「神のみこころ」 グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)

聖書:1テサロニケの信徒への手紙一4章1--8

【1.生けるためのアドバイス】
私はある英語の新聞を読んでいます。全部読めないですが、必ず、木曜日のトラブルシューティング(人生の悩み相談コーナー)を読んでいます。二人の悩みが書かれて、それに対して一人のアドバイスが書かれています。良く出る問題は人間関係で、夫婦や親子や姑との人間関係又職場の人間関係や親戚との関係です。そのなかには不品行、財産やお金、無責任な行動、アルコール中毒の問題などがあげられます。
 
興味深いことはカウンセラーとして立てられた人たちです。有名な著者、タレント、弁護士と時々は精神科医がアドバイスをします。専門科ではない人ばかりです。その新聞の記事を読みながらいつも考えるのは、人間は人生についてどこからアドバイスを受けているか、求めているか。どうでしょうか。人生を過すために一般の人々はどのように導かれているでしょうか。助け無にして生活している人がいるでしょう。また、家族に相談する人もいるでしょう。学校のなかなら、先生の役割も大きいでしょう。マニュアルにそって人生を歩んでいる人もいるでしょう。占いや宗教によって導かれる人もいます。タレントやスポーツマンの影響を受けている人も少なくないと思います。
 
人々はわざわざ新聞に手紙を書いて送らなくても、良い生活を歩むためのアドバイスを求めていると思います。クリスチャンも求めています。クリスチャンはキリスト教用語で、それはみこころを求めていると言います。神様が望んでいることは何であるか、神様の心の思いは何であるか知りたいのです。神様からの導きを求めています。決断する時だけではなくて、クリスチャンはこの世でどのように歩んだらいいのか導かれたいのです。
 
今日の箇所はその求めの答えになります。神のみこころは何であるかが3節以下にはっきり書かれています。

「3:実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4:おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、5:神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」

  タレントに聞かなくてもいいです。新聞に探さなくてもいいです。先生と相談しなくてもいいです。マニュアルも買わなくてもいいです。占いを避けることも出来ます。なぜなら、聖書には神のみこころが充分に書かれています。今日は、この箇所からみこころを学びたいのです。

【2.神のみこころは】
一言で言うと、神のみこころはわたしたちが聖なる者になるということです。3節

「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」

また、
7節

「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」

 
「聖なる」こと、は「聖よく」なると同じですが、漢字を見たら意味が分かると思います。それはただ純粋(じゅんすい)、水のようにきれいになるという意味よりも、聖書の「聖」になるという意味です。でも、それも曖昧な言葉ですね。聖書が言う「聖なる」ということは「聖別」されるという意味です。神のために特別に区別される、という意味です。
 
私たちは神のために生きるように造られました。具体的にそれはどういう事でしょうか。この箇所ではもっと詳しく教えられています。聖くなることは不品行をさけること。聖くなることは自分のからだを尊く保つこと。聖くなることは兄弟を大事にすること。誤解しないでください。聖くなることは性的に純粋なことだけではありません。聖くなることは生活のすべてが含まれます。言葉使い、運転の仕方や電車の乗り方、食事の食べ方、勉強や仕事の仕方、それぞれの行動は神に捧げられたものとしてするのです。神を喜ばせるようにするのです。そのすべての生活の内に、性と関係ある一部があります。この箇所では、結婚の相手を選ぶこと、結婚前の生活、結婚した者の生活が実例としてあげられています。神のみこころは性的な関係のなかでも聖くなるということです。
 
話し言葉だけでは誤解をまねく心配があります。例えば、「セイ」と聞くと生きる意味のセイとセックスのセイと聖書のセイとも捕らえることができます。ですから、もう一度言います。神のみこころ、神が望んでおられることはクリスチャンである私たちがすべての生活のなかで聖なるものとして神に区別された者として生きるようになるということです。神様はそのような者を育てたいのです。そのような歩み方を願っています。それはセックスの生活のなかでも期待されています。
 
ある人はクリスチャンの望ましいセックスについて次のようにまとめました。
「性」から「聖」へ、「聖」から「生」へ。セックスが聖なるものとしたら、生き生きした人生になるということでしょうか。
 
