神の手にいる ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書10章22−30節

【羊】
バイブル・クイズではないんですが、聖書の中でどんな動物が一番多く言及されていますか。牛ですか。ラクダですか。馬ですか。それともウサギですか。そうですね。その動物も聖書に載ってあるんですが、ある動物は遥かにもっと出て来ます。実は、今日の聖書の朗読は質問の手掛かりになります。やはり、聖書には全ての動物の中で、羊は一番多く言及され、羊という単語は500回以上の所に載ってあります。

羊はなぜ聖書にそんなによく出て来るものなのでしょうか。それは、聖書の時代のパレスチナの人々には日常生活を通してもっとも必要とする大事な動物であったからです。例えば、その毛で布を織って着物を作りました。その乳を飲み、何よりもその肉はおもな食肉となりました。そして、その皮までも色々なところで物を作るのに使われました。ですから、羊はお金のような物になって、何かを買う時、羊で払う事が出来ました。更に、人々は神殿で生け贄をする時、羊を捧げました。社会に羊はなくてはならないものでしたが、また何処にでもいる家畜でもありました。それで皆は羊の事がよく分かりました。誰でも羊の性格と特徴までも詳しく知っていました。ですから、聖書は羊と羊飼いをシンボルとして何回も、何回も用いています。

【主は羊飼い】
旧約聖書の詩編23編にはこの有名な御言葉があります。

「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。」

そして、預言者エレミヤを通して神はイスラエルの人々にこのように約束しました。

エレミヤ書23章3−4節「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れる事も、おびえる事もなく、また迷い出る事もないと主は言われる。」

イザヤ書40章11節にこの御言葉があります。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

このように、聖書には羊飼いを愛する神のシンボルに、そして、羊は神の民、私達を表します。

【私は良い羊飼いである】
主イエスも御自分の教えに羊飼いと羊のたとえを豊かに用いられました。

「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命をすてる」(ヨハネによる福音書10:11)

と主がおっしゃいました。

そして、マルコによる福音書6章34節にこの御言葉が記されています。

「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

【私の羊は私の声を聞き分ける】
今日与えられた個所にも主は羊飼いと羊のたとえをもって、信じる者と御自分の関係を説明して下さいます。27節の所を見て下さい。

「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪う事は出来ない」

と主イエスが宣言されました。

愛する神は私達の為に羊飼いのような役割を果たして下さるのは心強いですね。神は私達一人一人を深く知り、いつも私達を見守って下さいます。私達の全てのニーズを与え、私達は何処へ行っても主は共にいて、害から守って下さいます。更に、良い羊飼いが羊の為に命を捨てるように、主は御自分の命を私達の為に犠牲にしたことで、神の大きな愛が分かります。主は私達にたいして羊飼いのような存在がある事は大きな慰めと力になります。

【羊の性質】
しかしながら、もし神は私達に対して羊飼いのような存在であるならば、私達は羊のようになりますね。私は羊との直接体験があんまりありませんが、一度六甲牧場へ行って羊を見物しました。実は、その印象はそれ程良くありませんでした。その日、羊はただ囲いの中で草を食べているばかりです。羊は虎のように早く走れないし、馬のような力がありません。そして、犬のように芸を教えられません。ただ与えられた餌を静に食べるだけです。

【羊には羊飼いが必要】
実は、羊は全ての家畜の中で一番賢くないかもしれません。奇麗な水がすぐ近くにあるのに泥水を飲みます。食べる事で夢中になり、群れから迷って方向が分からなくなり戻れません。そして、穴に落ちると自分の力で出るのは無理です。また、羊は自分の身を肉食動物から守る事が出来ません。狼かライオンが現れると、羊はいつも犠牲となります。

ですから、羊に羊飼いは絶対にいります。羊飼いから離れると、すぐ迷って、時間があんまり経たない内に命がありません。自分で水や草や雨宿り所などを探せないし、自衛力が全くないから助けのない家畜です。つまり、始めから終わりまで羊の幸福と生活と命さえも羊飼いに依存しています。羊飼いは羊を清水と青草にまで案内して全ての害から守ります。もし迷ってしまったら羊を救うまで探します。肉食動物が群れに近寄ると羊飼いはそれを追いやります。そして、夜になると羊飼いは羊をおりに入れて、夜が明けるまで番をします。

【主はわたしの羊飼い】
羊と羊飼いはその関係があったからこそ、主イエスはシンボルとしてその関係を用いて、信者と御自分の関係を説明して下さいました。神が私達人間を創造された時、御自分との関係と交わりを持つ為にお造りになりました。聖書によりますと神は御自分にかたどって人間を創造されました。つまり、動物と違って私達が愛する神を知り、主が私達の幸福の為に備えて下さった道を歩む事が出来ます。唯一の神に従い、頼って生きるとき、この世で始まり、しかも永遠まで豊かな命が経験出来ます。どんな事があっても主は私達と共にいて、支え助けて下さいます。主は私達の羊飼いのようなお方ですので、私達には何も欠ける事がありません。

