十字架上の御言葉(その4):「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ウイリアム・モーア
聖書:マタイによる福音書27章45-50
【父に縁を切られたエリザベス】
英国の詩人エリザベス・バレットは四十一歳で詩人同士のロバート・ブラウニングと結婚しました。しかし、残念ながらエリザベスの父親はその結婚を認めず、娘との縁を切ってしまいました。何故なら、奥さんを亡くした彼には、今度は娘がお嫁に行く事は大変辛かったからです。ですから、エリザベスが家を出た時から、父は彼女とまったく連絡せず、彼女を死んだ者のように扱いました。
結婚してからエリザベスとロバートはイタリアへ移りました。年月が経つにつれて、お父さんの心が和らいで来ると信じたエリザベスは、毎週お父さんに手紙を書きました。その手紙に彼女はお父さんに対する愛を表し、これからどうしても父と和解したい熱望も伝えたのです。しかし、彼女が父に数百枚の手紙を書いたのにも関わらず、返事は全く帰って来ませんでした。
エリザベスはやがて英国に帰りました。そして彼女は仲介者を通して父との関係を回復しようとしました。ある日、突然父からの小包が届きました。しかし、小包を開けて見ると、心が沈みました。そこには彼女が今まで父に送った手紙が全部入ってありました。そして、手紙を詳しく見ると、エリザベスは大変なショックを受けてしまいました。それは父がその手紙の一つも開けなかった事が明白になりました。心の慰めのない状態で父によって見捨てられた彼女は国をもう一度出て、終生愛した父と会う事はありませんでした。
見捨てられる事。きっとそれは我々人間には大変恐ろしい事です。特に、愛した者によって縁が切られる事は、涙と心痛と耐えられない孤独感を伴います。
【十字架上の第四のお言葉】
今日、続けてイエス・キリストの十字架からおっしゃった御言葉を学びたいと思います。そして、今日与えられた第四の御言葉はこの苦悶に満ちた主イエスの叫べです。
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
聖書に記されていますが、主イエス・キリストの処刑は6時間程かかりました。朝9時頃兵士達は主イエスの手と足を釘で打ち十字架につけました。そして、9時から12時の間に、苦しみを受けながら最初の三つの御言葉をおっしゃいました。皆さんはそれを覚えているでしょうか。第一は、
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」
と主が祈られました。そして、第二は、共に十字架に掛けられた一人の犯罪人に永遠の救いの約束をして下さいました。
「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
また、先週学びましたけれども、第三の御言葉として御自分の母マリヤに弟子ヨハネについてこのように言われました。
「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」
次に、ヨハネに向いて、マリアの事について、
「見なさい。あなたの母です」
とおっしゃって、マリアの将来を保証しました。
【全地は暗くなり】
そして、今日の聖句の45節によりますと、
「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」
と記されています。これは空が曇った事とか、太陽が日食によって暗くなったと言う、ただの偶然な事ではないと思います。実は、それは神からのしるしでありました。十字架に掛けられた間、イエス・キリストこそが全人類の罪の為の罰を御自分の身にお受けになりました。そして、その時、私達の罪の暗さが主イエスの魂を包んでしまいました。その霊的な出来事のシンボルとして神は誰もが分るように、全地を暗くさせました。間違いなく、その暗さを経験した人々は注目しました。そのような現象を見た事がないので驚き、恐れたでしょう。自分の目の前で刑を受けているイエスは特別な役割りを果たしていると悟ったと思います。
【預言の成就】
そして、突然、その深い暗さの中から、神の独り子の苦悩に満ちた叫び声。
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
原文を見るとそれはライオンが出すような大声の叫びでした。実は、その主イエスの叫びは旧約聖書の詩編にある預言の成就でした。詩編第22編にこう記されています。
「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、うめきも言葉も聞いて下さらないのか。」
主イエスはヘブライ語もギリシア語も出来ましたけれども、その時、御自分の母語アラム語を使って、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
と叫びました。やはり、その霊的と肉体的に最も苦しい時、主イエスは母の元で習った言語に戻りました。
【全人類の罪のために】
その叫びは主イエスの徹底的苦しみをよく表現しましたけれども、
「神に見捨てられた」
その意味は何でしょうか。宗教改革者マーチン・ルーテルはこの十字架上の主イエスの御言葉を分ろうとする為、食べる事も、寝る事もせず、数日をかけて勉強しました。ついに彼は立ち上がって、このように言ったんだそうです。「神が神を見捨てる事なんて、誰がその事が分りますか。」人間にはそれは分り難いかも知れませんが、主イエスはその叫びで、とても大事な事を私達にお伝えになりました。つまり、御自分の十字架を通して私達の為に何をなさったかをはっきりと教えて下さいました。イエスは、
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
