓や人生哲学が主流を占めていると思います。そして世間では、これにはこれなりの実績もあり、これで成功し、幸せをつかんでいる人もいるでしょう。

しかし、そういう幸せは絶対者なる神の前で、またやがて私たちが死後に迎える永遠の世界との関係において、どれ程の価値と意味があるでしょう。それらはこの世にいる間だけのもので、それで終ります。この世で成功したり、この世での幸せに意味がないというのではありません。しかし、そういうことだけでいいのか、人間の真の幸せということで、忘れられてはならないもっと大切なものがあったのではないかということです。

【高慢という罪】
そして聖書は至る所で述べていますが、神は心高ぶる人を最も嫌われます。如何にこの世ではそれで押し通せても、神の前では退けられます。

ヤコブの手紙4章6節は「神は高慢な者を敵とし」

と言い、

マタイ福音書19章23、24節でイエスは言われます。「金持が天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

誇張した表現ですが、自分の豊かさや能力を誇り、それに頼っている人は、自分が神に生かされていることを忘れ、傲慢になるので、その罪のために自らの上に永遠の裁きを招き易いのです。

神の前に傲慢な人は当然、人に対しても傲慢です。自分を特別視し、他人をどこかで見下しています。これは神が強く嫌われる罪です。反対に、神の前に自分の罪深さや無力さを知っている故に心の貧しい人を、神は喜んで受け入れて下さいます。ルカ福音書18章9節以降で、イエスは印象深い譬話をしておられます。

10~13節「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神さま、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪人のわたしを憐れんでください。』」


対照的な二人ですが、イエスは言われます。14節


「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

【真のへりくだり】
「謙(へりくだ)る」とは、本当は自分の力を知っているが、それを見せびらかさない、というのではありません。心底自分をそう思っているのであり、本音なのです。徴税人は本当に自分の罪深さを知っていました。ですから、ファリサイ派の人のように、自分を人と比べることもしません。人と比べて仮に自分に少しは優れた点があるとして、そんなことは神の前に何ら誇るべきでないことを良く知っていました。徴税人は、隠れたことも全てご存じの審判者なる神を真に畏(おそ)れました。自分を計る基準は世間一般の尺度ではなく、神の目であり、彼はそれで自分を見ていました。彼の姿は、実はこういう真に神を畏れ敬う心に根差したものだったのです。 

【へりくだった信仰の先人たち】
聖書を見ますと、神に愛され、人々の救いのために用いられた信仰者たちは、例外なく心貧しかったことが分ります。古代イスラエル民族をエジプトから救出した有名なモーセは、エジプトで最高の教育を受けたエリートでした。しかし、神がその務めに召し出された時、

「ああ主よ、どうぞ、ほかの人を見つけてお遣わし下さい」

と願う謙った人でした(出エジプト4:13)。

預言者イザヤは、神殿の中で神の幻を見た時、

「災いだ、わたしは滅ぼされる。私は汚れた唇の者」と言いました(イザヤ6:5)。

イエスの弟子の第一人者ペトロは、生れつき積極的で、自分を主張し、自信に満ちた人だったように思われます。しかし、主イエスを真に知った時、彼は平伏して言いました。



「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです。」(ルカ5:8)。

パウロはどうでしょう。家系、学識、宗教的素養といい、エリート中のエリートユダヤ人でした。元は自信と誇りに満ちていたでしょう。でもイエス・キリストに出会ってからは、全く謙った人に変っていました。伝道者としての務めを続けて行く時に、

Ⅱコリント2:16「このような務めに誰が相応しいでしょうか」

と自らに問い、クリスチャンとして最も油の乗っていた時でさえ、自分の内になお見られた罪に触れてこう叫んでいます。

ローマ7章15、24「わたしは自分のしていることが分りません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。...わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められているこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

晩年になって書いた

Ⅰテモテ1章15節では「わたしはその罪人の中で最たる者です」

とさえ述べている。これが聖書に見られる真に偉大な信仰者達の姿なのです。

「心の貧しい」とは、自分の才能、家柄、受けた教育、実績、持ち物などを、本当に全く誇りません。自分を誇る人の多かったコリント教会の信者に対して、パウロはこう書いています。

Ⅰコリント4章7節「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」

【わたしは何と惨めな人間なのでしょう】
また実際、私たちが真に自分を見つめれば、如何に自分が貧しい者かが分るのではないでしょうか。例えば、人を愛することの尊さは知っています。しかし、私たちの内にある愛は何と貧弱で利己的なものでしょう。自分を空しくして心から人に仕えることは、何と難しいでしょう。他人の優れた点を素直に認めること一つを取り上げても、私たちは何と駄目な者でしょうか。それ程、私たちの生れながらの性質は罪深いのです。ですから、パウロは「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と呻くのでした。

しかし、正に、こういう人こそ幸いだ、とイエスは言われるのです。何故なら、もはや決して自らを究極の頼みとせず、自らの人生と永遠の運命について、ただ神の愛と憐れみにすがり、救い主イエス・キリストにのみ希望を置き、心から信じ、全てを委ね、主イエスに従って、ひたすら謙って生きていこうとするからです。

するとどうなのでしょう。主は私たちの罪を全て背負い、私たちに代って十字架で死んで下さいました。ですから、心貧しい人は神に全ての罪を赦され、義と認められます。それだけではありません。謙った人は、色々な人から色々なことを学び、吸収しますので、人格的に豊かにされます。困難に遭遇しても、立ち直りが確実に早く、強いです。神が共にいて下さるからです。神は言われます。

イザヤ書57章15節「わたしは...打ち砕かれてへりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

どんな困難、試練が襲おうとも、神が支えて下さるのです。

それだけではありません。傲慢な人は必然的にいよいよ自らを醜くし、人格を低めていきます。それ自体何と不幸でしょうか。一方、心貧しい者を神は愛し、彼らの人格を御子イエス・キリストに似るものへと清め、人として完成へと近づけて下さいます。

もう十分でしょう。心の貧しい者には、この世においても既に真の幸いが始まっています。その上、天に召される時、その幸いはクライマックスに達します。正に「天の国はその人たちのもの」なのです。

【水野源三さんの詩】
最後に、「瞬きの詩人」と呼ばれた水野源三さんの詩の一つをご紹介します。1984年、47歳で天に召された水野さんは、10歳位の時、赤痢による高熱が原因で脳性麻痺になられ、一切手足を動かせず、喋ることもできなくなりました。14歳の時、一人の牧師と出会い、イエス・キリストを信じてクリスチャンになられました。そして18歳位から詩作を始められます。水野さんは話せません。そこでお母さん(後には義理の妹さん)が50音表を使い、指や声で文字を順番に示され、水野さんが瞬きした時がその文字となる訳です。「瞬きの詩人」と言われる所以です。こうして多くの時間をかけて一語一語選び、多くの素晴らしい詩を作られました。大変な試練と不自由な中で、それでもなお水野源三さんが真剣に祈り求めておられたことを表した詩を一つご紹介して終ります。

「低く低くなられた主よ、あなたの御旨がある所にわたしを導いて下さい。

低く低くなられた主よ、あなたの御愛がある所に、わたしを近づけて下さい。

低く低くなられた主よ、あなたの御跡がある所に、わたしを歩ませて下さい。

低く低くなられた主よ、あなたの御声がある所に、わたしを低く低くして下さい。」

(おわり)

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/74