「キリスト者の祈り」グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)
1テサロニケ3:11--13
11:どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスと
が、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。
12:どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、
豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなた
がたを愛しているように。
13:そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる
者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの
父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくだ
さるように、アーメン。
【 祈りについての悩み】
クリスチャンや教会と関わると祈りという習慣を経験します。始めての方にとってクリスチャンが祈っている姿を見て変と思われるでしょう。見えない方を対象にして目をつぶって、普段に聞こえない言葉や表現を使って話していることはピンとこないでしょう。私は小さい時から祈っている人を見かけているのに、またクリスチャンなのに、祈りは不思議だと思っています。
実は祈りに慣れているクリスチャンの中でも悩んでいる人が多いみたいです。信仰生活の重要なことですが、祈る時間が少なすぎるし、罪悪感をもったり、祈っても神は答えてくれないし、それで、疑問が生まれます。礼拝では祈っていますが、心は付いてこない場合があります。日本に来てから、日本語で主の祈りを覚えるようになりました。子どもたちも言えます。英語ではできないと思います。でも、がっかりすることは、その祈りの言葉の意味が充分に分かってません。毎回無意識に祈っている時、「ちょっとまって、その意味を確認しましょう」と語りたくなります。
皆さんはどうでしょうか。祈りについての悩みや疑問ありますか。今日の箇所、ただの3節だけですが、パウロの祈りが記録されています。この祈りから学んでみたいのです。すべての疑問に答えるわけではないです。悩みの解決にならないかもしれません。でも、ちょっとでも励ましになればうれしいです。
1テサロニケ3:11--13をもう一度読みます。(略)
【いままでの話しの復習】
宣教師のパウロはテサロニケというギリシアの町に行って、福音を語りました。何人かの人々が神を信じるようになって、教会が生まれました。迫害のために、パウロは町から、追い出されました。離れたパウロはテサロニケの人々の信仰の状態が気になりました。テモテという同労者を遣わしました。彼はパウロの所に戻って報告したら、パウロはこの手紙を書いて送りました。
9--10節では良い報告を聞いたパウロの応答が書かれています。それは祈るという応答です。感謝と執り成しの祈りです。
テサロニケの信徒への手紙一9~10節
「9:わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。
10:顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」
11--13節はこの続きで、その祈りの内容が書かれています。
この箇所から祈りにつて3点を学びます:
【 祈りについて大事な3点】
1. 誰に祈るか。祈りの対象。
2. 何について祈るか。祈りの課題。
3. どうして祈るか。祈りの動機。
英語で言うと、who? what? why?
1. Who? (誰に対して祈るのか?)
「祈り」という言葉はキリスト教用語ではありません。クリスチャン以外の方もこの言葉を使っています。政治家は経済の発展のために「祈ります」。受験生は「合格するように」と祈ります。病人へのお見舞いカードーの挨拶のなかに「祈る」という言葉が含まれます。災難、たとえば台風の時、被害者のために祈るという言い方が耳に入ります。また亡くなられた方のために黙祷を捧げる習慣があります。
キリスト者の祈りと他宗教の人の祈りと未信者の祈りとはどう違うでしょうか。
明確な違いは祈りの対象です。祈りを理解するために、まず、どんな神に向かって祈っているか確認しなければなりません。
パウロは誰に向かって祈りましたか。
11節、パウロは
「私たちの父である神」
また、
「私たちの主イエス」
