2006年8月

「キリスト者の祈り」グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)

1テサロニケ3:11--13

11:どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスと

が、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。

12:どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、

豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなた

がたを愛しているように。

13:そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる

者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの

父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくだ

さるように、アーメン。

【 祈りについての悩み】

クリスチャンや教会と関わると祈りという習慣を経験します。始めての方にとってクリスチャンが祈っている姿を見て変と思われるでしょう。見えない方を対象にして目をつぶって、普段に聞こえない言葉や表現を使って話していることはピンとこないでしょう。私は小さい時から祈っている人を見かけているのに、またクリスチャンなのに、祈りは不思議だと思っています。

実は祈りに慣れているクリスチャンの中でも悩んでいる人が多いみたいです。信仰生活の重要なことですが、祈る時間が少なすぎるし、罪悪感をもったり、祈っても神は答えてくれないし、それで、疑問が生まれます。礼拝では祈っていますが、心は付いてこない場合があります。日本に来てから、日本語で主の祈りを覚えるようになりました。子どもたちも言えます。英語ではできないと思います。でも、がっかりすることは、その祈りの言葉の意味が充分に分かってません。毎回無意識に祈っている時、「ちょっとまって、その意味を確認しましょう」と語りたくなります。

皆さんはどうでしょうか。祈りについての悩みや疑問ありますか。今日の箇所、ただの3節だけですが、パウロの祈りが記録されています。この祈りから学んでみたいのです。すべての疑問に答えるわけではないです。悩みの解決にならないかもしれません。でも、ちょっとでも励ましになればうれしいです。

1テサロニケ3:11--13をもう一度読みます。(略)

2006年08月27日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

「神に背負われる幸せ」 田村英典牧師・淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:イザヤ書46章1~4節

1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。 2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。

3:わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。

あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。4:同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

【キリスト教信仰が私たちに与える祝福】
キリスト教信仰が私たちに与える祝福には色々あります。一番大切なものはイエス・キリストの十字架の死と復活が、そのイエスを心から信じ依り頼む者に罪の赦しと永遠の命を与えることです。

しかし、これだけでなく、この中心的なものの回りに様々な祝福があります。例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章22、23は、主を心から信じる者に御霊が結ばせて下さる実を9つ上げます。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制で、どれも尊いです。これらが私たちの内に形成されるなら、どんなに幸いでしょう。

他に忍耐力もあります。聖書によると、忍耐力とは、物事がうまく進まず、万事が私たちの願っていることと正反対の状態にあると思える時でも、私たちが尚前進して行くことのできる力です。これもキリスト教信仰の与える優れた祝福の一つです。しかし、今朝はイザヤ46章4節の伝える

「神に背負われる幸せ」

を学びます。

【無力な偶像の神々】
ここはバビロンで崇められていた偶像の神々ベルやネボと比べて真の神はどういう方かを、神御自身が語られた所です。偶像は金銀で如何にうまくできていても、自分では動けず、動物に背負われて運ばれました。その動物が躓いたなら、偶像も転げ落ち、壊れます。偶像には何の力もありません。そんなものを信じていたら、人も疲れ、その挙句に悲惨な目に遭います。

【私たちを背負われる神】
真の神は違います。古代イスラエルは不信仰のために色々懲らしめを受けましたが、ここで神は、ご自分がどれ程慈しみ豊かであるかを示し、彼らに悔い改めを促されたのでした。それはともかく、ここで一番私たちの心に響くのは、神が私たち信仰者を背負って下さることだと思います。

少し想像してみます。親に背負われてスヤスヤ眠り、あるいは親の背中で嬉しさと喜びで一杯の幼子!何とも言えない心和む光景です。それを見る者にも温かいものが伝わって来ます。親に背負われている幼子程、平安で幸せなものはないでしょう。実はイエス・キリストへの信仰の故に神の子とされた者も、同じように神に背負われる幸せに与っているのです。聖書はこの素晴らしい事実を教え、私達を励まします。

2006年08月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヘブライ人への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

「クリスチャンが気になるものは?」グラハム・スミス-CMS宣教師・KGK主事

聖書:1テサロニケ2:17--3:10 

1.大事なもの
人生を過ごしながら、何が大事か、何がつまらないか、わきまえるようになります。人生の経験を重ねることによって、判断する知恵が与えられ、成長します。大抵、子どもは物を大切にします。食べ物や飲み物やおもちゃなど。また、今、すぐに得るものを欲しがります。子どもを買い物に連れていくとその傾向は明らかです。

