主イエスを怒らせる事 ウイリアム・モーア

マルコによる福音書11:12−19

【イエスの御性格と怒り】
私達は神の御子イエス・キリストを考えるとき、どんなイメージが心に浮かぶでしょうか。先ず、愛を説いた優しい人物である事を思い出します。例えば、小さい子供達を抱いて、彼らを祝福しました。また、主は数えきれない病人を憐れんで癒して下さいました。そして、主は許しを大事にして、「あなたがたの中で罪を犯した事のない者が、先ず、この女に石を投げなさい」と言われました。更にイエスは全ての侮辱に耐えて、復讐する気持ちがちっともありませんでした。実に、主は御自分の敵の為に命を捨てて下さいました。しかし、今日の御言葉を聞くと驚きます。確かに、今日の個所はちょっと変わっていると思います。何故なら、主イエス・キリストがいちじくの木を呪った事と神殿から商人を追い出した事は御自分の性格にあんまり合わない行動に見えるからです。 今日、与えられた御言葉は二つの出来事を語ります。先ず、主イエスは実らないいちじくの木を呪って、その木が枯れてしまいました。そして、それから主はエルサレムにある神殿へ行って、境内で商売をする商人と両替人を神殿から追い出して、その腰掛けをひっくり返しました。いくら言っても今日の個所は主の怒りをはっきりと現します。実は、その時、イエスはいきどうりに燃えていました。

ここでは問題点がありそうですね。と言うのは、怒りは罪ではありませんか。しかし、聖書の証によりますと、イエス・キリストは罪を一つも犯されないお方です。その故こそ主は私達の罪を償う事が出来ました。この矛盾した点についてどう解釈しますか。恐らくその道は怒りの正しい理解にあります。

【悪に対する怒り】
あるクリスチャン心理学者は怒りについてこのように書きました。「悪に対して怒りを感じられない人は実際に善について熱意があんまりありません。悪と不正を憎まない者は、正義の為の愛が疑わしいです。」その言明はエフェソの信徒への手紙にあるこの御言葉をよく説明すると思います。その御言葉は、

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」(エフェソ5:26)。

つまり、自己中心的怒りはいつも罪です。怒る事を通して自分の立場と権威を守る為であるなら、それは悪です。癇癪を起こす事や、怒りを持って下品な言葉を言う事や、個人攻撃と脅しなどはいつも罪です。しかし、私達は悪と罪と不正に対して怒りを感じるべきです。そうしないと、神の正義が分からなくなります。

【わたしたちの怒り】
私達が示す怒りはどんなタイプなのでしょうか。自己中心的怒りですか。それとも、悪と不正の為の怒りでしょうか。最近、自分が怒った事を思い出して下さい。何の為の怒りでしたか。私達の殆どの怒りは自分の為だと思います。自分に対する侮辱を感じる時、自分に迷惑がかかって来る時、自分に対し罪が犯された時など私達は怒りを覚えます。例えば、夫婦喧嘩もそう言うものだと思います。色々な原因がありますが、結局、お互いに責める事とお互いに自分の誤りを正当化する事になってしまいます。このような自己中心的怒りを示すとき罪を犯します。たから普段私達が怒ったりする時は罪を犯さない場合が少ないのだと思います。皆さん、今マスメデイアを通して中東で戦争が起き、あちこちで毎日沢山の人が殺されています。戦争で無邪気な子供が殺された事で怒りを感じた事がありますか。弱い立場の者に対する不正と圧迫の事で怒りますか。または、最近、自分自身の罪と不信仰に対して怒りを覚えた事があるのでしょうか。そのような義憤を経験したら、怒ることがあっても、罪を犯しません。実は、そのような怒りがもっと必要です。

【主イエスの二つの怒りの出来事】
今日の朗読に於ける二つの事件はそのような怒りを示します。実は、主イエスは急に怒り出したのではなく、その両方を前もって計画したのです。その二つの事件は譬え話のようなものなのです。旧約聖書の預言者と同様に主イエスも具体的な物に基づいて教えられました。預言者エレミヤは軛を自分の首につけて、町の道路を歩きました。それは神の裁きを警告した印になりました。また預言者エゼキエルは自分の持ち物を鞄に詰め込んで歩き回りまわった事によって、民が国からの追放されることを予言しました。同じようにイエスはいちじくの木を呪った事と神殿から商人を追い出した事を通して人々に大事な真理を伝えて下さいました。