聖なるセックスはどういうことですか。それを答える前に、この箇所の翻訳の問題を紹介します。新共同訳聖書では4節は

「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように」

と翻訳されていますが、元々のギリシャ語は曖昧な表現でした。原語を見ると二つの翻訳(解釈)の可能性があります。

新改訳聖書では4節は

「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち」

と訳されています。

「自分のからだ」

という言葉は

「自分の妻」

(新共同訳)と訳すことが出来ます。また、

「保ち(新改訳聖書)」

という言葉は「とる」と言う意味か、「守る」という意味にも捕らえられます。(新共同訳では「生活するように」)。どちでもいいと思います。妻を選ぶ時、また、選んだ妻と結婚生活をすることにパウロのアドバイスを当てはめることができます。大切なのは、4節の前半の言葉です:

「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって」。

すなわち、聖なる生き方が望まれています。
 
妻を選ぶとき、結婚前の生活を含め、聖なるものとして歩むべきです。神をしらない異邦人のように情慾におぼれずに相手と関りがなければなりません。「できちゃった結婚」にならないようにセックスをしないように、また、外の美しさよりも心の美しさに目を向かうようにということでしょう。また、結婚しても、聖なる者として、相手に仕える姿勢をもってセックスの関係を結んだり、妻以外の人とセックスをぜったいしないようにすごします。
 
「自分のからだ」という訳にしたら、次のようなアドバイスになるでしょう。情慾のコントロール、性的な乱れを避けること、男女関係をもつとき尊敬し合うことを守りなさいということです。
厳しいアドバイスと思われるかもしれません。でも新しい教会であるテサロニケのクリスチャンたちにとって重要な注意です。現代の乱れた世界に生きるクリスチャンにとっても聞くべき言葉だと思います。
 
パウロは命令だけでなくて、その根拠も語っています。聖なる生き方の理由を語っています。5点以上があります。
 
1.あなたがたは「神を知らない異邦人」と違うから(5節)
それは差別的な宣言ではありません。神の恵みによって、テサロニケの人々は生ける真の神に出会いました。堕落した生活から立ち返りました。180°転換をしました。その転換は信じることによってスタートしますが、生活のすべてに影響があります。とくに、セックス生活は前の生活と大分違います。現代のセックスの習慣を考えるとクリスチャンは目立つ程違うのです。結婚前にセックスをすることは当たり前となっています。パウロははっきり言っています。クリスチャンであるなら、あなたは違います。セックスは結婚の信頼安心関係のなかであるべき神からの祝福です。この世の考え方と価値観に負けないように注意してください。あなたは神を知っているから。神のみこころに従いなさい。
 
2.兄弟を大事にするから(6節)
次の理由は6節に書いてあります

「6:このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。」

結婚前に肉体的な関係を結ぶと相手に傷を与える危険性が高いのです。セックスによって人間は心も精神も一体となるので、いい信頼できる環境でなければ、さまざまなストレスが生まれる。赤ちゃんが与えられたら、大変になるし、中絶したら、罪悪感がのこるし、別れると精神的なダメージもあると思います。自分は大丈夫と思っても本当の責任は相手に対するものです。
 
結婚した方のなかでも、不品行などは兄弟にダメージを与えるでしょう。すくなくとも、子供に対する傷が大きです。兄弟姉妹を本当に愛しているなら、結婚以外に性的な関係をぜったいに結ばないはずです。
 
3.神は正しく裁かれるから
この世の教えではセックスは自由です。好きなように歩むようにと薦められています。残念ながら、クリスチャンはその流れに支配されています。パウロの警告に注意しましょう。神は性的な罪を裁きます。別な箇所でパウロはこう言っています。

1コリント6章「9:正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10:泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」

  神にとって罪は大きな問題です。神との関係がつぶれる原因です。ここで注意も加えたいのです。性的な罪は他の罪より悪いというわけではないのです。罪は罪で、認めるべきです。神の裁きはすべての罪に対して、性的な罪も含んでなされます。でも、最近の傾向では、結婚する前のセックスとか同性愛などは罪ではないと発言しているクリスチャンがいます。だまされないように注意してください。   パウロは言います。不品行は裁かれるべき罪です。ですから、その罪を悔い改める必要があります。覚えておきましょう。神様は罪を告白するなら、どんなひどいことでも赦して下さいます。さきに読んだ御言葉の続きを読みます。

