自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア

聖書:エレミヤ書1章4-10

【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。

【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。

【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。

【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。

【人間的な自尊心その1:能力】

このような私達の自尊心は一般的に何処から来るのでしょうか。多分何よりもそれは私達の能力と繋がっていると思われています。つまり、何かを良く出来る能力ある人は、人の賞賛を受け、自尊心が強くなると言う事です。例えば、競技マラソンで、沢山の相手をおさえて自分が一位で勝つ事によって、自尊心と自信を持つ事になります。他の人よりも優れていて、自分が比較的に価値のある者だと判断します。そして、その回数が多くなると、つい高慢になりやすいです。逆に、人と比べ良く出来なかったら、自分の価値があまり無いと見積もる傾向があるのです。やはり、適切な自尊心を得る為、自分の力と能力に頼ると、様々な問題が伴います。その標準よりも、もっと正しいものが必要ではないかと思います。

【人間的な自尊心その2:外観】
現代の社会は人を外観で判断する傾向が強いのです。ですから、私達の自尊心は自分の外的様子との関係が結構あります。しかし、誰でもモデルになる程の美しさがある訳ではありません。そして、自分がどんなに美しくても、歳月を経るに従って、外観の美を失ってしまいます。最近、美容外科の技術はかなり進んで来ていると言われますが、まだまだ奇跡は行えません。ですから、自尊心を自分の美しさと魅力に基づけると、いつか自尊心を失ってしまいます。そのような標準よりも、もっと正しい標準が必要です。

【人間的な自尊心その3:社会的地位】
さらに、ある人は自分の社会的地位から、自尊心を得ようとします。つまり、少しでも偉くなると、その事によって、自分が本当に価値のある人間だと判断してしまいます。地位の為、他の人より質が高いと思い込み、自分を高く評価します。しかし、自分の地位はいつまでも保証されていないで、失う事がよくあります。会社員の場合、首になる事も、リストラされる事も、定年退職も珍しくはありません。例えば、昨日まで社長だったのに、今日は職業を失ってしまいます。そうなると、自尊心はどうなりますか。必ず落ちてしまいます。ですから、自分の地位よりも、自尊心を持つ基準をもっと確かなものの上に築かなければならないと思います。

【人間的な自尊心その4:富み、学歴、名声】

又ある人は自分の自尊心を富みや学歴や国籍や名声などのようなものに基づこうとします。しかし、そのようなもので人間の価値を正しく計れないし、全ては必ずいつかはしぼんでしまいます。イザヤ書40章6-8節に記されているように、

「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、全ては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私達の神の言葉はとこしえに立つ」

のであります。

【真の自尊心の源】
実は、今朝の御言葉に真の自尊心の源がはっきりと啓示されています。預言者エレミヤは神によって召命を受けました。そして、その召命を通して私達の真の自尊心は何処から来るかが分って来ます。4節を見て下さい。

「主の言葉が私に臨んだ。『私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた』」

と神がエレミヤに言われました。

そうです、私達の造り主である全能の神が評価されることによって私達の価値を正しく見積もる事が出来ます。そして、神が与えて下さる価値に基づいて自分の自尊心を立てるべきです。創世記に記されていますが、

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」

と書いてあります。

さらに、神は預言者エレミヤと同じように、私達一人一人を特別にデザインして、ユニークな被造物として大事に、大事に、お造りになりました。そして、御自分の作品なる私達の為に、生涯の目的と計画をわざわざ与えて下さいました。私達は神にはとても大切な者です。主イエスによりますと、神によって、

「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」

程、神は私達を覚え高く評価されます。

【アンチックなネックレス】
ある観光客がパリへ行って、お土産としてノミの市でアンチックの琥珀(こはく)のネックレスを買いました。店員は二万円の価値をつけたが、彼はそれを一万円に値切りました。結構奇麗な物ですから、その本当の価値を知りたかったので、宝石商へ持って行って、値踏みを願いました。そして、「譲ってくれたら、三百万円を払う」と言われ、彼はもちろん驚きました。一万円で買った物が三百万円の価値になるとは特別な理由があると思い、今度は宝石専門家に見て貰いました。そして、専門家はネックレスをよく調べてから、二千万円程の価格をつけました。「一万円で買った私のネックレスがどうしてこんな高価になりましたか」と持ち主は聞きました。答えとして専門家は拡大鏡を彼に渡し、「お客さん、御自分でご覧なさい」と返事しました。そして、拡大鏡でネックレスを見ると小さい字でこの銘を読む事が出来ました。「フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトから皇后ジョゼフイーネへ」と。そうです、その名前がネックレスにあるからこそ、そんな高価な値打ちがありました。