とお聞きになりましたが、実際に主はその答えが始めから分っていました。実に、あなたと私と全人類の為に、主イエスはその時、父なる神によって見捨てられたのです。
【人に見捨てられたイエス】
イエス・キリストはこの世を歩んだ間、人間によって見捨てられた事をよく経験されました。御自分の郷里の者は主のメセージを拒否しました。自分の国の指導者達は主を十字架につけてしまったのです。御自分の弟子達さえもイエスを見捨てました。さらに一人の弟子ユダはお金の為に主を裏切って御自分の敵に渡しました。また、その残りの弟子たちは危険な時、自分達を守るように、イエスを捨てて逃げてしまいました。ヨハネによる福音書1章11節に記されているように、
「言(すなわちイエス)は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
その辛い経験がよくあったのですが、父なる神はいつも御自分と共にいて下さいました。イエスはよく独りで寂しい所へ行って祈られました。その時、愛する神と対話をして、力と慰めと癒しを受ける事が出来ました。周りの人間が彼を侮辱し見捨てても、神の交わりと助けに頼りました。しかし、十字架に掛かっていた間、父なる神さえも独り子イエスから遠ざかって、共にいて下さいませんでした。その時、主イエスは始めてそう言う事を体験されました。そして、その極度の辛さと恐怖から、遠ざかってしまった天の父に
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
とお叫びになりました。
【父なる神に見捨てられたイエス】
罪深い私達はその時の主イエスの気持ちがなかなか分らないのです。なぜなら、私達は神の交わりをそんなに大事にしないで、ある時はその交わりから遠ざかりたいと思います。しかし、イエス・キリストには神との関係が全てでした。主イエスのその気持ちと比べられるものはなかなかありません。しかし、皆さんが小さい時、始めて幼稚園や学校に連れられた事を覚えていますか。もしくは私達の子供を始めて幼稚園や保育所に入れた時の事です。主イエスの気持ちは小さい子供の幼稚園の最初の日の体験と少し似ていると思います。生まれてからずっとお母さんの愛と保護と世話に囲まれ、一分もお母さんから離れた経験がありません。そして、急にある日、騒々しい幼稚園に連れられて、知らない人に託せられ、お母さんが、「さようなら」と言って帰ってしまいます。それは大変辛い事です。パニックになって、「お母さん、お母さん」と一生懸命に叫びます。それから身も世もあらぬようにむせび泣き続けます。皆さん、父なる神が御自分の顔を十字架につけられたイエスに隠されると、主イエスはそのような苦悩を何倍も経験されたと思います。
愛する神はいったいなぜこのように独り子イエスを見捨て、苦しまれましたか。やはり、それは私とあなたと全人類の為です。十字架の時、神は人間が犯した全ての罪を主イエスに負わせてしまいました。アダムとエバの時代から現在まで、そして将来に犯す人間の全ての罪もイエスに架けたのです。私達の自己中心や恨みや、憎しみや、人種差別や、偶像崇拝や、不信仰や、悪い思いなど全てを主イエスに負わせました。それはどんなに大変な重荷だった事でしょう。その臭さと汚れは最も堕落した人もむかむかさせるものだと思います。ペトロの第一の手紙に記されているように、主は
「十字架にかかって、自らその身に私達の罪を担(にな)って下さいました。」
イエスは私達人間全ての罪を担うと、父なる神は主から去ってしまったのです。なぜなら、神は聖なる神ですから、罪を大目に見られません。愛された御自分の独り子が負った罪さえも見られないのです。その故に神は、御子から遠ざかりました。そして、十字架に掛かっていた主イエスは直ぐにその最も恐ろしい事を感じて、
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
と叫んだのです。
愛する兄弟姉妹達、主イエスは私達の罪を御自分の身に受け、私達に代ってその罪の罰を払って下さいました。イザヤ書53章5節にこの意味深い御言葉が書いてあります。
「彼がさしつらぬかれたのは、私達の背(そむ)きの為であり、彼が打ち砕かれたのは私達のとがの為であった。彼の受けたこらしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。」
その通りです。イエス・キリストは十字架で私達の為に死んで下さいましたので、神は私達の全ての罪を赦し、私達一人一人を御自分の尊い子供のように受け入れて下さいます。私達の造り主である神を知る事が出来、その素晴しい交わりと祝福に加わっているのです。永遠に唯一の神は私達を支え守って下さいます。さらに御自分の民として私達に意味のある奉仕をさせて下さいます。
【神は私たちを決して見捨てられない】
実は、主イエスは、
「我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
と叫びましたから、私達はその同じ言葉を叫ばなくても良いのです。主イエスの贖いのお陰で、神は決して御子を信じる者を見捨てる事がありません。いつでも、どんな状態であっても、死後にも、神は私達を愛し、助けて、共にいて下さいます。主イエスの贖いのお陰で私達は、
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
と叫ぶ事がありません。私達は使徒パウロと共にこのように言えます。
「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離す事は出来ないのです。」(ローマ8章38)
どうか私達一人も残らず、その同じ確信と信仰を持つようにと祈っております。
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