「不品行な者」

は神の国を相続(そうぞく)することできません。

1コリント6章「11:あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」

  神は罪を裁きますが、神はイエスの十字架によってその罪の赦しの方法を与えて下さいました。 このように罪をまだ主の前で告白しなかったら、ぜひ、してください。神様の赦しを求めてください。哀れみ深い神様は必ず、悔い改める人を赦して下さいます。新しいスタートが出来ます。   4.聖なる生き方は神の召しだからです(7節)

1テサロニケの信徒への手紙一4章「7:神がわたしたちを招かれたのは、
汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」  

4番目に聖なる生き方の理由はそれは私たちの召しだからということです。
すなわち、それは神があたえてくださった使命です。
クリスチャンは召しとみこころに悩みます。悩まなくてもいいです。
クリスチャンの召し、神のみこころは簡単です。聖なるものとなることです。
残念ながら、召しということばは別の言い方で用いられています。
就職を考えると、私は「医者」に召されたという言い方を聞いたことがありま
す。聖書の言い方ではないのです。
聖書は召しについて、主に二つの使い方に絞(シボ)られています:
クリスチャンになることと聖なるものとなることです。
 
5.聖霊を拒む(こばむ)からです(8節)
 


8:ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖
霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。


 
5番目の理由は似ていますが、パウロの言葉に従わない人は実は、聖霊
なる神を拒む者になってしまいます。パウロは神に遣わされた使徒で、神
のことばを語るものです。そのことばは、人間のことばではなくて、啓示に
よって与えられた神のことばです。クリスチャンとは聖書を神の言葉として
受け入れる者です。聖霊を拒まないように、パウロのアドバイスを良く聞い
た方が良いのです。
 
パウロは聖なる生活を歩むようにと勧めました。たくさんな理由を挙げてい
ました。神を知るから、兄弟を大切するから、神の裁きを受けるから、神に
召されているから、聖霊を崇めているから。
パウロはクリスチャンの人生のアドバイザーのようです。
神の御心をはっきり語って下さいました。でも、本当に残念なことは、私たち
が他の所から、他の人から人生のアドバイスを求めがちです。聖書だけで
充分です。聖書に聴きましょう。
 
【さて:これから話すことは一番大事だ】
最後にパウロの最初の言葉を見ておきたいです。1--2節。

「1:さて、兄弟た
ち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。
あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたち
から学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩
みを今後も更に続けてください。2:わたしたちが主イエスによってどのよう
に命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。」

  実は、それはこの手紙の最後の言葉になります。「さて」という表現は(別
な訳では、「終わりに」「これから話すことは一番大事だ」という意味にとる
事ができます。   3--8節ではパウロは厳しいことばを語りました。でも、1--2節はその厳し
いことばの文脈です。 「兄弟たち・・・」 パウロは愛しているテサロニケにある神の教会の方々に対して語っていま
す。キリストにあって、お願いしています。主によって命じています。 彼らもキリストと結ばれています。福音によって変えられた人々です。手紙
のはじめ、パウロは彼等の「信仰の働き、愛の労苦とキリストへの望みの
忍耐」を感謝しました。神とのすばらしい交わりの関係があるからこそ、ま
た、イエスを主と信じているからこそ、神を喜ばすべき歩みを歩みたくなりま
す。実は、彼らは、もうすでに歩んでいます。ですから、パウロは 確信を
もって、「今後も、更に続けてください」と語りました。   皆さんに言います。もしこのような神との関係がなかったら、この箇所のこ
とばは聞き辛いと思います。そうだったら、まず、イエスを主として、信じな
さい。待っておられる神様は歓迎してくださるから、神に戻りなさい。   この聖書の言葉は主にクリスチャン向けのものです。「兄弟たち。・・・」 神のみこころを求めている人たちはお聞きください。 神のみこころはあなたがたがすべての生活において聖なる者として歩む
ということです。特に、今の時代に生ける者として、セックスの面で、聖なる
者として歩みなさい。その歩み方こそベストです。神を喜ばせる歩み方で
す。(おわり)

2006年09月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/73