【主イエスの名を刻まれた私たち】
皆さん、私達一人一人にも造り主、また、持ち主の名前が書いてあります。神は御自分の手で私達を大事に造って、そして、一人一人の人生に御自分の名前を記しました。私達は神に愛されたものです。御自分の御子イエス・キリストを十字架で犠牲にされた程私達を愛します。神は私達一人一人を計画して、この世で御自分の働きをさせて下さいます。実は、その事のみに私達の価値があります。神の目で私自分自身を見るとき、私の本当の価値が分ります。私達の自尊心は神の評価に基づいているべきです。そうしますと、私達は変わることのない、また、正しい自尊心を得る事が出来ます。

【神の召しに忠実に従ったエレミヤ】
預言者エレミヤは神によって召命を受けました。神は彼を計画し、母の胎内にわざわざ造って、そして、特別な働きをする為、任命しました。つまり、神はエレミヤを高く評価しました。しかし、自分の持ち物だけを見ると、エレミヤは自信がなかったのです。恐らく彼は神の評価を信じなかったから、自尊心が足りませんでした。6節の所を見て下さい。

「私は言った。『ああ、わが主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから』」

と。そうです、未熟な若者として語る言葉も知らず、預言者になれないと思い込んで、神から頂いた使命を断ろうとしました。しかし、神はエレミヤを高く評価して、その自信のないお話を許せませんでした。7節を見て下さい。

「『若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、誰の所へ遣わそうとも、行って、私が命じる事を全て語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた。」


召命を受けた時、エレミヤは実際に何も分らない青年でした。知恵と力と勇気が足りませんでした。神の助けがなければ、預言者の役割を果たす事はとても無理でした。しかし、神は御自分の知恵と勇気で共にいて下さる御臨在を約束しましたので、エレミヤは十分にその使命を果たす事が出来ました。宣教師と言う役割りも似ていると思います。私は日本人のように日本の事もよく知りませんし、日本語も話せません。しかし、この国へ行くように召命を受けて来て、教会、学校、病院、また周りの人を始め、色々な所で用いられ、神の証人となっています。そして、エレミヤと同じように神は語る言葉と力を備えて下さいました。神以外にエレミヤと私達一人一人も何も出来ないし価値があんまりありません。しかしながら、神の子供として歩むなら、私達は特別な者となり、生涯は永遠の意味と重要性があります。聖書に記されていますが、初めに、

「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)。

つまり、私達は価値のない土で造られましたが、神は御自分の命の息を吹き入れて下さいました。それは私達の栄光と価値です。主イエスはこのように言われました。

「私を離れては、あなたがたは何も出来ない。」(ヨハネ15:5)


それは事実です。しかし、使徒パウロが言った事、

「私を強めて下さる方のお陰で、私には全てが可能です」(フィリピの信徒への手紙4:13)

も事実であります。神を離れると人間は空しく無益ですから、確かな自尊心をなかなか得る事が出来ません。けれども、神の交わりと賜物を受けると私達の可能性は無限になり、私達の自尊心は不動な神に基づいて来ます。

その結果は確かな自信と自尊心ですが、同時に謙遜であります。何故なら、私達の価値は自分自身の長所から来るのではなく、神から来るものなのです。つまり、神の賜物のお陰で価値がある訳です。

「神の恵みによって今日(こんにち)の私があるのです」と使徒パウロが宣言(コリント一15:10)

しました。それは自信と自尊心たっぷりで謙遜であります。

天の父なる神はあなたを特別に御計画して造って下さいました。そして、御自分の働きをする為、召命され、力を与えて下さったのです。その故に私達は自信と自尊心が十分あります。

【神からくる自尊心】
誰でも同じですが、いつかある日、能力は抜け、外見と健康も衰え、自分の力で動けなくなる時が訪れて来ます。その時も自分の自尊心を富や、学歴や、名声や、資格などに置けますか。私達の自尊心は神が下さる変わらぬ大きな価値に基づいているなら、私たちは天に召されるまで自信と目的を持って、勝利者として堂々と豊に生きられます。(おわり)

2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/62