【実のないイチジクの木】
さて、今日の朗読に於ける一番目の出来事を見てその意味を学びましょう。マルコによる福音書11:12からもう一度お読み致します。

「翌日、一行がベタニアを出る時、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉のしげったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。弟子達はこれを聞いていた。」

この事件を表面的に見ますと、イエスはちょっと酷い事をなさいました。空腹を覚え、いちじくの木から実を取ろうと思いましたが、全然なかった為、怒って、その木を呪いました。もしそれだけだったら、あんまり為にならない出来事と誰でも同意するでしょう。しかし、いちじくの木はイスラエル民族のシンボルでありました。唯一の神はイスラエルを御自分の特別な民として選んで下さり、イスラエルを通してこの世の全ての民を祝福する御旨がありましたが、イスラエルは実を結びませんでした。つまり、その使命を果たす気が足りなかったです。イスラエルは真の信仰を頂きましたのに、心から神に従おうとしませんでした。表面的にその宗教を守りましたけれども、実際に心は神から遠く離れていました。そのような人々は神の正しい裁きと怒りを招くと言うメセージを伝える為にいちじくの木を呪いました。この同じ意味で主イエスは譬え話を語りました。

「ある人が葡萄園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが、見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だがら切り倒せ。何故、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい。』(ルカによる福音書13:6−9)

主イエスは私達に真の信仰と永遠の救いを授けて下さいました。それには理由があったのです。もちろん第一に御自分の愛を現すように私達を祝福しました。しかし、実を結ぶ為にも私達に信仰の恵みを賜りました。イエス・キリストはこのように言われました。

「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。」(ヨハネによる福音書15:16)

そして、私達はどのような実を結ぶべきかと聞きますと、ガラテヤの信徒への手紙にこのリストがあります。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(5:22)

私達はこのような実を結んでいますか。

【神殿の境内での出来事】
今日与えられた御言葉の第二の出来事はエルサレムの神殿で起こりました。15節から朗読します。

「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶ事もお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」

と記されています。

生け贄を捧げる為に全国から、また外国からも、多くの人々はエルサレムの神殿に参りました。神殿は立派な大建築物でした。高さはほぼ40メートルで、その敷地は500×400メートルでした。神殿は立派ですけれども、主イエスが眺めた光景は大変醜いでした。

実は、その光景を見ると怒りが燃え上がりました。何故なら、神殿の境内がショッピングモールのようになっていました。生け贄になる数えきれない程の羊と山羊と鳩は囲いと籠にあって、自分の運命を待ちました。そして、商人はその動物を礼拝者に呼びかけ売りました。さらに、両替人も自分の仕事を境内で行いました。ある面でその商売人は必要な勤めでした。遠くから来た礼拝者は生け贄の動物を家から連れて来る事は難しいし、神殿で使うお金を持って来なかった人は献金する為に両替人のサービスがいりました。しかし、それは大変曲がった商売でした。主イエスが言われましたように、彼らは祈りの家の神殿を強盗の巣にしてしまいました。何故なら、祭司達はその商売を監督しました。そして商人からその上前(うわまえ)をはねました。もちろんその結果は非良心的な価格でした。生け贄の動物は大変高くなり、また両替のとんでもない手数料を取りました。そして、もし礼拝者は生け贄の動物を持ち込むと、なかなか神殿祭司達の検査に通過するのは難しかった。結局、祭司達と商人はその不正を通して豊かになりましたが、貧しい礼拝者には大変な負担になったのです。主イエスは神殿でその不正を見ると怒られました。強欲な祭司達と商人達は自分たちの個人的利益の為、イスラエルの宗教を利用したからです。また、彼らは敬虔な者に負担を無理強いしたから、主イエスは怒りに燃えて、商人を神殿から追い出しました。

【神殿の境内は異邦人が入ることを許された】
ところで、その不正な商売は神殿のその外側の境内で行いました。異邦人、つまりユダヤ人ではない人は神殿そのものに入る事が許されなかったけれども、外側の境内で神を礼拝しました。ですから、彼らはその不正と貪欲の中で祈らなければなりませんでした。それは異邦人には大きなつまずきになったと思います。神殿は

「全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべき」

ですけれども、祭司達はその大事な使命を無視し、自分の儲けを第一にしました。

愛する兄弟姉妹、信仰と宗教を悪用する者に対する主イエスの怒りはまだ燃えていると思います。更に、今も主は実を結ばない信仰を憎んでいます。主イエスは今の私を見て、何と語って下さる事でしょう。(おわり)

2006年08月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書

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