大人はどうでしょうか。どんなことを大事にしようとしているでしょうか。頭では愛とか、平和とか、健康とか、家族を大切にしていると言われるでしょう。でも、日常生活を見ると、大人も物を大事にしています。利益になるものや自分を満たすものにはまっています。

普通の生活では何が大事かあまり深く考えないですが、時々何かのきっかけで考えさせられます。数年前に私の26歳の妹が原因不明で亡くなりました。そのことで、私と残された家族は大分変わりました。大人らしくなったり、つまらない話をさけたり、不完全なことを気にしなくなったり、「今」という時の意識が強くなって、生きている特権をいつも覚えるようになりました。

人が病気になると何が大事か反省するようになる場合が多いです。この前、旅行の直前、連れていく親戚の子どもが病気なりました。長い間計画を立てて、待ち望んだ休みをとれないような状態になりました。その時の思いを振り返えって見るとすごく恥ずかしいです。子どもの健康のことよりも、自分のことしか考えなかった。7万円の新幹線切符の損、宿泊費の損、バケーションのキャンセルの損ばかり考えました。病気の子どものことは気にせずに、自分のことだけ考えてしまいました。親戚の子供だったので、その親に対する怒りもありました。

もちろん、さまざまな経験から何が大事であるかを考えさせられますが、聖書を読むとその課題がよく出てきます。今日の箇所では、パウロとテサロニケの人々との関わり方から、本当に大事なことは何であるかが見えてきます。別な翻訳では「生きがい」という言葉が出てきます。パウロの生きる意味、生きる目的は何であるか、はっきり書かれています。私たちのいきがいと比べることができます。

2006年08月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 使徒言行録 , 新約聖書

主イエスを怒らせる事 ウイリアム・モーア

マルコによる福音書11:12−19

【イエスの御性格と怒り】
私達は神の御子イエス・キリストを考えるとき、どんなイメージが心に浮かぶでしょうか。先ず、愛を説いた優しい人物である事を思い出します。例えば、小さい子供達を抱いて、彼らを祝福しました。また、主は数えきれない病人を憐れんで癒して下さいました。そして、主は許しを大事にして、「あなたがたの中で罪を犯した事のない者が、先ず、この女に石を投げなさい」と言われました。更にイエスは全ての侮辱に耐えて、復讐する気持ちがちっともありませんでした。実に、主は御自分の敵の為に命を捨てて下さいました。しかし、今日の御言葉を聞くと驚きます。確かに、今日の個所はちょっと変わっていると思います。何故なら、主イエス・キリストがいちじくの木を呪った事と神殿から商人を追い出した事は御自分の性格にあんまり合わない行動に見えるからです。 今日、与えられた御言葉は二つの出来事を語ります。先ず、主イエスは実らないいちじくの木を呪って、その木が枯れてしまいました。そして、それから主はエルサレムにある神殿へ行って、境内で商売をする商人と両替人を神殿から追い出して、その腰掛けをひっくり返しました。いくら言っても今日の個所は主の怒りをはっきりと現します。実は、その時、イエスはいきどうりに燃えていました。

ここでは問題点がありそうですね。と言うのは、怒りは罪ではありませんか。しかし、聖書の証によりますと、イエス・キリストは罪を一つも犯されないお方です。その故こそ主は私達の罪を償う事が出来ました。この矛盾した点についてどう解釈しますか。恐らくその道は怒りの正しい理解にあります。

【悪に対する怒り】
あるクリスチャン心理学者は怒りについてこのように書きました。「悪に対して怒りを感じられない人は実際に善について熱意があんまりありません。悪と不正を憎まない者は、正義の為の愛が疑わしいです。」その言明はエフェソの信徒への手紙にあるこの御言葉をよく説明すると思います。その御言葉は、

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」(エフェソ5:26)。

つまり、自己中心的怒りはいつも罪です。怒る事を通して自分の立場と権威を守る為であるなら、それは悪です。癇癪を起こす事や、怒りを持って下品な言葉を言う事や、個人攻撃と脅しなどはいつも罪です。しかし、私達は悪と罪と不正に対して怒りを感じるべきです。そうしないと、神の正義が分からなくなります。

2006年08月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書