【私の羊は私の声を聞き分ける】
さて、今日の聖書の個所を見て信者と主イエスの関係を学びましょう。27節にイエス・キリストの御言葉が記されています。

「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。」

【羊泥棒】
ある神学者が聖書に於ける羊飼いと羊の例えをもっと深く理解出来る為、イスラエルへ行って羊飼いと共に暮らしました。その羊飼いはある日、幾つかの羊がいなくなったと気がつくと、大変心配しました。そして、早速探しに行きました。「先ず、家畜市場へ行って探しましょう」と羊飼いが神学者に言いました。何故市場へ行って探すかと聞かれると、羊飼いは他の羊飼いが自分の羊を奪って、市場で売ろうとするからだと言いました。家畜市場へ着くと数えきれない程沢山の羊がうろうろしていました。羊は皆同じような様子ですから、羊飼いが自分の羊を見分ける事はかなり難しいと神学者が思いました。しかし、羊飼いは市場の真ん中に立って、大きな呼び声を出すと、自分の失った羊がその数えきれない程の群れからぞろぞろと出て来て、飼い主の方へ歩きました。自分の羊がどうしてその大勢の中から出る事が出来ると聞いたら、羊飼いはただ、

「私の羊は私の声が分かる」

と言いました。

【主の民はイエス・キリストの声に聞き従う】
同様に、イエス・キリストを知る私達は主の声を聞き分け、主に従います。つまり、主に対する愛を表すように、御自分の教えを学んで、実行します。私達がイエスを「主」と呼ぶ事は丁度その意味ではありませんか。イエスの群れに属する者は第一に御自分の声を聞き、その声に日常の生活で従います。

大変意味深い事だと思いますが、ここで主イエスは、「私の羊は私の声を聞き分ける。私を知っており、彼らは私に従う」と言われませんでした。実は、「 私の羊は私の声を聞き分ける。

私は彼らを知っており、

彼らは私に従う」とおっしゃいました。

と言うのは、私達が神を知るより、神は私達を遥かにもっとよく知っておられます。実は、神は私達一人一人を完全に知っておられます。ですから、主イエスの声を聞き従うように私達のそれぞれの弱さを助ける事が出来ます。更に、私達に丁度必要な恵みと励ましを授けられます。その上、神は私達を完全に知りながら、それにもかかわらず、続けて私達を愛して下さいます。

【主イエスは永遠の命を賜う】
更に主イエスは私達、御自分の羊についてこのように約束して下さいます。28節を見て下さい。

「私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪う事は出来ない。」

主イエスは御自分の十字架の贖いを通して永遠の命を、信じる者に自由に授けて下さいます。主イエスを神の御子、救い主として信じる者は皆永遠の命を賜わります。

この永遠の命はこの世で始まり、私達は死んでも天国で永久に主と共に生きられます。ですから、死を恐れなくても良いのです。イエス・キリストの御陰で死んでももっと豊かに生きる事が出来ます。そして、

「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪う事は出来ない」

と主が宣言されました。

この世の羊飼いは不完全であり、失敗があります。羊飼いが疲れて見えない時、狼が密かに群れに入り、羊を捕まえ、自分の巣まで引っ張って食べてしまいます。

しかし、完全である私達の全能の神は疲れる時も寝ている時もありません。ですから私達は決して滅びず、誰も何も御自身の手から私達を奪う事は出来ません。すなわち、誰でも信仰を通して主イエスの群れに入ると、私達は永遠にその群れに属しています。従って、私達は神の民としての特権と恵みを失う事がありません。神の家族に入る事は永久の事です。

【 親と子の絆は永久に】
家内と私には三人の子供がいます。もし子供達が名前と名字を変わり、いくら遠い所へ移り住んでいても、他の家に暮らしていても、その子供はまだ私達の子供です。また、私達の両親もいくら会えなくても、いくら遠くにいても、私達がいくら年をとっても、私達は両親の子供です。どんな事があってもその事実は変わりません。同様に私達は神の家に入ると、誰も私達を御自分の手から奪う事は出来ません。神の約束と恵みは変わらぬ、永久のものだからです。

愛である唯一の神は御独り子イエス・キリストを信じる者を完全に知り、そして誰も、何者も私達信じる者を御自分の手から奪う事は出来ません。それは永遠まで変わらぬ神が決められた事実です。どうか、ここに集う私達皆はその事実から来る喜びと平安と勇気と希望を溢れるように経験出来ますように。主イエスは宣言されました。

「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪う事は出来ない。」

(おわり)

2006年07月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

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