に願いました。すなわち、聖書の神に対して祈っています。
聖書の神は漠然(ばくぜん)とした曖昧な霊や力ではなくて、明確に啓示され、聖書に記録された言葉によって顕われた特別な性質を持って生きておられる方です。まとめらた名札のラベルのように神は
「父である神」
と呼ばれています。この呼びかけは意味深いです。聖書の神様は一言で説明することができません。創造者であり、イスラエルの救い主でもあり、国々と歴史の支配者、聖なる義に満ちた、すべての主権者です。でも、その偉い神様は
「父である」
神と呼ばれています。その表現は神の人格性を示すものです。神は人間である私たちに対して交わりを持とうとしています。普通の日本人の神観は神は恐いもので、できるだけ、近付いて行きたくないのです。聖書の神は違います。愛に満ちた、人格を持った、理想的な父親の存在です。コミュニケーションが出来る方です。喜びを分かち合う関係を結びたい方です。
「父なる神」って?まだピンと来ないかもしれない。次の呼び方に合わせて考えましょう。すなわち、「主イエス」。パウロは父である神と主イエスに対して祈っています。両方の表現はキリスト者の信仰告白のようです。神を父と呼ぶこと、とイエスを主と呼ぶことはクリスチャンの特徴です。聖書の神との正しい良い関係を表す表現です。実は、神は聖なる方で、人間は罪人で、その状態では、私たちは神に近付くことが出来ません。
しかし、神の子であるイエス・キリストが身代わりとなって、十字架で死んでくださったこと、と甦ったことによって、神に立ち返る道が開かれました。自分の罪を認め、キリストの十字架の出来事を認め、イエスは主である(マイ・ボス)と信じると神からの赦しをもらえます。敵であった神(遠い存在の神)との間の距離がなくなり、父なる神と呼ぶ、親子の信頼できる関係になります。
【三位一体の神】
気が付いているかもしれませんが、今の話しでは父なる神と御子イエスとに触れました。聖書の神観にはもう一人の人格(パーソン)がいます。聖霊なる神です。聖霊と父なる神と御子イエスはどんな関係でしょう。三位一体と呼ぶ関係です。唯一の存在、しかも三つ人格(パーソン)の関係。わかりにくいです。論理的に説明できません。でも、神の自己紹介である聖書を読むと、父・子・聖霊なる神、すなわち、交わりの姿勢をもつ神様に出会います。
テサロニケ3章では聖霊の役割が書かれてませんが、1コリンント12章3には次の言葉が書かれています。
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことは出来ません。」
すなわち、聖霊の働きによって、人は導かれ、イエスは主と信仰告白ができます。
また、ローマ8章15--16節では聖霊と「神を父と呼ぶこと」の関係が書かれています。
神を父と呼ぶことは聖霊の働きです。クリスチャンというのは聖霊を受けた者です。聖霊を受けることによって、神の子となります。神を父と呼ぶ特権にあずかります。「15:あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16:この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」
三位一体の神と祈りの関係を考えます。祈りはキリスト者(神との親子関係に生きる人)の特権です。祈りの活動は三位一体の神を信じることを表すものです。祈りは誰に対して:聖書の神様に対して。父である、御子なる、聖霊の神様への語りかけです。
(じっさいの祈りパターン)
「お父さん・・・キリストの御名によって、アーメン」
2.What?何について祈るか
次に、祈りの内容を考えましょう。 実は祈りの課題は、何でもいいのです。神様は細かいことから、大きいことまで関心があるからです。どのように祈ったら良いのか困る時、パウロの祈りからヒントをもらいます。テサロニケの信徒への手紙一3:11--13に戻りましょう。パウロは何について祈りましたか。
二つの祈りがあります。11節ではパウロは自分のために;12--13節では、パウロはテサロニケの人々のために祈りました。
11節、
「わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。」
現実的な祈りですね。パウロは愛しているテサロニケの人から離れています。何度も帰ろうとしましたが、出来なかった。理由が書かれてませんが、2:18によると、パウロは、
「それはサタンのせいだ」
と言っています。
生活がうまくいっていない場合、すぐに、それはサタンの働きだと言い訳をつけない方がいいと思いますが、祈ることは適切です。神はすべてのことを支配しておられます。ですから、どこでもの道を開くことができます。パウロは純粋な動機でテサロニケに行きたかったのです。時々私たちの動機は自己中心的です。祈りは希望通りに答えられないかもしれません。でも、気になっているなら祈った方がよいのです。イエス様のゲッセマネの祈りを覚えていますか。イエスは父なる神に切に祈った、十字架以外の道があればそれを選びたかったです。でも、それは神様のみこころではありませんでした。ある意味では、イエスの祈りは答えられなかったのです。私たちの祈りも答えられてないという印象が残ります。がっかりしないで、祈り続けることと神に信頼することは大事です。
次に12--13節ではパウロはテサロニケのクリスチャンたちのために祈っています。まとめると、彼等が、もっと愛し合うことが出来るようにと、聖なる者として歩むようにという執り成しの祈りです。
注目することだけ言います:
1.その祈祷課題は御心が行われますようにという意味です。愛することは律法のまとめと言われます。聖くなることも御心です(4:2)。神が望んでおられることを祈っているから、かならず、答えて下さると期待します。どう祈ったらいいのかわからない時、この祈り方なら間違いないのです。
人々がもっと愛しあうことができるように。
人々が聖なる者となりますように。
2.パウロはただ「頑張れ」と勧めません。パウロは神に向かって願っています。神に頼っています。父なる神、また、主イエスが愛を満ちあふれさせて下さいますようにと祈っています。神御自身は彼等の心を強めて下さるのです。祈りは神の力を用いられます。
3.パウロが願った愛は教会にいる人々だけでなくて、外へも向かうようなものです。祈りの視野を広げましょう。
パウロは父なる神また、主イエスに対して祈りました。パウロは自分のため、又、テサロニケの人々のために祈りました。パウロの祈りの課題は御心を叶えるものと関係がありました。
3.Why?なぜ祈るのか?
最後になぜ祈るのか?
二つの理由が上げられると思います。一つ言えることは神との関係があるからです。キリストを通して、聖霊によって、父なる神との関係があるからこそ祈る事ができます。
祈りと言うのは、この神との関係の活動です。パウロはその関係を喜びました。私たちも、その交わりの関係にあずかっているなら、当然、祈ります。神と話さないと交わりが薄くなるでしょう。人間関係を考えましょう。ずっと黙っているなら、冷たい関係になります。しゃべりすぎることも良くないのです。語り合うこと、聞き合おうこと、応答し合おうことによって、人間関係が成り立ちます。神との関係もその通りです。
御言葉を聞くこと、そして、応答として、祈ること。また、みこころを求めることと、みこころに従うことは交わりの基盤です。
もう一つの理由は13節から捉えます。それは終末の視点です。
13:そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。
キリスト者の信仰は終末的な信仰です。よみがえられた主イエスは今天におられます。最後の日にイエスは再びこの世に来られます。その時、神の最後の裁判が行われます。パウロはその日にテサロニケのクリスチャンたちが聖く、責められるところのない者として立てられるように願っています。これは神様がしてくださる救いの完成であり、私たちの希望でもあります。キリスト者はすでに救われています、そして、今救われつつ、そして、最後に完全に救われます。神の家族の者であるとともに、この堕落した世界の中に生きています。弱ったり、苦しんでいる者として、また自分の罪や世の誘惑や反対と悪魔の敵意と戦っている者として祈ります。待ち望んでいる者として祈ります。
祈りはクリスチャンの歩みに似ています。戦いのようです。祈りは信仰の実行です。神への信頼を言葉として(心の悩み、愚かさ、敵意、友人、不信仰、罪について、何でもいいです・・・)捧げることはクリスチャンライフの本質です。祈りの難しさと信仰生活はキリストが始めに来た時とキリストが再び来られる時の間、その緊張感のなかで起こります。
【祈りましょう!】
今日は祈りについての説教です。祈りについての学びは大切ですが、でも、そこで終わったら残念です。祈りはするものです。実行しましょう。最後にともに祈ってもらいます。一人だけが声を出しますが、それは代表者としてです。じつは、皆が祈ります。最後にアーメンを言いましょう。
2006年08月27日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
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